平安後宮悪姫伝 蟲愛づる姫は帝に寵愛される

 くわばら、くわばら。
 雷が落ちぬよう唱えるこのまじないは、かの菅丞相こと菅原道真公に由来している。謀反の疑いをかけられ大宰府に流された道真の怒りは、呪いのいかずちとなり都のあちこちを襲った。だが、道真の領地である桑原だけはその厄を免れた。だから雲行きが怪しいとき「ここは桑原の地だ」と空に向かって聞かせたのが始まりと言われている。
 地名から転じて桑の木そのものにも雷避けの効果があると信じられており、それは内裏のあちこちに植わっていた。
 女房たちに釘を刺してから数日。鳳子はその桑の葉を摘もうと庭に出た。桐箱の中で日に日に大きくなっていく蚕たちに与えるためだ。
 蚕は、人が世話をしてやらねば生きられない蟲だ。だが腹が減っても、暑くても寒くても、声一つ上げない。
 その様は健気で儚く、美しいと思う。愛しさを強く感じる。
 まるで夕菊だわ……白い稚児たちと夕菊の顔を交互に頭に描いて、鳳子はふふっと笑みを零す。
 あれから、女房たちが鳳子の御膳にまぜ物をすることはなくなったようだ。夕餉のとき、夕菊は鳳子と一緒に箸を進めるようになった。削げていた頬も、じき元に戻るだろう。
 その夕菊は今、鳳子とは別のところで桑の葉を摘んでくれている。まだ蟲に触れはしないが、できる限りの世話をしたいと申し出てくれた。
 鳳子は短い切袴に袿を一枚羽織っただけの軽装だった。夕菊には「梨壺の女御さまともあろう方がその出で立ちは……」と止められたが、つなぎの后の装いに文句をいう者がいるとは思えない。
 すっきりと短い袴は足さばきがよく、勢いに任せて歩いているうちに内裏の端の方まで来てしまった。
 このあたりは先日、蟲を捜していて通りかかったところだ。桑の葉も見つけたいが、やはり蟲にも会いたい。鳳子はきょろきょろとあたりを見回しながら、奥へ奥へと足を進める。
「あっ……!」
 やがて、鳳子の目は数本の木に釘付けになった。
 枝ぶりのよい橘の木だ。青々と茂っているその木の葉という葉に、鳥毛虫がたくさんたかっている。
 伸びるに任せた木の様子からして、手入れがされている気配はなかった。どこもかしこも綺麗に整えられすぎている内裏において、ここが……ここだけが、鳳子にとっては極楽浄土のように見えてくる。
 なんて賑やかなこと。鳳子は目を輝かせて木に駆け寄った。
 その拍子に風が起こって葉が揺れ、毛むくじゃらの蟲が一匹、ぽとりと地面に落ちる。
「まぁ、いけないわ」
 鳳子はその蟲をそっと拾い上げ、手に載せてほんの少し愛でたあと、葉の上に戻してやった。
 このあたりには人気(ひとけ)がないが、万が一誰かが来たら踏まれてしまう。
 葉の上で再び身をくねらせ始めた鳥毛虫を、鳳子はじっと見つめた。しばしそうしたあと、他の枝も確かめたくなって横を向く。
 そこで初めて、数本の木の向こうに何かがあるのに気が付いた。
 大人が数人入ればいっぱいになるほどの大きさの、粗末な小屋だ。
 まだ新しいようだが、壁や屋根には板がそのまま打ち付けてあるだけの代物。天井人たちが行き交う内裏にあって、それは明らかに似つかわしくない。
 なんのためにあるのかしら。鳳子は不思議に思ってその小屋に駆け寄った。
「……なっ、何なのだ突然」
 戸を開けた途端、そこにいた誰かが声を上げた。
 鳳子は思わず目を瞠った。
「主上……!」
 書物に埋もれるようにして背を丸めているすらりとした人物は、黎月帝だった。以前に目を合わせたとき纏っていたのと同じ若苗のかさねを身に着け、ふいにやってきた鳳子をまじまじと見ている。
 帝も驚いているが、鳳子も負けぬほど面食らっていた。まさか、こんなところで出会うとは……。
 先に落ち着きを取り戻したのは黎月帝の方だった。
「……こんなところに、わざわざ踏み込んで来る者がおろうとはな。鳥毛虫の涌く木の下を潜らねば辿り着かぬから、蟲壺、などと呼ばれているのに」
 掠れた声だった。咎めるというより、ただ困惑している。
「わたくしは蟲が好きなので」
 むしろ、なんといい呼び名なのだと心が弾む。そのことを正直に答えると、帝は「……そうだった」と幾分得心した様子で頷いた。
 鳳子はその膝の上に広げられている書物へ目を落とした。よく繰られたとみえ、紙の端が柔らかく毛羽立っている。
「それは、白楽天の詩文集ではございませんか!」
 連なる文字を二、三、目で追ってから言うと、帝はぴくりと肩を震わせた。
「……女のそなたが、漢の文を読めるのか」
「ええ。読まねばならぬ事情がございましたので」
 女に漢籍の知識など必要ないと考える貴族が大半である。
 だが、蟲のことがまとまっている書物は思った以上に少ない。どの草を食むのか、毒があるのか、薬になるのか……知ろうとすれば、唐の書物にあたるよりほかになかった。
 幸いにも亡き父がそういう類の書物をいくらか揃えており、他は袿や袴と引き換えにして得た。着たきり雀で夢中になって字を追ううちに、鳳子はいつの間にか、いろいろな文献を読みこなせるようになっていたのだ。
「蟲のために、漢籍を」
 鳳子の話を聞き、帝は何かを噛み締めるように繰り返した。
 しばし黙したのち、その口元が、ほんの少しだけ緩む。
「……では、この白楽天の詩も読んだことがあるのだな。どう思った」
「はい。素直に申し上げるなら――」
 そこから、二人の話は思いのほか弾んだ。
 詠まれている草木や鳥獣の話になると、鳳子は実際にそれがどこに生えどこに棲み、何を食むのかを語る。帝もまた漢籍には深く通じており、同じ時代の別の詩をすらすらと諳んじて、背景を教えてくれた。
 入内の日と、初めを目を合わせた日。黎月帝の顔に落ちていた暗い影はしだいに消えていった。
 話しながら、鳳子はそれとなくその姿を眺めた。
 細身で、背が高い。手足も長く、纏っている若苗のかさねがよく似合う。
 緑の衣に包まれた長く細い肢体を眺めているうちに、鳳子の脳裡にあるものが浮かんできた。
「稲子麿のよう……」
 帝の手が、文の端で止まった。
「それは、蟲か」
 帝が言った通り、稲子麿とはよく飛び跳ねる緑色の蟲だ。
 はい、と答えると、帝は手にしていた書物を閉じてしまった。涼やかに整った細面がいつの間にか、あの暗い影に覆われている。
 どうかなさいましたか――そう問いかけようとした、ちょうどそのとき。
「主上――! 主上は何処(いずこ)に」
 外から、帝を捜す声が割り込んできた。蔵人らしい。声の調子からして、急ぎの用があるのだと察せられる。
 帝は僅かに息を吐くと、書物を脇に置いた。
「……行かねばならぬ」
 立ち上がると、手足の長さがますます際立つ。やはり稲子麿のようだと、鳳子はその姿にしばし見入った。
 少し丸まった背中が、どこか物憂げに見えた。

 清涼殿の東廂では、蔵人が文を捧げ持って待っていた。帝が腰を据えるのを待ちかねていたかのように、それをすぐさま広げる。
 鳳子も気になってついてきた。御簾の外側……蔵人よりほんの少しだけ帝に近く、二人の話を妨げぬところにそっと座す。
 文はある国から届いたものだという。その地は冷害によって作物が実らず、民が飢えていた。ついては国に置かれた租税用の蔵を開き、蓄えられた穀物をみなへ分け与えてもよいか――そう記した右上がりの文字がひどく急いているように感じられた。蔵人も早くした方がいいと思ったようで、帝の裁可を乞うている。
 帝は文を手に取り、何度も読み返した。
 御簾の外からでも、戸惑っている様子がひしひしと伝わってきた。時折何かを言おうとするが、また背を丸めて考え込む……黎月帝はこれを幾度も繰り返している。
「主上、何かお困りか」
 そこへ、一人の男が駆けつけてきた。
 黒橡の袍に包まれたその姿。左大臣の大伴磐貞である。
 磐貞は御簾の内から黎月帝が差し出した文をひったくるようにして手に取ると、中身を一瞥するなり言い放った。
(いな)、とお答えください。蔵を開放するなど愚の骨頂」
 そのまま、控えていた蔵人に文を戻してしまった。渡し方はひどくぞんざいて、紙がくしゃくしゃになっている。
「主上、よろしいですかな。蔵を開けば税が減る。税が減れば、まつりごとに差し障りが出ましょう。一国を救わんとして、十国を危うくする――それでは、本末転倒にございます」
 もっともらしい理屈だった。一応は。黎月帝は御簾の内で、ただじっとしている。
 だが時折肩が震えていて、迷いが生じているのが見て取れた。帝の気持ちは、まだ定まっていないのだ。
「主上の御答えは『否』だ。そう伝えよ」
 だが、黎月帝がおくびにも出していないことを、磐貞が勝手に口にする。
 蔵人が文を持って立ち去ると、今度はその磐貞が、何やら紙の束を御簾の内に差し入れた。
「各国の国司たちから届けられた献上品の目録にございます。お目通しを。中身は蔵に納めてありまする。我が把握しているゆえ、主上がじっくり読み込む必要はありませぬぞ。見た、と一言お声を発してくださるだけでいい」
 黎月帝は差し入れられた目録を一つ一つ眺めた。半分ほど進んだところで、僅かに首を傾げる。
 何かに引っかかった様子だった。しかし帝が声を発する前に、磐貞がぐいっと身を乗り出す。
「すべて是、でよろしいですかな、主上。我はこのあと用があるゆえ」
 帝の判断を尋ねるようでいて、磐貞は明らかに圧をかけている。
 結局、黎月帝は何も言わず、目録の束を磐貞に返した。磐貞は満足げに文を押し頂き、慇懃に頭を垂れて下がっていく。
 その後姿を目で追いながら、鳳子は口を開いた。
「左大臣が行ってしまわれます。主上。お返事はあれでよろしかったのですか」
 黎月帝はまだ迷っているように見えた。……というより、あれでは左大臣の意のままに、ただ頷くだけの人形となっている。
 だが鳳子の問いに答える代わりに、帝は御簾の内で溜息を吐いた。
「……何も決められぬことを、責めておるのか」
 自嘲のまじった、ひどく苦しそうな声だった。思わぬことを言われて、鳳子はただ、その場で瞬きをする。
「所詮、私は蟲壺の主だからな」
 板を組み合わせただけの粗末なあの小屋。蟲壺という呼び方が、そこに籠もっているつなぎの帝を揶揄しているものだと鳳子はようやく気付いた。
 先ほど漢籍について語り合っていたときと、今。違うのは、二人の間に御簾があるかないかだ。
 たった一枚の薄い御簾が、鳳子にとってはひどく厚いものに感じられた。