それから半月ほどが過ぎた。入内してからそろそろ季節が一つ巡るというのに、黎月帝の御渡りは相変わらず一度もない。
だが、鳳子はそれを寂しいとは感じていなかった。つなぎの后など、所詮はこんなものだ。
ただやはり、蟲がいないのだけが物足りない。
その日はとうとう、女房たちがまだ目を覚まさぬうちに梨壺を抜け出して、鳳子は夜露の引かぬ庭に一人降り立った。朝早く、花の蜜や木の汁を吸いに来る蟲たちを捜すためだ。
空はようやく白み始めたばかりで、地面から足の裏へ冷えが伝わってくる。
分かってはいたことだが、やはり内裏の庭は美しかった。言い方を変えれば整いすぎていて、蟲たちが戯れる隙がない。
入内の話を持ち込んできた縁者に、何か入用なものはないかと形だけ聞かれたが、鳳子は多くを望まなかった。
代わりに、荒れ放題だった実家の庭木を内裏にそのまま植えたいと申し出た。蓑虫、寸取虫、烏毛虫……たくさんの蟲たちが棲み家にしているそれを、身近に置いておきたかったのだ。
だが結局、梨壺に連れてくることができたのは、桐箱の中の白いものたちだけだ。蟲に会いたい……そんな思いがどんどん募り、鳳子の足を前へ前へと進ませる。
気付けば、かなり端の方まで来ていた。すぐそこに、内裏と大内裏を隔てている壁がある。
このあたりは普段からあまり人が通らないのだろう。よく見ると、少し影になっているところに雑草が生えていた。あそこなら、何かいるかもしれない。
鳳子はそこへ駆け寄って、草の傍にしゃがみ込んだ。
と、そのとき、目の端を黒いものがよぎった。蟲にしては、あまりに大きすぎる。
顔を上げてみると、やはり蟲ではなかった。細身で背が高い殿方が、庭を突っ切ってこちらにやってくる。
身に着けているのは表が薄青、裏が黄の若苗のかさね。足音を忍ばせ、植え込みの陰から陰へと身を寄せて歩くその様は、まるで己の姿を誰の目にも触れさせたくないとでもいうようである。
やがて顔立ちが分かるところまで近づいて、鳳子は気付いた。
若苗のかさねを纏っているのは、黎月帝だった。入内の日に一目見ただけだが、あのときと同じく俯きがちで、顔に半分影がかかっている。
鳳子はしゃがんだままその姿を目で追っていた。
すると、黎月帝も顔をまっすぐにした。
露を含んだ朝の光の中で、二人の目が初めて合った。黎月帝はそのまま、鳳子の……己の妻の姿を、上から下まで眺める。
体裁を整えるためだけとはいえ、一応は夫婦だ。このまま黙っているのも変だと思い、鳳子はすっと立ち上がった。
「あの……」
しかし黎月帝は、声を発した鳳子から顔を背け、足早に立ち去ってしまった。
まるで見てはならぬものを見てしまったかのような……何かから逃げるような、そんな振る舞いだ。
帝は、鳳子のことを后と思っていないのかもしれない。そう考えたが、溜息を一つだけ吐いて重たさを振り払う。
こんなことは、初めから分かっていたことだ。いちいち気落ちしていたら后などやっていられない。
鳳子は再び草の傍にしゃがみ込んだ。
しかし、その朝はとうとう、蚯蚓の一匹すら見つからなかった。
「鳳子さま。御膳にございます」
日が暮れかけたころ、夕菊が膳を掲げて几帳の内に入ってきた。髪が器に落ちぬよう元結いで差し揚げており、顔の形が露になっている。
その頬が、僅かにこけているのが気になった。袖口から見えている指も心なしか骨ばっている。
だが鳳子が何か言う前に、夕菊は膳を置いて少し離れたところに座った。その動きがいつもと変わらなかったので、気のせいかと思い箸を取る。
どさり、と音がしたのは、器が半分ほど空いたころだ。
目をやったとき、夕菊はすでに倒れていた。鳳子は箸を放り出す勢いで傍に寄り、その半身を抱え起こす。
腕に収まった身体が余りにも儚げで、思わず息を呑んだ。まるで枯れ枝を抱いているようだ。近くで顔を見れば、頬はやはりかなり削げている。
夕菊は鳳子の入内と時を同じくして後宮に来た。そのころは十六という歳相応に、みずみずしくふっくらした顔立ちをしていたはずだ。
なのに、今は痩せ細っている。身体に力が入らないらしく、鳳子に支えられたまま動かない。
「夕菊。いつからこんな……。一体どうして? 食事が、とれていないのですか」
その問いに、夕菊は答えなかった。ただ唇を震わせ、悲しそうに目を伏せる。
鳳子は一旦夕菊の身体から手を離し、まだ箸を付けていなかった器を取ってきて、そのまま差し出した。
「これをお食べなさい。足りなければ他のものも」
夕凪は器の中に入っている干し棗にほんの少し目を留めたが、慌てて頭を振った。
「そんな。鳳子さまの御膳をいただくなんて……うぐっ!」
有無を言わさず、干し棗を口に放り込む。
独特の甘さが舌に染み込んだのか、夕凪はしばしうっとりと目を閉じた。それでだいぶ元気を取り戻したらしく、鳳子の前で居住まいを正す。
「何があったの」
再び問うと、夕凪は肩を落として話し出した。
「鳳子さまのお膳に……あの方々が、よからぬものをまぜているのです。私はそれを見てしまって……」
あの方々、で十分に通じた。先日、簀子で夕菊を立ち往生させていた上の女房たちだ。
おそらく、鳳子が作った三本目の川への意趣返しだろう。つなぎとはいえ后に面と向かって手は出せない。だから鳳子の見ていないところで御膳にまぜ物をしたのだ。
効果があるとしたら、不味くて困るか、せいぜい少し腹を下す程度と思われる。
「私の身分では、上の女房さま方を咎めることなどできませぬ。でも、誰かに告げ口をすれば私のせいだとすぐにばれて、扱いがますますひどく……。だから、よからぬものが入った御膳が鳳子さまのお口に入らぬよう、毎度、私の分と密かに取り替えておりました」
「何ですって?! では夕菊、あなたの食事は……?」
夕菊はふるふると首を横に振ったあと、絞り出すような声で言った。
「自分で乗り越えなさいと……鳳子さまが、そうおっしゃったので……」
鳳子はしばし、言葉を失った。
夕菊が口にしたのは、いつぞや簀子で、背を向けざまに投げてやった一言。
誰も助けてくれぬのなら一人で立つよりほかにない――鳳子はそうやって生きてきた。何もかも己の手でこなしてきた。だからこそあの言葉が出た。
だが自分の矜持と、夕菊のそれとは、似て非なるものだ。健気というのも、ここまでくれば不器用が過ぎる。
不器用だが、強い。鳳子の胸に、まっすぐ飛び込んでくる。
「……不甲斐ないわね。本当に」
鳳子の言葉に、夕菊は身を竦めた。
「も、申し訳ありませんっ」
「違うわ。なぜ夕菊が謝るの。不甲斐ないのはあなたじゃない。このわたくしよ。あなたの近くにいたのに、こんなことになるまで何も気付かなかった。わたくしは、自分に腹を立てているの」
「鳳子さま……」
自分についてくれているたった一人の女房が倒れるほど弱っているのに、その傍らで一人、呑気に食事をとっていたなんて……。
込み上げてくる怒りや情けなさを奥歯で噛み締めてから、鳳子は夕菊の両の肩に手を置いた。
「夕菊。よくお聞きなさい。乗り切るというのは、何もかも一人で立ち向かうことではないのです。時には声を上げなさい。助けを求めるのは、負けることではありません。使えるものは、みな使うのです」
「使えるもの……ですか」
「そうよ。なんでもお使いなさい。たとえそれが――帝の后であっても、ね」
「えぇ?」
信じられぬというように、夕菊が目を見開く。
その怯えと困惑の入りまじった顔を見下ろしながら、鳳子の胸の内ではもう次の算段が回り始めていた。
「あちらの方々は、少々やりすぎてしまったようね。――夕菊、耳を貸してちょうだい」
「はぁ」
夕菊はぱちぱちと瞬きを繰り返している。
鳳子はふっと口の端を引き上げ、小柄な女房の耳元に唇を寄せた。
翌日。
鳳子は柱の陰に身を隠し、息をひそめていた。
脇に桐の小箱を一つ抱えている。蓋の上に花を一輪、添えておいた。后からのささやかな贈り物といった、雅やかな拵えである。
少し離れたところでは、夕菊が水桶を抱えてうろうろと歩き回っていた。いかにも頼りなげなその姿は、例の女房たちにとって格好の獲物だろう。
后付きではない上の女房は、たいてい温明殿という殿舎に詰めている。鳳子たちが今いるのはその出入り口のあたりだ。待っていれば、あの女房たちは必ずここを通るはずである。
しばらくして、狙い通りこの間の女房たちがやってきた、夕菊を見つけると、意地の悪そうな笑みを浮かべてすぐさま近寄っていく。
「まぁ、ご機嫌よう。『枯れ菊』さん」
「やだ、女房名を呼び間違えているわ。この方は『萎れ菊』さんよ」
相変わらず、言いたい放題である。
呼び名でからかうことに飽きた女房たちは、今度は夕菊が引き摺っている裳をわざと足で踏みつけた。夕菊はそのたびに前や後ろによろけて、女房たちはふらふらしている様を指さして笑う。
しばらくして、とうとう夕菊の身体が大きく傾いた。その拍子に手にしていた桶の水が勢いよく撥ね、何人かの女房の袖を濡らす。
待っていたとばかりに、そのうち一人の女房が甲高い声を張り上げた。
「まあ、なんてこと! 表着が台無しだわ。参内の折、特別に仕立てた高価なものなのよ。どうしてくれるの」
「そうよ。弁償なさい」
女房たちは左右から夕菊を囲み、口々に責め立て始めた。自分たちが夕菊の裳を踏んだせいなのに、そのことは頭からすっぽり抜け落ちているようである。
柱の陰でその一部始終を眺めていた鳳子は心底呆れながらも――今だ、と見て取った。わざわざこの場に居合わせられるよう、待ちに待っていたのである。
「あなたたち、しゃーしゃー騒いで、一体どうなさったの」
鳳子はさも今通りかかりましたというような顔で、夕菊と女房たちの間に割って入った。
「しゃ、しゃーしゃー?」
女房の一人が怪訝そうな顔をする。
「そうよ。夏の蝉が、そんな風に騒ぐでしょう。でもこのたとえは駄目ね。あなたたちの声はもっと……」
そこでくすっと笑ってみせる。
蝉以下と暗に言われて腹が立ったのか、女房たちは一斉に眉を吊り上げた。また煩くなる前に、鳳子は抱えていた小箱をさっと女房たちに突き出す。
「話はだいたい聞こえました。わたくしの女房が粗相をしたのね。ならば、主のわたくしが償いましょう。これを、お受け取りになって」
表着を濡らしてしまった女房は、花で飾られた箱と鳳子の顔を代わる代わる見つめた。鳳子は躊躇いがちなその女房に、なるべく優し声で尋ねる。
「ご所望は上等の絹でよろしかったかしら。それでお気に召すといいのだけれど」
女房の頬がみるみる緩んだ。
何せ鳳子は腐っても后である。その后が『絹』と口にしながら手渡す箱の中身……期待が膨らむのも無理はない。
「蟲愛づる女……いえ、梨壺の女御さまがそこまでおっしゃるのでしたら」
などと口先だけで遠慮深さを装いつつ、女房は箱を受け取るなりすぐさま蓋に手をかけた。
「いやあああっ!」
中身が露になったその刹那、女房は悲鳴を上げて仰け反った。
桐箱の底では、丸々と肥えた白いものたちが、敷き詰められた緑の葉をかじりながらもそもそと蠢いている。
「な、何よ、これっ!」
女房が箱を放り出そうとしたので、鳳子は素早くそれを取り返した。
「ご存じないかしら。この子たちは――蚕の幼虫よ。大きくなれば、上等の絹を吐いてくれます。どう? ご所望通りのものでしょう」
今一度、鳳子が蠢く蟲を箱ごと差し出すと、女房たちは「きゃぁっ!」と叫んで後ずさった。
「残念ですわ。みな、こんなに可愛いのに」
これは本音である。
蟲たちの入った箱を丁寧に抱え直した鳳子を見て、女房の一人が呟いた。
「あ、頭がおかしいわ……」
なんとでもお言いなさいな。鳳子はそう返す代わりに、飛び切りの笑みを浮かべてみせる。
「そういえば、みなさまはわたくしの膳に、何やらよいものを入れてくださっていたとか。ありがたいことですわ」
女房たちは一斉に俯いた。扇でそそくさと顔を隠す者もいる。
鳳子は笑みを崩さず、さらに言った。
「今度はわたくしが、みなさまに美味しいものをお贈りしますわ。――食べられる蟲があるのを、御存じかしら」
白い蟲たちがひしめき合っている箱を、そこで見せつけるように持ち上げる。女房たちの顔がみるみる青ざめていった。
鳳子は夕菊の傍に寄り、肩にそっと触れる。
「夕菊は後宮に上がってからまだ日が浅く、粗相をするかもしれません。何かあったら、主であるわたくしに言ってちょうだいな。わたくしも――気を付けて見ていますわ」
これで、女房たちも悟ったはずである。
夕菊に何かしたら、それは后に歯向かうのと一緒。鳳子の監視の目は、常に光っているのだ。
「し、失礼いたしますわっ」
顔を引きつらせ、悔しげに唇を噛みながら、女房たちは我先にと逃げ去っていった。長い裾を踏みつけ、つんのめりそうになりながら駆けていく後ろ姿を、鳳子は満足げに見送る。
すべては昨夜、夕菊の耳に吹き込んでおいた筋書き通りだった。
わざと水桶を持たせて温明殿の入り口あたりをうろつかせ、女房たちが絡んでくるのを狙っていたのだ。
女房装束を水で少し濡らしたのも手筈の内。頃合いを見て、蟲を携えた鳳子が出てくる算段だった。
「これで、あの方々もしばらくは大人しくしておりましょう」
鳳子は存分に女房たちを驚かせてくれた蟲たちをいたわるように見つめてから、そっと蓋を閉じる。
「あの……私、鳳子さまのお手を煩わせてしまって……」
傍らで、夕菊がどこかほっとした顔をしつつも肩を竦めていた。
「使えるものはなんでも使え――わたくしはそう言ったはずですよ、夕菊」
「でも……」
まだおどおどと俯こうとしている夕菊の言葉を遮って、鳳子ははっきりと言った。
「夕菊。あなたはよく頑張りました」
「……鳳子さま」
夕菊の顔が、ふいに綻んだ。
鳳子は夕菊の笑った顔を初めて見た。自分の頬まで思わず緩んでしまう。
「あなたはまるで、蚕ね」
思わず漏れたその言葉に、夕菊が首を傾げた。
「……え、蚕? 私が、ですか」
「そうよ」
箱の中で蠢く、白くて可愛いらしいものたちに思いを馳せ、鳳子はほうっと息を吐いた。
だが、鳳子はそれを寂しいとは感じていなかった。つなぎの后など、所詮はこんなものだ。
ただやはり、蟲がいないのだけが物足りない。
その日はとうとう、女房たちがまだ目を覚まさぬうちに梨壺を抜け出して、鳳子は夜露の引かぬ庭に一人降り立った。朝早く、花の蜜や木の汁を吸いに来る蟲たちを捜すためだ。
空はようやく白み始めたばかりで、地面から足の裏へ冷えが伝わってくる。
分かってはいたことだが、やはり内裏の庭は美しかった。言い方を変えれば整いすぎていて、蟲たちが戯れる隙がない。
入内の話を持ち込んできた縁者に、何か入用なものはないかと形だけ聞かれたが、鳳子は多くを望まなかった。
代わりに、荒れ放題だった実家の庭木を内裏にそのまま植えたいと申し出た。蓑虫、寸取虫、烏毛虫……たくさんの蟲たちが棲み家にしているそれを、身近に置いておきたかったのだ。
だが結局、梨壺に連れてくることができたのは、桐箱の中の白いものたちだけだ。蟲に会いたい……そんな思いがどんどん募り、鳳子の足を前へ前へと進ませる。
気付けば、かなり端の方まで来ていた。すぐそこに、内裏と大内裏を隔てている壁がある。
このあたりは普段からあまり人が通らないのだろう。よく見ると、少し影になっているところに雑草が生えていた。あそこなら、何かいるかもしれない。
鳳子はそこへ駆け寄って、草の傍にしゃがみ込んだ。
と、そのとき、目の端を黒いものがよぎった。蟲にしては、あまりに大きすぎる。
顔を上げてみると、やはり蟲ではなかった。細身で背が高い殿方が、庭を突っ切ってこちらにやってくる。
身に着けているのは表が薄青、裏が黄の若苗のかさね。足音を忍ばせ、植え込みの陰から陰へと身を寄せて歩くその様は、まるで己の姿を誰の目にも触れさせたくないとでもいうようである。
やがて顔立ちが分かるところまで近づいて、鳳子は気付いた。
若苗のかさねを纏っているのは、黎月帝だった。入内の日に一目見ただけだが、あのときと同じく俯きがちで、顔に半分影がかかっている。
鳳子はしゃがんだままその姿を目で追っていた。
すると、黎月帝も顔をまっすぐにした。
露を含んだ朝の光の中で、二人の目が初めて合った。黎月帝はそのまま、鳳子の……己の妻の姿を、上から下まで眺める。
体裁を整えるためだけとはいえ、一応は夫婦だ。このまま黙っているのも変だと思い、鳳子はすっと立ち上がった。
「あの……」
しかし黎月帝は、声を発した鳳子から顔を背け、足早に立ち去ってしまった。
まるで見てはならぬものを見てしまったかのような……何かから逃げるような、そんな振る舞いだ。
帝は、鳳子のことを后と思っていないのかもしれない。そう考えたが、溜息を一つだけ吐いて重たさを振り払う。
こんなことは、初めから分かっていたことだ。いちいち気落ちしていたら后などやっていられない。
鳳子は再び草の傍にしゃがみ込んだ。
しかし、その朝はとうとう、蚯蚓の一匹すら見つからなかった。
「鳳子さま。御膳にございます」
日が暮れかけたころ、夕菊が膳を掲げて几帳の内に入ってきた。髪が器に落ちぬよう元結いで差し揚げており、顔の形が露になっている。
その頬が、僅かにこけているのが気になった。袖口から見えている指も心なしか骨ばっている。
だが鳳子が何か言う前に、夕菊は膳を置いて少し離れたところに座った。その動きがいつもと変わらなかったので、気のせいかと思い箸を取る。
どさり、と音がしたのは、器が半分ほど空いたころだ。
目をやったとき、夕菊はすでに倒れていた。鳳子は箸を放り出す勢いで傍に寄り、その半身を抱え起こす。
腕に収まった身体が余りにも儚げで、思わず息を呑んだ。まるで枯れ枝を抱いているようだ。近くで顔を見れば、頬はやはりかなり削げている。
夕菊は鳳子の入内と時を同じくして後宮に来た。そのころは十六という歳相応に、みずみずしくふっくらした顔立ちをしていたはずだ。
なのに、今は痩せ細っている。身体に力が入らないらしく、鳳子に支えられたまま動かない。
「夕菊。いつからこんな……。一体どうして? 食事が、とれていないのですか」
その問いに、夕菊は答えなかった。ただ唇を震わせ、悲しそうに目を伏せる。
鳳子は一旦夕菊の身体から手を離し、まだ箸を付けていなかった器を取ってきて、そのまま差し出した。
「これをお食べなさい。足りなければ他のものも」
夕凪は器の中に入っている干し棗にほんの少し目を留めたが、慌てて頭を振った。
「そんな。鳳子さまの御膳をいただくなんて……うぐっ!」
有無を言わさず、干し棗を口に放り込む。
独特の甘さが舌に染み込んだのか、夕凪はしばしうっとりと目を閉じた。それでだいぶ元気を取り戻したらしく、鳳子の前で居住まいを正す。
「何があったの」
再び問うと、夕凪は肩を落として話し出した。
「鳳子さまのお膳に……あの方々が、よからぬものをまぜているのです。私はそれを見てしまって……」
あの方々、で十分に通じた。先日、簀子で夕菊を立ち往生させていた上の女房たちだ。
おそらく、鳳子が作った三本目の川への意趣返しだろう。つなぎとはいえ后に面と向かって手は出せない。だから鳳子の見ていないところで御膳にまぜ物をしたのだ。
効果があるとしたら、不味くて困るか、せいぜい少し腹を下す程度と思われる。
「私の身分では、上の女房さま方を咎めることなどできませぬ。でも、誰かに告げ口をすれば私のせいだとすぐにばれて、扱いがますますひどく……。だから、よからぬものが入った御膳が鳳子さまのお口に入らぬよう、毎度、私の分と密かに取り替えておりました」
「何ですって?! では夕菊、あなたの食事は……?」
夕菊はふるふると首を横に振ったあと、絞り出すような声で言った。
「自分で乗り越えなさいと……鳳子さまが、そうおっしゃったので……」
鳳子はしばし、言葉を失った。
夕菊が口にしたのは、いつぞや簀子で、背を向けざまに投げてやった一言。
誰も助けてくれぬのなら一人で立つよりほかにない――鳳子はそうやって生きてきた。何もかも己の手でこなしてきた。だからこそあの言葉が出た。
だが自分の矜持と、夕菊のそれとは、似て非なるものだ。健気というのも、ここまでくれば不器用が過ぎる。
不器用だが、強い。鳳子の胸に、まっすぐ飛び込んでくる。
「……不甲斐ないわね。本当に」
鳳子の言葉に、夕菊は身を竦めた。
「も、申し訳ありませんっ」
「違うわ。なぜ夕菊が謝るの。不甲斐ないのはあなたじゃない。このわたくしよ。あなたの近くにいたのに、こんなことになるまで何も気付かなかった。わたくしは、自分に腹を立てているの」
「鳳子さま……」
自分についてくれているたった一人の女房が倒れるほど弱っているのに、その傍らで一人、呑気に食事をとっていたなんて……。
込み上げてくる怒りや情けなさを奥歯で噛み締めてから、鳳子は夕菊の両の肩に手を置いた。
「夕菊。よくお聞きなさい。乗り切るというのは、何もかも一人で立ち向かうことではないのです。時には声を上げなさい。助けを求めるのは、負けることではありません。使えるものは、みな使うのです」
「使えるもの……ですか」
「そうよ。なんでもお使いなさい。たとえそれが――帝の后であっても、ね」
「えぇ?」
信じられぬというように、夕菊が目を見開く。
その怯えと困惑の入りまじった顔を見下ろしながら、鳳子の胸の内ではもう次の算段が回り始めていた。
「あちらの方々は、少々やりすぎてしまったようね。――夕菊、耳を貸してちょうだい」
「はぁ」
夕菊はぱちぱちと瞬きを繰り返している。
鳳子はふっと口の端を引き上げ、小柄な女房の耳元に唇を寄せた。
翌日。
鳳子は柱の陰に身を隠し、息をひそめていた。
脇に桐の小箱を一つ抱えている。蓋の上に花を一輪、添えておいた。后からのささやかな贈り物といった、雅やかな拵えである。
少し離れたところでは、夕菊が水桶を抱えてうろうろと歩き回っていた。いかにも頼りなげなその姿は、例の女房たちにとって格好の獲物だろう。
后付きではない上の女房は、たいてい温明殿という殿舎に詰めている。鳳子たちが今いるのはその出入り口のあたりだ。待っていれば、あの女房たちは必ずここを通るはずである。
しばらくして、狙い通りこの間の女房たちがやってきた、夕菊を見つけると、意地の悪そうな笑みを浮かべてすぐさま近寄っていく。
「まぁ、ご機嫌よう。『枯れ菊』さん」
「やだ、女房名を呼び間違えているわ。この方は『萎れ菊』さんよ」
相変わらず、言いたい放題である。
呼び名でからかうことに飽きた女房たちは、今度は夕菊が引き摺っている裳をわざと足で踏みつけた。夕菊はそのたびに前や後ろによろけて、女房たちはふらふらしている様を指さして笑う。
しばらくして、とうとう夕菊の身体が大きく傾いた。その拍子に手にしていた桶の水が勢いよく撥ね、何人かの女房の袖を濡らす。
待っていたとばかりに、そのうち一人の女房が甲高い声を張り上げた。
「まあ、なんてこと! 表着が台無しだわ。参内の折、特別に仕立てた高価なものなのよ。どうしてくれるの」
「そうよ。弁償なさい」
女房たちは左右から夕菊を囲み、口々に責め立て始めた。自分たちが夕菊の裳を踏んだせいなのに、そのことは頭からすっぽり抜け落ちているようである。
柱の陰でその一部始終を眺めていた鳳子は心底呆れながらも――今だ、と見て取った。わざわざこの場に居合わせられるよう、待ちに待っていたのである。
「あなたたち、しゃーしゃー騒いで、一体どうなさったの」
鳳子はさも今通りかかりましたというような顔で、夕菊と女房たちの間に割って入った。
「しゃ、しゃーしゃー?」
女房の一人が怪訝そうな顔をする。
「そうよ。夏の蝉が、そんな風に騒ぐでしょう。でもこのたとえは駄目ね。あなたたちの声はもっと……」
そこでくすっと笑ってみせる。
蝉以下と暗に言われて腹が立ったのか、女房たちは一斉に眉を吊り上げた。また煩くなる前に、鳳子は抱えていた小箱をさっと女房たちに突き出す。
「話はだいたい聞こえました。わたくしの女房が粗相をしたのね。ならば、主のわたくしが償いましょう。これを、お受け取りになって」
表着を濡らしてしまった女房は、花で飾られた箱と鳳子の顔を代わる代わる見つめた。鳳子は躊躇いがちなその女房に、なるべく優し声で尋ねる。
「ご所望は上等の絹でよろしかったかしら。それでお気に召すといいのだけれど」
女房の頬がみるみる緩んだ。
何せ鳳子は腐っても后である。その后が『絹』と口にしながら手渡す箱の中身……期待が膨らむのも無理はない。
「蟲愛づる女……いえ、梨壺の女御さまがそこまでおっしゃるのでしたら」
などと口先だけで遠慮深さを装いつつ、女房は箱を受け取るなりすぐさま蓋に手をかけた。
「いやあああっ!」
中身が露になったその刹那、女房は悲鳴を上げて仰け反った。
桐箱の底では、丸々と肥えた白いものたちが、敷き詰められた緑の葉をかじりながらもそもそと蠢いている。
「な、何よ、これっ!」
女房が箱を放り出そうとしたので、鳳子は素早くそれを取り返した。
「ご存じないかしら。この子たちは――蚕の幼虫よ。大きくなれば、上等の絹を吐いてくれます。どう? ご所望通りのものでしょう」
今一度、鳳子が蠢く蟲を箱ごと差し出すと、女房たちは「きゃぁっ!」と叫んで後ずさった。
「残念ですわ。みな、こんなに可愛いのに」
これは本音である。
蟲たちの入った箱を丁寧に抱え直した鳳子を見て、女房の一人が呟いた。
「あ、頭がおかしいわ……」
なんとでもお言いなさいな。鳳子はそう返す代わりに、飛び切りの笑みを浮かべてみせる。
「そういえば、みなさまはわたくしの膳に、何やらよいものを入れてくださっていたとか。ありがたいことですわ」
女房たちは一斉に俯いた。扇でそそくさと顔を隠す者もいる。
鳳子は笑みを崩さず、さらに言った。
「今度はわたくしが、みなさまに美味しいものをお贈りしますわ。――食べられる蟲があるのを、御存じかしら」
白い蟲たちがひしめき合っている箱を、そこで見せつけるように持ち上げる。女房たちの顔がみるみる青ざめていった。
鳳子は夕菊の傍に寄り、肩にそっと触れる。
「夕菊は後宮に上がってからまだ日が浅く、粗相をするかもしれません。何かあったら、主であるわたくしに言ってちょうだいな。わたくしも――気を付けて見ていますわ」
これで、女房たちも悟ったはずである。
夕菊に何かしたら、それは后に歯向かうのと一緒。鳳子の監視の目は、常に光っているのだ。
「し、失礼いたしますわっ」
顔を引きつらせ、悔しげに唇を噛みながら、女房たちは我先にと逃げ去っていった。長い裾を踏みつけ、つんのめりそうになりながら駆けていく後ろ姿を、鳳子は満足げに見送る。
すべては昨夜、夕菊の耳に吹き込んでおいた筋書き通りだった。
わざと水桶を持たせて温明殿の入り口あたりをうろつかせ、女房たちが絡んでくるのを狙っていたのだ。
女房装束を水で少し濡らしたのも手筈の内。頃合いを見て、蟲を携えた鳳子が出てくる算段だった。
「これで、あの方々もしばらくは大人しくしておりましょう」
鳳子は存分に女房たちを驚かせてくれた蟲たちをいたわるように見つめてから、そっと蓋を閉じる。
「あの……私、鳳子さまのお手を煩わせてしまって……」
傍らで、夕菊がどこかほっとした顔をしつつも肩を竦めていた。
「使えるものはなんでも使え――わたくしはそう言ったはずですよ、夕菊」
「でも……」
まだおどおどと俯こうとしている夕菊の言葉を遮って、鳳子ははっきりと言った。
「夕菊。あなたはよく頑張りました」
「……鳳子さま」
夕菊の顔が、ふいに綻んだ。
鳳子は夕菊の笑った顔を初めて見た。自分の頬まで思わず緩んでしまう。
「あなたはまるで、蚕ね」
思わず漏れたその言葉に、夕菊が首を傾げた。
「……え、蚕? 私が、ですか」
「そうよ」
箱の中で蠢く、白くて可愛いらしいものたちに思いを馳せ、鳳子はほうっと息を吐いた。


