桐箱の中で、むっちりとした白いものたちが、互いの身を押し合いながらうぞうぞと蠢いている。
節のある胴が縮んでは伸び、縮んでは伸び、敷き詰められた葉の上を、白い波となってゆるゆるとうねっていた。
なんて愛しいこと。
鳳子はそれを――親指ほどの大きさの蟲たちを見て、うっとりと目を細める。
みずみずしい若葉を一枚つまみ、白い群れの上へそっと置いてやれば、蟲たちは我先にと這い寄ってきた。その様を、いくら見ていても飽きない。
平安京に都が移ってから五十年余り。ここは帝のおわす後宮の、梨壺と呼ばれる殿舎だった。
鳳子はこの殿舎の主。つまり、齢十八にして、れっきとした帝の后なのである。
ただし、入内の経緯は普通ではない。
きっかけは、先の帝が急に身罷ったことだった。世継ぎの御子はまだ乳飲み子で、帝位になどとても就けない。そこで先帝の歳の離れた弟宮が、御子が育つまでの『つなぎ』として急ぎ即位することとなったのだ。
仮初めの帝といえども、一応后は必要だった。
しかし、数年で退くと決まった主上のもとへ、権勢ある家がわざわざ大事な娘を差し出すはずがない。后がねを入内させるなら、次の『ちゃんとした』帝がいいに決まっている。
かといって、后ともなれば並の家の娘では務まらぬ。また、妙に力を持たれると、次の御世の差し支えになってしまう。
要するに、家柄は高いが落ちぶれていた方がいい――そんな都合のよい姫はおらぬかと探した末に、白羽の矢が立ったのが鳳子だった。
鳳子の父は名のある貴族だったが、鳳子が七つになる年に世を去っている。母は皇女の血を引いていたが、これも父のあとを追うようにして亡くなった。
親の死後、家はみるみる傾いた。残ったのは、誇り高くも腹の足しにはならぬ血筋だけ。
家柄は申し分なく、しかし担ぎ上げる身内はない。つなぎの后にこれほど誂え向きの姫はいなかった。こうして鳳子は、一も二もなく後宮へ上げられたのである。
一応は、第一の后として入内した。本来なら、鳳子には、帝の住まいである清涼殿に最も近い弘徽殿が与えられるはずである。
しかし、あてがわれたのはこの梨壺だった。普請の兼ね合いなどと説明されたが、つなぎの后にそこまでの格は要らぬという内裏の本音が透けて見える処遇である。
もっとも、鳳子はそれを意に介していなかった。実家から持参した桐箱を並べ、こうして蟲を飼っていられるのならば、どこの殿舎でもいい。
何ならもっと狭い局でもよかった。落ちぶれて半分崩れかけていた実家と比べれば、内裏はどこもかしこも贅沢すぎる。
鳳子は桐箱の中にもう一枚葉を入れた。
そのとき、傍らでふいに声が上がった。
「ひぃっ」
几帳の際で、女房の夕菊が腰を抜かしている。桐箱の中で蠢く白い群れを見て、そのまま固まってしまった。
鳳子に仕える女房は、十六歳のこの夕菊ただ一人きりだ。つなぎの后などに進んで仕えたがる者はなく、おそらく押しつけられるように寄越されたのだろう。
その夕菊は、袖で顔を隠しながら声を絞り出した。
「ま、またそのようなものをお出しになって……内裏で、蟲をお飼いになるなど……」
鳳子は夕菊の泣き言に、顔色一つ変えず切り返した。
「案じずとも、この子たちの世話にあなたの手は煩わせぬ。ならば、よいでしょう」
夕菊はなおも何か言いたげであったが、結局は黙り込んだ。薄化粧の施された顔に、気持ち悪いと書いてある。
同じことを、内裏にいる他の者たちも思っているだろう。だが、構わない。鳳子にとっては、蟲の傍にいるのが一番落ち着くのだ。
こうやって、内裏に木箱を持ち込むほど鳳子が蟲を好んでいるのには訳があった。
幼くして両親を亡くした鳳子に、頼れる者などいなかった。家は傾き壁はひび割れ、庭は草の伸びるに任せて荒れ放題。血筋がよくても実のないその家には、下働きもいない。
やんごとなき家柄の娘を飢え死にさせるわけにはいかぬと思ったのか、たまに縁者が尋ねてくるものの、十分な助けは得られなかった。
ならば――一人で立つよりほかにないわ。
そう肚を括った鳳子は、少ない財を活かす術を調べ、身の回りのことはすべて一人でこなし、時には自ら田畑を耕して食い扶持を得た。
月日が経ち、鳳子はやがて、並のことでは動じぬ強かさを身に付けていた。
がらんとした邸で、幼い鳳子の話し相手になってくれたのは草むらに棲む蟲たちだけだ。
蟲は嘘を吐かぬ。腹が減れば食べ、時が来れば殻を脱ぎ、ただ懸命に生きるばかり。媚びも欺きもせぬその姿が、何よりも好ましく思えた。
誰もいない邸で蠢くものをじっと眺め、触れることは、鳳子にとって一番の癒しだった。
愛でているうちに蟲たちの名を覚え、何を食むのか、普段はどこにいるか、毒があるのかないのかを知り……今では蟲に関するいろいろなことが、すっかり頭に入っている。
ぼろぼろの邸で蟲と戯れる鳳子を見て、気味が悪いだの、悪姫だのと眉をひそめる者たちもいたが、そんなことはどこ吹く風だ。
揶揄するだけで手を差し伸べてくれぬ者たちなど、所詮は虫けら以下――あれよあれよと入内されられたあとも、鳳子のこんな胸の内は変わらない。
伴侶となった主上・黎月帝とは、入内当日に少しだけ顔を合わせたきりである。
后妃が内裏に入るとなれば相応の儀式が行われるのが通例だが、つなぎの帝と后のためにそこまでする必要はないと皆が思ったのだろう。卜占で控えめにするのがいいと出た、などという取ってつけたような理由で、鳳子の入内はひっそりと済まされている。
後宮に足を踏み入れたその日、つかの間相対した黎月帝は、鳳子より七つ年上。始終俯き、一言も声を発さなかった。
鳳子が梨壺に入ってから、その黎月帝の御渡りは一度もない。無論、夜御殿に呼ばれることも……。
しかし、鳳子としてはこれが当たり前だと思っている。己の入内は、いわば体裁を整えるためのもの。帝の寵愛など必要ないのだ。
ならば、その役目をまっとうすればいい。そうしている限り、誰にも文句など言わせない。
周りからは『蟲愛づる女御』などと陰口を叩かれているが、本当にどうでもいいことだった。
後宮でも強かに生き抜いてみせる――鳳子はそう心に決めている。
そんな暮らしが続いていたある日、鳳子は梨壺を抜け出して渡殿を進んでいた。
ぼろぼろだった実家を思えば内裏は幾千倍も住みやすいが、ただ一つ――蟲が少ないことだけが物足りない。
殿舎の中は、張り巡らされている簀子や渡殿の隅々まで掃部寮の女孺たちによって掃除がなされている。庭木はきっちり整えられ、見栄えの悪い葉は取り除かれていた。
これでは蚯蚓の一匹も見当たらない。手入れが行き届きすぎているのも考えものだった。それでもどこかに蠢くものはいないかと、あちこち見回してしまう。
前の晩まで雨が降っていたせいで、庭の土がまだぬかるんでいた。溜まった水のところに羽虫がいるのではないか……鳳子は高鳴る胸を押さえて足を早める。
その矢先、渡殿の先で何やら騒がしい声がした。
声の主は後宮に仕える女房たちだ。朝廷に雇われているこの者たちは、日頃から露骨に愛想がない。つなぎの后など眼中にないと、態度で示してくる。
そんな者たちが五、六人も集まっているとなれば、ろくなことがないのは分かり切っていた。関わり合いになっても面倒なだけである。
鳳子は足を止め、すっと柱の陰へ身を退いた。そこから覗いてみると、女房たちの後姿が見える。
その女房たちの前で、夕菊が立ち竦んでいた。
夕菊の後ろには、二人の女房の姿がある。女房たちは、時折夕菊を扇の先で指し示しては、顔を見合わせてくすくすと笑っていた。
どういうことかと目を凝らした鳳子は、すぐ合点がいった。
簀子を横断する形できらきら光る筋が見える。大量の水が撒かれ、川のようになっているのだ。
その川は、夕菊の前と後ろに立ちはだかっていた。袿や藻を濡らさずに進む道はなく、庭はぬかるんでいて下りられない。水の流れに挟まれて、夕菊は身動きが取れないでいるようだ。
さらに目を細めると、夕菊の前後に立つ女房たちのうち何人かが、それぞれ桶を手にしているのに気が付いた。夕菊を立ち往生させるため、わざわざ水を撒いたのは明白である。
馬鹿らしい……鳳子は女房たちの振る舞いに心底呆れた。
命に関わるわけでも、大きな騒ぎになるわけでもない。女房たちは夕菊をただ困らせて、笑いたいだけだ。
「夕菊さん、どちらへ行かれるの。こちら、それとも、あちら?」
前に立つ女房の一人が、おかしそうに言う。
「こんなところで立ち止まって、お山の中でお育ちになった方は、のんびりしていらっしゃるのねぇ」
別の女房が大げさに眉を寄せた。桶を持った者がくすりと笑い、それにつられて周りも笑い声を立てる。
夕菊の実家は山深い吉野の地だと聞いている。さほど裕福ではなく、本来なら参内できる身ではなかったはずだ。それでも夕菊がここにいるのは、つなぎの后の女房になりたいという娘が他にいなかったから。
鳳子としては、女房の身分などどうでもいい。大事なのは仕事ができるかできないか、だ。
ただ、他の女房たちはそう思っていないようだった。宮仕えをするためにはある程度の地位や教養がいる。そこへ田舎育ちの貧乏貴族の娘が入ってきたのが気に食わないのだろう。
女房たちはつなぎの后である鳳子を徹底的に無視する一方で、夕菊に対しては侮蔑の意をあらわにしている。
鳳子は、夕菊が時折、嫌がらせのようなものを受けているのに勘付いていた。今はまさに、その真っ最中というわけだ。
女房たちがくすくす笑う中、夕菊はただ、肩を微かに震わせている。
声を上げれば言いがかりをつけられる。黙っていれば笑われる。どちらに転んでも餌食になると、もう身に染みて知っているのだろう。だから黙って俯いて、この場をやり過ごそうとしているに違いない。
鳳子は柱の陰でその様を眺めていた。
関わり合いになるのが面倒で黙っているのではない。夕菊が、自分で動くのを待っている。
こういうのは、言われているだけでは駄目なのだ。それでは女房たちがいつまでたってものさばってしまう。
鳳子だって、入内する前はいろいろあった。だが、そのたびに切り抜けてきた。自分一人で。
「前と後ろに、川が流れていて綺麗ねぇ、夕菊さん」
「魚がいるかもしれないわよ。這いつくばってよくご覧になったら?」
夕菊は相変わらず、困り顔で黙っている。
これ以上待っても無駄だ――鳳子はそう判断して、さっと身を翻した。
夕菊を置いて立ち去る……のではない。すぐさま手近の局へするりと入り込む。
局の主は出払っているのか、人の気配はなかった。棚に目をやると、水差しが一つ据えてある。
「少々、お借りしますわ」
誰もいないが、一応断った。
水差しを手に取り、鳳子は局を出て前に並ぶ女房たちの背後へ回る。
女房たちはまだ夕菊の方しか見ていないようだ。その無防備な背中を見ながら、鳳子は静かに水差しを傾けた。
さらさらと涼しい音を立てて水が板の上を走り、簀子に三本目の川ができていく。
夕凪の前に流れている川と、今しがた鳳子が作り出した流れが、夕菊を嘲笑っていた五、六人の女房たちを挟む恰好である。
つまり、女房たちは夕菊と同じ目に遭っているというわけだ。
水差しが空になったところで、五、六人の女房たちがようやく鳳子に気付き、悲鳴を上げた。
「なっ、何をなさるの!」
「これじゃあ通れないわ」
鳳子は狼狽える女房たちに向かって、口角を引き上げてみせた。
「いけなかったかしら――あなたたち、水遊びがお好きなのだと思って」
女房たちはつかの間呆気にとられ、続いてみるみる顔をひきつらせた。
言い返すことなどできぬはずだ。自分たちだって、同じことをしていたのだから。
鳳子はその様をじっと眺めてから、声を張った。
「どなたか、少し手を貸してちょうだい。水が零れてしまったの」
声を聞きつけた女孺や雑色たちがすぐさま駆けつけてきた。
女房たちのように長く引き摺るものを身に付けていない彼らは、簀子の上に流れている三本の川を素早く拭き取っていく。
「何を騒いでおるのだ」
そこへ、誰かが割って入ってきた。
黒橡の位袍を纏ったその人物に、鳳子は微かな見覚えがあった。ごく簡素に執り行われた入内の儀式のときに会っている。
「さ、左大臣さまっ」
女房の一人が声を上げて、思い出した。位の高い貴族にしか許されぬ衣を身に付けているのは、左大臣・大伴磐貞だ。
磐貞は、簀子を拭き上げている雑色たちを見て、たいしたことはないと察したのか、ふんっと鼻を鳴らした。
そのあと鳳子に形だけ目礼して、ずかずかと立ち去っていく。
水気がすっかりなくなると、女房たちもそそくさとその場をあとにした。女孺や雑色たちも下がり、後に残ったのは静けさと、夕菊だけだ。
「夕菊」
鳳子が呼びかけると、夕菊の喉がかすかに動いた。
「はい」
声が震えていた。目の縁が赤い。泣くまいと堪えているようだ。水の流れに阻まれて立ち尽くしていた間も、ずっとこうして歯を食いしばっていたのだろう。
「助けていただき、ありがとうございます、鳳子さま」
しばらくして、夕菊はおずおずと頭を下げた
「次からはご自分で乗り越えなさいな」
鳳子はそれだけ言って、夕菊に背を向けた。
はい、と消え入りそうな返事が耳に届いた。


