「走っちゃダメ!」
桜が散る墓地を小さな足音が駆けていく。
ここに住み着いた成仏できない子どもの霊、というわけではない。
「捕まえてパパ!」
ちょこちょこと走ってくる我が子を、慧は両手を広げて受け止め、そのまま抱きかかえた。
「ダメって言われたらすぐ止めないとダメだろ?」
注意をされているというのに、三歳の愛娘・杏はころころと笑っている。成長するにつれ、腕に感じる重みは年々増している。
「危ないんだってば、杏」
追いついてきた奏は膝に手をつき、ハアハアと息を切らしている。
四年前。慧と奏は結婚した。披露宴には大勢の教員仲間や生徒が出席してくれたが、T大生になった一郎もその一人だった。派手な赤いネクタイを身にまとって高砂まで祝福に来てくれた一郎はコンタクトになっていて、慧には少し物足りなかった。
その一年後、杏が産まれる瞬間に立ち会わせてくれたのは早智枝だった。理事長も交えた職員会議の最中に病院から奏が産気づいたと連絡が来ると、パニックに陥る慧を「しっかりしなさい」と叱咤し、自ら学院までタクシーを呼んでくれた。
交認は今から二年前に早智枝自らが全校集会で廃止を宣言した。
そして、それが自分に与えられた最後の使命だったというように、その三ヶ月後、早智枝は病により亡くなった。
慧たちと交認の廃止を巡って対峙していた頃から闘病生活を送っていたようだが、孫の麗奈を含めそれを知っている者は誰もいなかった。
慧は交認廃止を訴えた後も処分を下されることはなく、光栄学院に残り続けた。早智枝とはそれまでと変わらず学院のトップと若手教師として接していたが、一度だけ、杏が産まれた後で顔を見せに行った時だけは、普段見せる厳しい教育者の仮面を脱ぎ捨てていた。
──孫はともかく曾孫の顔も見られるなんて。
そう言って杏の柔らかい頬をつついた早智枝は、たおやかな笑みを浮かべた。
葬儀には直哉も参列した。焼香の時に長く早智枝の遺影を見つめていたが、一体何を語りかけていたのかは本人にしかわからない。これから先、慧も訊くことはないだろう。
「よし、じゃあ杏。手を合わせて、目を瞑って」
杏が言われたとおりにしたのを確認すると、慧は奏と顔を合わせてから、墓石の下で眠る颯太に向けて手を合わせた。
颯太は卒業した後も懸命に生きようとしたが、桜が満開になる頃に息を引き取った。
今日は颯太の命日だ。
──お前たちのおかげだ。
慧は毎年、命日にはこうして墓を訪れ、颯太に語りかけた。澄花に脅迫された日のことを、慧は今でも鮮明に思い出せる。
誰にも打ち明けられなかった秘密の恋。
それを諦めなかった澄花がいた。
自分の気持ちから逃げずに戦った颯太がいた。
二人の行動がきっかけで学院の歴史は変わり、慧の隣には奏と杏がいる。
教師を続けている以上、これからたくさんの生徒たちと出会うだろう。その全員が平等だと言える教師でありたいが、やはりこの二人だけはいつまでも特別な存在かもしれない。
「ケイ先生、カナデ先生!」
墓地の入り口から、慧の名前を呼ぶ声が聞こえた。昔と変わらない、もしかしたらそれ以上に明るくなったかもしれない元教え子は、ゆっくりと慧たちの元に歩いてくる。
「久しぶりだな、宮本」
「その呼び方、やっぱり嫌かも」
藤咲でいいよー、と笑う澄花は当時よりも大人びたが、根本にある茶目っ気は変わっていない。
颯太の部屋で二人だけの卒業式を終えた翌日、二人は籍を入れて夫婦になった。
颯太が死ぬことはわかっている。それでも関係ない。宮本颯太と藤咲澄花の想いは、青春の魔法が解けて終わるものではないと二人は証明したかった。
そして、二人の覚悟はそれだけではなかった。
「大きくなったな、光太くん」
澄花の後ろに隠れていた小さな男の子。挨拶をしなさいと澄花から言われてこっそりと覗かせた顔は、年々颯太に似てきている。
二人は堂々と交際をするようになり、多くのカップルがそうであるように一つになることを望んだ。
躊躇ったのは澄花だった。その行為は愛する人の病を進行させ、確実に苦しめることになる。しかし、躊躇う澄花に颯太は言った。
──あと何日なの?
澄花には人がいつ死ぬかわかる。
颯太に訊かれた時、澄花にしか見えない颯太の頭の上の数字はちょうど100と表示されていた。
じゃあ、と颯太は笑った。
──どんなに苦しくても今日は死なないな。
澄花が新しい命を宿したと知って二人は喜んだが、二人の親は複雑だった。ただでさえ若いというのに、父親は産まれる前に死んでしまう。特に自分も女手一つで娘を育てた澄花の母親は「良く考えた方が良い」と娘を説得した。しかし、澄花は笑って首を横に振った。
──大丈夫だよ。私、お母さんしかいないけどずっと幸せだったから。
「よし、光太! お父さんとお話しよう!」
小さな手を引いて、澄花は颯太の前に立つ。
その背中を慧はじっと眺めた。
これから二人にはどのような運命が待っているのか。こうやって二人でいるという選択をしたことを、澄花は後悔する日がやってくるのだろうか。
晴れ渡る空から桜の花びらが二枚、ゆらゆらと舞い落ちる。地面に落ちる多くの花びらを横目に、その二枚は迷うことなく二人の頭をそっと撫でた。
桜が散る墓地を小さな足音が駆けていく。
ここに住み着いた成仏できない子どもの霊、というわけではない。
「捕まえてパパ!」
ちょこちょこと走ってくる我が子を、慧は両手を広げて受け止め、そのまま抱きかかえた。
「ダメって言われたらすぐ止めないとダメだろ?」
注意をされているというのに、三歳の愛娘・杏はころころと笑っている。成長するにつれ、腕に感じる重みは年々増している。
「危ないんだってば、杏」
追いついてきた奏は膝に手をつき、ハアハアと息を切らしている。
四年前。慧と奏は結婚した。披露宴には大勢の教員仲間や生徒が出席してくれたが、T大生になった一郎もその一人だった。派手な赤いネクタイを身にまとって高砂まで祝福に来てくれた一郎はコンタクトになっていて、慧には少し物足りなかった。
その一年後、杏が産まれる瞬間に立ち会わせてくれたのは早智枝だった。理事長も交えた職員会議の最中に病院から奏が産気づいたと連絡が来ると、パニックに陥る慧を「しっかりしなさい」と叱咤し、自ら学院までタクシーを呼んでくれた。
交認は今から二年前に早智枝自らが全校集会で廃止を宣言した。
そして、それが自分に与えられた最後の使命だったというように、その三ヶ月後、早智枝は病により亡くなった。
慧たちと交認の廃止を巡って対峙していた頃から闘病生活を送っていたようだが、孫の麗奈を含めそれを知っている者は誰もいなかった。
慧は交認廃止を訴えた後も処分を下されることはなく、光栄学院に残り続けた。早智枝とはそれまでと変わらず学院のトップと若手教師として接していたが、一度だけ、杏が産まれた後で顔を見せに行った時だけは、普段見せる厳しい教育者の仮面を脱ぎ捨てていた。
──孫はともかく曾孫の顔も見られるなんて。
そう言って杏の柔らかい頬をつついた早智枝は、たおやかな笑みを浮かべた。
葬儀には直哉も参列した。焼香の時に長く早智枝の遺影を見つめていたが、一体何を語りかけていたのかは本人にしかわからない。これから先、慧も訊くことはないだろう。
「よし、じゃあ杏。手を合わせて、目を瞑って」
杏が言われたとおりにしたのを確認すると、慧は奏と顔を合わせてから、墓石の下で眠る颯太に向けて手を合わせた。
颯太は卒業した後も懸命に生きようとしたが、桜が満開になる頃に息を引き取った。
今日は颯太の命日だ。
──お前たちのおかげだ。
慧は毎年、命日にはこうして墓を訪れ、颯太に語りかけた。澄花に脅迫された日のことを、慧は今でも鮮明に思い出せる。
誰にも打ち明けられなかった秘密の恋。
それを諦めなかった澄花がいた。
自分の気持ちから逃げずに戦った颯太がいた。
二人の行動がきっかけで学院の歴史は変わり、慧の隣には奏と杏がいる。
教師を続けている以上、これからたくさんの生徒たちと出会うだろう。その全員が平等だと言える教師でありたいが、やはりこの二人だけはいつまでも特別な存在かもしれない。
「ケイ先生、カナデ先生!」
墓地の入り口から、慧の名前を呼ぶ声が聞こえた。昔と変わらない、もしかしたらそれ以上に明るくなったかもしれない元教え子は、ゆっくりと慧たちの元に歩いてくる。
「久しぶりだな、宮本」
「その呼び方、やっぱり嫌かも」
藤咲でいいよー、と笑う澄花は当時よりも大人びたが、根本にある茶目っ気は変わっていない。
颯太の部屋で二人だけの卒業式を終えた翌日、二人は籍を入れて夫婦になった。
颯太が死ぬことはわかっている。それでも関係ない。宮本颯太と藤咲澄花の想いは、青春の魔法が解けて終わるものではないと二人は証明したかった。
そして、二人の覚悟はそれだけではなかった。
「大きくなったな、光太くん」
澄花の後ろに隠れていた小さな男の子。挨拶をしなさいと澄花から言われてこっそりと覗かせた顔は、年々颯太に似てきている。
二人は堂々と交際をするようになり、多くのカップルがそうであるように一つになることを望んだ。
躊躇ったのは澄花だった。その行為は愛する人の病を進行させ、確実に苦しめることになる。しかし、躊躇う澄花に颯太は言った。
──あと何日なの?
澄花には人がいつ死ぬかわかる。
颯太に訊かれた時、澄花にしか見えない颯太の頭の上の数字はちょうど100と表示されていた。
じゃあ、と颯太は笑った。
──どんなに苦しくても今日は死なないな。
澄花が新しい命を宿したと知って二人は喜んだが、二人の親は複雑だった。ただでさえ若いというのに、父親は産まれる前に死んでしまう。特に自分も女手一つで娘を育てた澄花の母親は「良く考えた方が良い」と娘を説得した。しかし、澄花は笑って首を横に振った。
──大丈夫だよ。私、お母さんしかいないけどずっと幸せだったから。
「よし、光太! お父さんとお話しよう!」
小さな手を引いて、澄花は颯太の前に立つ。
その背中を慧はじっと眺めた。
これから二人にはどのような運命が待っているのか。こうやって二人でいるという選択をしたことを、澄花は後悔する日がやってくるのだろうか。
晴れ渡る空から桜の花びらが二枚、ゆらゆらと舞い落ちる。地面に落ちる多くの花びらを横目に、その二枚は迷うことなく二人の頭をそっと撫でた。
