コイワズライ

 三月。
 慧は二つの卒業証書を抱え、颯太の家を訪ねた。

「ありがとうございます」

 頭を下げた颯太の両親は目にクマを湛え、明らかにやつれた様子だった。眠ってしまうと、息子と一緒にいられる時間が少なくなる。毎日朝を迎えるのが怖くて、眠れない夜を過ごしているのは慧にも良くわかった。
 自室のベッドで横になっていた颯太は頬がこけ、肉が削げ落ちてしまっていた。横に座っていた澄花も、肉体的にも精神的にも疲れが溜まっているのか肌に艶がなくなっていた。

「宮本、起きなくて良いから、卒業式をやるぞ」

 卒業式とは言ったが、大げさなセレモニーではない。
 颯太は結局、大学受験をすることも皆と同じ卒業式に出ることも叶わなかった。だからせめて、三年間頑張ってきた証を、最後に担任をさせてもらった身として、直接手渡したかった。
 颯太は精一杯腕を伸ばそうとするがなかなか思うようにいかず、澄花がそっと腕を支えることでようやく受け取ることができた。

「藤咲も。卒業おめでとう」

 ──颯太くんがいない卒業式は意味がない。

 澄花は卒業式を欠席したが、それを咎める人間は誰もいなかった。

「ありがとうございます」

 卒業証書を手にした澄花は目に涙を浮かべている。

「じゃあ、俺は帰るから、二人でゆっくりな」

 これ以上、かける言葉は慧には見つからなかった。
 頭を下げる二人を背に慧は部屋を出ようとする。
 しかし、すぐに立ち止まった。
 栞には最後、一つも言葉をかけることができないまま別れてしまった。澄花はともかく、颯太と会うのはきっとこれが最後になる。
 自分はあの時とは違う。何もわからなかった大学生ではない。社会に出て経験を積んだ良い大人であり、生徒に道を示すべき教師だ。
 このまま何も言わずに出ていって良いはずがない。
 慧は再び振り向いて二人を見た。どんな言葉をかけるべきか。浮かんできたのはたった一つの言葉しかなかった。
 慧は早智枝に言われたことを思い出す。

 ──教師というのは『教える師』であると同時に『教わる師』でもあるのです。

 慧は教える以上に、たくさんのことをこの二人から教わった。人に何かを教えてもらった時、言うべきことは一つしかない。

「ありがとう」

 窓の外では春を待つ澄んだ空の青が、二人の門出を祝福していた。