栞が死んでから数日。
慧がようやく外に出られたのは栞が荼毘に付される前日のことだった。
最後に栞の顔を見たいが、火葬に立ち会って納骨をする勇気は慧にはない。この日が栞に会える最後のチャンスだった。
秋晴れの空の下にひっそりと佇む「ことのは」には「しばらくの間休みます」と貼り紙があった。玄関には「忌中」の文字が貼られており、栞がすでにこの世にいないという現実を淡々と突きつけてくる。
今、栞は十八年という短い人生を過ごしたこの家で覚めることのない眠りにつき、旅立ちの時間を待っている。せめて安らかな顔でいてほしい。
慧は立ち止まり、深く息を吐いてから自分を奮い立たせ、ゆっくりと玄関扉を開いた。
「早く帰れよ!」
待っていたのはリビングから聞こえてくる直哉の怒声だった。三人で食事を共にし、栞の笑い声で溢れていた場所。この半年で慧にとっても大切になったその場所から、感じたことのない不穏な空気が漂っている。
「弔いに来た人間に対してなんて口の聞き方をするの? やはりあの時道を踏み外したから、この程度の人間になったのかしら」
次に聞こえてきたのは落ち着きと冷たさを孕んだ女の声だった。
「教育者としても親としても忸怩たる思いです」
「今更母親ヅラをするなよ」
静かに怒りを湛えた直哉の声で、慧は相手が門馬早智枝だとわかった。
栞が倒れた日。慧は直哉の生い立ちを聞かされていた。教育者としても有名な光栄学院の理事長、門馬早智枝が母親だと知り、そこから現在に至るまでの全てを聞かされた時、慧は言葉を失った。
「残念ながら、私があなたの母親であるというのは変えられない事実です」
「俺はもう門馬直哉じゃない」
一刻も早く自分から門馬の色を消したかった直哉は、妻と結婚する時に喜んで向こうの名字である四賀を名乗った。
「子どもの幸せも祈れないくせに、何が母親だ」
「幸せを祈ったからこそ、あなたと女の交際を止めたのです。現に今のあなたをご覧なさい。隣にあの女はいないでしょう?」
「それは……」
「親を裏切って駆け落ちした相手とは結局別れ、別の女と一緒になっても、その女は死んだ。そして今、産まれた子どもすらこんなにも若く……」
はあ、と早智枝の深いため息が聞こえる。
「直哉、人間は些細な選択でも人生を左右されます。普段はあの交差点を右に曲がって帰るけど、気分転換に左を曲がる。すると、その先で猛スピードで突っ込んできた車に激突する。あり得ない話ではない。そんなただの気まぐれですら運命を決める。しかしあなたは、極めて重大な『誰と人生を共に歩むか』という選択において、多くの経験を重ねてきた親の忠告を無視し、直情的な選択をした。その結果がこれです」
「これ? これってなんだよ」
次の瞬間、早智枝が発した言葉は冷えた空気を伝って慧の耳にも届いた。
「この娘、幸せだったの?」
沈黙がリビングを出て玄関まで浸食してくる。
栞は幸せじゃなかったのだろうか。そんなはずはない。幸せだったはずだ。でも、たしかなことは栞にしかわからない。そして栞が口を開くことは、もう二度とない。
「私は因果というものは存在すると思っています。若いあなたの勢いに任せた決断がこの娘の死に無関係だと、果たして言えるのかしら? この娘だって、これからまだやりたいことがたくさんあったでしょう」
それから直哉の声は聞こえてこなかった。
しばらくしてリビングから姿を現した早智枝は、土間で佇んでいた慧を捉えた。
「あなたは……」
そう呟くと少しだけ立ち止まって慧を見ていたが、すぐにまた歩き始めた。早智枝が上がり框まで来て睨まれたことで、慧は自分が邪魔で靴が履けないということに初めて気がつき、逃げるように脇に移動した。
去っていく早智枝の後ろ姿は髪こそ白く染まっていたが矍鑠としていて、自分の信念が絶対に正しいという自信に満ちていた。
慧がようやく外に出られたのは栞が荼毘に付される前日のことだった。
最後に栞の顔を見たいが、火葬に立ち会って納骨をする勇気は慧にはない。この日が栞に会える最後のチャンスだった。
秋晴れの空の下にひっそりと佇む「ことのは」には「しばらくの間休みます」と貼り紙があった。玄関には「忌中」の文字が貼られており、栞がすでにこの世にいないという現実を淡々と突きつけてくる。
今、栞は十八年という短い人生を過ごしたこの家で覚めることのない眠りにつき、旅立ちの時間を待っている。せめて安らかな顔でいてほしい。
慧は立ち止まり、深く息を吐いてから自分を奮い立たせ、ゆっくりと玄関扉を開いた。
「早く帰れよ!」
待っていたのはリビングから聞こえてくる直哉の怒声だった。三人で食事を共にし、栞の笑い声で溢れていた場所。この半年で慧にとっても大切になったその場所から、感じたことのない不穏な空気が漂っている。
「弔いに来た人間に対してなんて口の聞き方をするの? やはりあの時道を踏み外したから、この程度の人間になったのかしら」
次に聞こえてきたのは落ち着きと冷たさを孕んだ女の声だった。
「教育者としても親としても忸怩たる思いです」
「今更母親ヅラをするなよ」
静かに怒りを湛えた直哉の声で、慧は相手が門馬早智枝だとわかった。
栞が倒れた日。慧は直哉の生い立ちを聞かされていた。教育者としても有名な光栄学院の理事長、門馬早智枝が母親だと知り、そこから現在に至るまでの全てを聞かされた時、慧は言葉を失った。
「残念ながら、私があなたの母親であるというのは変えられない事実です」
「俺はもう門馬直哉じゃない」
一刻も早く自分から門馬の色を消したかった直哉は、妻と結婚する時に喜んで向こうの名字である四賀を名乗った。
「子どもの幸せも祈れないくせに、何が母親だ」
「幸せを祈ったからこそ、あなたと女の交際を止めたのです。現に今のあなたをご覧なさい。隣にあの女はいないでしょう?」
「それは……」
「親を裏切って駆け落ちした相手とは結局別れ、別の女と一緒になっても、その女は死んだ。そして今、産まれた子どもすらこんなにも若く……」
はあ、と早智枝の深いため息が聞こえる。
「直哉、人間は些細な選択でも人生を左右されます。普段はあの交差点を右に曲がって帰るけど、気分転換に左を曲がる。すると、その先で猛スピードで突っ込んできた車に激突する。あり得ない話ではない。そんなただの気まぐれですら運命を決める。しかしあなたは、極めて重大な『誰と人生を共に歩むか』という選択において、多くの経験を重ねてきた親の忠告を無視し、直情的な選択をした。その結果がこれです」
「これ? これってなんだよ」
次の瞬間、早智枝が発した言葉は冷えた空気を伝って慧の耳にも届いた。
「この娘、幸せだったの?」
沈黙がリビングを出て玄関まで浸食してくる。
栞は幸せじゃなかったのだろうか。そんなはずはない。幸せだったはずだ。でも、たしかなことは栞にしかわからない。そして栞が口を開くことは、もう二度とない。
「私は因果というものは存在すると思っています。若いあなたの勢いに任せた決断がこの娘の死に無関係だと、果たして言えるのかしら? この娘だって、これからまだやりたいことがたくさんあったでしょう」
それから直哉の声は聞こえてこなかった。
しばらくしてリビングから姿を現した早智枝は、土間で佇んでいた慧を捉えた。
「あなたは……」
そう呟くと少しだけ立ち止まって慧を見ていたが、すぐにまた歩き始めた。早智枝が上がり框まで来て睨まれたことで、慧は自分が邪魔で靴が履けないということに初めて気がつき、逃げるように脇に移動した。
去っていく早智枝の後ろ姿は髪こそ白く染まっていたが矍鑠としていて、自分の信念が絶対に正しいという自信に満ちていた。
