コイワズライ

「……ん」

 栞が目を覚ました時も雨は降り止むどころか強くなっていて、病室から慧と栞を引きずり出そうとするように窓を強く叩いていた。

「起きたか。体は大丈夫か?」

 コイワズライの治療法は確立されていない。病院に運ばれてからは一時的に症状を和らげる薬を投与されただけだ。その薬も症が進行するにつれ、徐々に効いている時間は短くなるらしい。
 栞は周囲を見渡してここが病室であることを認識した後、「大丈夫」と静かに頷いた。 

「お父さんは?」
「飯食ってくるって、外に行った」
「この雨の中?」
「晴れでも雨でも霰が降っても、腹が減るのが人間らしい」
「わけわかんない。先生は? お腹空いてないの?」
「ずっと正体を隠してたけど、俺は人間じゃないんだ」
「娘が病院に運ばれたのに外食に行く人の方が、よっぽど人間じゃないよ」

 だから自信持って、と栞は茶化すように笑ったが、慧は笑えなかった。
 慧は気がついた。直哉は意識して日常を生きてきたということに。
 意識して食事をし、意識して排泄をし、意識して睡眠をする。きっと直哉は時が経ち栞の死が迫るにつれ、無理矢理に作った日常の中に自分の身を置かなければならなかった。そうしなければ、気が狂いそうだったのかもしれない。

「びっくりしたよね、先生」

 栞が気まずそうに頬を掻く。

「聞いた? 病気のこと」

 慧は黙って頷いた。大丈夫だという無責任な励ましも、余裕ぶって現実を受け入れた言葉を吐くことも、慧にはできなかった。 

「じゃあ、私が先生に会いたかったことも?」

 慧は再び頷く。
 全て直哉に教えてもらった。栞は前から慧のことを知っていて、ずっと会いたいと思っていたこと。
 それを聞いた時、慧は自分の存在が栞を死に追いやっているのではないかと思った。そして直哉も同じ考えに至っているはずなのに、栞と自分のことを引き離さないことが理解できなかった。

「私がお父さんにお願いしたの。先生に会わせて。最期まで一緒にいさせてって」
「最期までって……」
「最初はお父さんに反対されたの。栞の病状が悪くなるようなら、その頼みは聞けないって。でも私はワガママになるって決めたから。会わせてくれないなら今死ぬって言ったら、お父さんが折れてくれた」

 親を強迫してまで自分に会って、栞の中で何かが変わったのだろうか。いつもくだらない話ばかりをして、やはり命を縮めてまで会う価値のある人間ではなかったと後悔していないだろうか。

「やっぱり、会えてよかった」

 慧の疑問に答えるように、栞は言った。

「……私ね、そろそろ死ぬと思う」

 嘘みたいだ。コイワズライは投薬による延命治療をしない限りは進行しても見た目に変化が見られない病であり、目の前の栞は前と比べて頬から肉が落ちたとか腕が痩せ細ったとかそんな様子は一切ない。
 これからも料理上手の父親が作ったものを食べて、面白いドラマを見て、時に苦しいことがあっても全力でそれに立ち向かいながら生きていきたいだろう。もしかしたら、密かに抱いている大きな夢だってあるかもしれない。
 それらが全部、断ち切られる。

「……何か俺にできることはあるか?」

 少しでも力になりたいと慧は思った。

「最期まで一緒にいたい」

 消え入るような声だった。

「一緒にいたいよ」

 直後、栞の呼吸が再び乱れ始めた。