コイワズライ

 その日、朝は晴れていたのに四賀家に向かう途中で大粒の雨が振り出した。秋の冷たい雨に打たれながら四賀家を訪れると、栞がタオルを持って出迎えてくれた。

「大丈夫?」
「天気予報では曇りじゃなかったか?」

 濡れた髪をタオルで拭きながら慧は愚痴をこぼす。

「そんなの当てにならないよ。折りたたみ傘くらい鞄の中に入れておいて」
「マスターは?」
「買い出し。もう少しで帰ってくると思うけど」

 お風呂入れておいたから、と栞に促され慧は唇を震わせながら浴室に向かった。
 家庭教師として栞に出会ってから半年。この頃になると、四賀家は自分の家と同等に落ち着きを与えてくれる空間になっていた。
 慧は家庭教師としての務めは何も果たしていなかった。栞の部屋で勉強机に向かったのは初日だけで、それ以降は授業時間として割り当てられた九十分をリビングでダラダラと過ごした。栞が友達と好きなドラマの話で盛り上がったことや、授業中に先生のことを陰でこっそりつけていたあだ名で呼んでしまい、それ以降冷たくされるようになったことなど、他愛もないことばかりを話した。慧が大学のことやかけ持ちでバイトをしていたコンビニで迷惑な客が来たことなどを聞かせると、普段は軽口を叩いてばかりの栞が「大人だねえ」と尊敬したように口にするのが、慧には少し気恥ずかしかった。夕食は直哉が作ってくれたものを三人で食べ、適当に時間を潰してから帰る。時には夜の九時を過ぎるまでくつろいでいたこともあった。
 派遣元の会社に知られたら給料泥棒だと言われてクビになりそうだが、幸いなことに、栞は勉強をしなくても成績が良かったため、学校でのテスト結果を報告するとしっかりと指導をしていると解釈してもらえた。
 慧はいつの間にか週一回、栞と会う日を心待ちにするようになっていた。栞が高校を卒業したら、もう会うこともなくなってしまうのだろうか。そう考えると無性に寂しくなる時もあった。

「風呂ありがとう」

 リビングに戻ると、栞の姿はなかった。トイレにでも行ったのかと特に気にも留めず、火照った体を冷ますためにお茶を飲もうとキッチンに向かう。すると、

「栞?」

 キッチンの影から細く青白い足がのぞいていた。
 これは、なんだ。
 ざわりとした嫌な感触が慧の心臓を撫でる。恐る恐る、それでいて何故か吸い寄せられるように一歩一歩、歩みを進めていくと、足の裏に鋭い痛みが走った。

「なんだ、これ」

 白い靴下にじわりと血が滲む。見ると、床にはガラス片が飛び散っていた。キャップが開いたペットボトルの口からはお茶が漏れ、辺りを濡らしている。
 そこには苦しそうに胸を押さえながら、栞が倒れていた。 

「栞、どうした!」

 栞は呼吸が荒く、激しく胸を上下させている。慧はどうして良いかわからず、必死で声をかけ背中をさすり続けた。そうするしかできなかった。
 それから二分も経たないうちに直哉が帰ってきた。

「直哉さん!」
「何してんだ慧。そんなところで──」

 一瞬で状況を飲み込んだのか、直哉は何も言わずに栞に近づくと、「救急車は?」と慧の方を向いた。

「呼んで、ない」
「すぐに電話してくれ」

 直哉に言われるがまま慧は救急車を呼んだ。しかし、電話の向こうから状況や家の場所などを訊かれたが、パニックで何も答えられなかった。見兼ねた直哉がスマートフォンを奪い取り、落ち着いた様子で説明をする。
 それを見て、これが初めてではない、と慧は思った。