コイワズライ

「おすすめはドリアだけど、藤咲は何にする?」
「……いらない」

 耳を澄ましてようやく聞き取れるほどの、か細い澄花の声。きっと今は何も食べる気など起きないのだろう。慧はドリアとナポリタンを注文すると、直哉は何も言わずに調理を開始した。
 病院からの帰り道。澄花を家に送り届ける前に、慧は少しだけ「ことのは」に寄ることにした。
 澄花から無理やり母親の電話番号を聞き出して連絡すると電話の向こうから「ご迷惑かけてすみません」と恐縮する母親の声が返ってきた。帰りも遅くなるので娘さんにごちそうさせてください、と慧が言うと、「そういう訳にはいきません」と澄花の母親は頑なに拒んだ。女手一つで澄花を育て経済的な苦労をしてきたからこそ、金銭の貸し借りはなしにしたいのだろう。
 何度か押し問答をした後、やっとのことで母親から了承を得ると、電話を代わった澄花に対して「ちゃんと先生の言うことを聞くのよ」とまるで小学生を注意するようなことを言ってから電話が切れた。

「優しそうなお母さんだな」
「……私、お父さんはいないけど、不幸だと思ったことは一度もありません。お母さんはいつも私のことを考えてくれる人です。私みたいに自分勝手じゃありません」

 テーブルと見つめ合っていた澄花は自分を責めるように言った。

「自分の気持ちだけを優先して颯太くんと一緒に居ようとした私とは違います」

 颯太が倒れてから十分程度で救急車は到着し、慧は澄花と二人で付き添いのために同乗した。その車中、澄花の口から全ての事情を教えてもらった。
 澄花と颯太は光栄学院に入学する前から交流があった。とは言ってもリアルで対面したことはなく、二人の出会いはSNSだった。颯太は気まぐれに撮影していた青野市内の風景をSNS上に投稿していて、それに澄花がコメントを書き込んでいた。

 ──ここから見る夕焼け素敵ですよね!
 ──この河川敷! 私もよく行きます!

 澄花も颯太もリアルで会いたいという下心があったわけではない。澄花はただ身近な場所で撮影された景色に対する素直な感情を書き込み、颯太は少ない閲覧数にも拘らずコメントが書き込まれるのが嬉しくて返信をしていた。
 やりとりを重ねる中で、お互いに必要以上に距離を縮めるつもりがないことを確認すると、「暇つぶしの相手」としてメッセージアプリのIDを交換し、そこで会話をするようになった。二人とも進路希望が光栄学院であることを知ってからは、模試で合格ラインを優に上回る点数を取っていた颯太が当落線上にいた澄花の先生となり、ともに合格を目指した。
 合格発表の日に初めて掲示板の前でお互いの姿を確認したが、照れくさくて言葉は交わさなかった。帰ってからアプリ上で祝福のメッセージを送りあうと、澄花はどうしても気持ちを抑えられなくなり、通話ボタンを押した。
 初めて聞く颯太の声は想像していたよりも少し低かった。「直接会ったんだから、その時に喋ろうよ」と少し緊張した様子で拗ねる颯太が可笑しかった。
 澄花はこの時にはすでに、自分が颯太のことを好きになっているということに気がついた。そして口には出さないものの、颯太も同じように思ってくれているということを何となく感じていた。
 入学して同じクラスになってからも、二人の距離は変わらなかった。それはいざ好意を寄せる相手を前にしたことでの気恥ずかしさもあったが、最も大きな理由は光栄学院の制度、交際認可審議会にあった。
 交際をするためには教師からの許可を得なければならない。そしてその判断基準は学力で均衡がとれているかどうかが太宗を占める。ハードルが高いことは、入学して初めてのテストでトップだった颯太に対して、澄花が下位に甘んじたことからも明らかだった。少しでも颯太に釣り合う順位を取ろうと努力はしたが、周りのレベルが高く思うような結果は出なかった。

『卒業したら付き合ってほしい』

 颯太から電話で告白されたのは間もなく二年生になろうという時だった。

『学院を卒業したら自分たちを縛るものは何もなくなる』

 嬉しかった。電話が切れた後、澄花はベッドの上を転げ回った。
 卒業するまでは約二年。長い時間だったが、その後に訪れる颯太との幸せな時間を想像すれば耐えられると思った。
 しかし、それから一年後。三年生になる直前、颯太から電話がかかってきた。

『あの約束はやっぱりなしだ』

 理由は教えてくれなかった。その代わり、三年生になって一ヶ月が経とうとする頃、教室で見た颯太の頭の上には「365」という数字が浮かんでいた。