コイワズライ

 一人で残業をしながらExcelに数字を打ち込んでいると職員室の扉が開いた。慧は作業中だったファイルを保存して閉じ、デスクトップから別のファイルを開く。

「まだ残ってたんですか?」

 入ってきたのは後輩の現代文教師、門馬麗奈(もんまれな)だった。

「もしかして、明日からの進路相談の準備?」
「まあ、そんなところだな」
「意外と熱心ですよね」

 麗奈は慧の隣の席に腰を下ろす。同じ三年生を担任している者同士、最近麗奈とは話す機会も多かった。

「意外とって何だよ。それより、麗奈こそどうしたんだ?」
「同じく進路相談の準備です。でも腹が減っては何とやらですからね。少し食料調達に出てました」

「食べますか?」と麗奈が唐揚げ串を差し出すので、慧は遠慮なくもらうことにする。
 カリッとした食感の後、柔らかい鶏肉とマヨネーズの旨味が口の中に広がり、疲労した全身に染み渡っていく。四つあった唐揚げを一気に平らげたことで、慧は空腹を忘れ作業に没頭していたことに初めて気がついた。

「それにしても、あれくらいで退学だなんて。本当にひどい制度ですよね」
「じゃあ反対すれば良かったじゃないか」

 今日の審議には麗奈も出席していたが、慧が最終確認をした時、麗奈は自慢のネイルを確かめるようにずっと手を見つめていた。

「だって、あれだけ証拠が揃ってるなら反対できませんよ。あの場で制度の是非について話すのは違いますし」

 わかっている。麗奈はこちら側だ。麗奈だけじゃない。制度に否定的な人間は教師の中にも何人かいるはずだ。しかし、

「わかっているなら良い。俺たちは審議員に選ばれている以上、感情を抜きにして冷静に判断するだけだ」

 慧は制度が正しいという表向きの姿勢を崩してはならなかった。制度批判が理事長に漏れたら学院からは追い出される。目的を達するまでは、何としてもこの学院に残らなければならない。

「それにしても麗奈くらいだよ。ここまで大っぴらに制度を批判するのは。聞いていてヒヤヒヤする」
「大丈夫ですよ。おばあちゃん、私には甘々だから」

 麗奈が公然と制度を批判できるのは、学院の理事長である門馬早智枝《もんまさちえ》が母方の祖母にあたるからだ。そして、早智枝は麗奈のことを溺愛している。
 毎年T大合格者を数多く輩出する光栄学院では生徒だけでなく、教師も狭き門をくぐらなければ教壇に立つことはできない。実際、在籍している教師は名門塾で講師をしていたエキスパートや教育者として論文を高く評価された研究者ばかりだ。
 慧も大学で生物学を学んだ後、有名進学塾の特別クラスで生物を教えていた。勤めていた期間は長くなかったが、教え子のほとんどをT大や海外の有名大学に送り込んでおり、その中にはゲノム編集の分野で世界的に評価されつつある者もいる。難関と言われる光栄学院の採用試験に一発で合格したのは、名物塾講師としての実績が大きいだろう。
 一方の麗奈は、この学院の教師にしてはそこまで偏差値の高くない大学を卒業した後、特別な実績もないまま現代文の教師として採用された。微塵も隠す気がない清々しいまでの縁故採用に、最初は不快感を示す者もいた。
 しかし、いざ麗奈が教壇に立つと周囲の評価は一変した。研究者上がりで堅い授業を展開する教師が多い中、麗奈のフランクさは生徒たちにとって居心地が良く、学内でトップクラスの成績を誇る生徒からも「わかりやすい」と評判になった。明るく嫌味のない性格も手伝って、麗奈は生徒からも教師からもすぐに信頼を得た。

「あ、草部くんのお母さんに連絡した方がいいですよ。先輩はいなかったですけど、交認が始まる前に電話きてましたから」

 自分の子どもを傷つけて何が楽しいんだろ、と麗奈はつまらなそうにため息をつく。

「それならもう連絡した。感謝されたよ、すごく」

 ──ありがとうございます。これで息子も間違った道に進まずに済みます。

 電話口の向こうから聞こえてくる声は涙で震えていた。教師をしていて保護者から感謝されることは滅多にない。本来は喜ぶべきはずなのに、慧はその言葉を素直に受け取ることができなかった。
 選りすぐりの教師陣による確かな学力の向上のみならず、他の私立高校とは一線を画する充実した給付型の奨学金制度により、光栄学院は日本有数の進学校として名高い。
 入学するだけで勝ち組。我が子をそんな勝ち組にしたいと全国各地から入学希望者が殺到する。
 しかし一つだけ、世間から悪評が立つ制度があった。
 それが「交際認可審議会制度」、通称「交認」と呼ばれる制度だ。