コイワズライ

「どうですかケイ先生。進捗のほどは」

 今日の生物の授業でわからなかったところがある、と昼休みに澄花が職員室を訪ねてきたが、質問はものの二分で終わり、本題とばかりにすぐさま話題を切り替えた。元々ホメオスタシスに興味などなかったのだろう。幸いというべきか、麗奈は席を外しており、話の聞こえる範囲に他の教師はいない。

「進捗か。まあ、藤咲を満足させられるような回答は出せてないな」
「えー。ちょっと先生、自分の状況わかってるんですか?」

 澄花はさり気なく奏の方に視線を向ける。つられてはならない、と慧は意識的に澄花を見て話を逸らす。

「本当に死んだな。アイドル」

 澄花が予言したアイドルの死は、今もまだ世間を騒がせている。
 死因は情動誘発性心筋線維化症。
 心拍数が一定値を超えた場合に心臓内で特殊なタンパク質が分泌され心筋をガラスのような結晶構造へと変質させる難病で、恋愛による心拍の高鳴りにより死期を早める若者が多いことから、通称「コイワズライ」と呼ばれている。
 件のアイドルもグループの冠番組のプロデューサーだった妻子持ちの男と交際していたことが週刊誌の記事によって発覚し、「このゲス野郎のせいで死んだんだ」と多くのファンの憤怒がSNS上に溢れていた。

「そうなんですよ。ショックです。今回ばかりは外れてくれと願ってたんですけど、ダメでしたね。でもこれで私の言ってることが本当だって信じてくれたんじゃないですか?」
「……念の為確認するが、報道されていることは全部嘘で本当は藤咲が殺ったとかじゃないんだよな?」
「違いますよ。私は人殺しじゃありません」
「芸能人御用達の名医が知り合いで、そこから情報を得ていたということは?」
「知り合いにそんなお金持ちが居たら、たくさんパフェ奢ってもらうのに」

 嘘はついていないと直感した。慧に瞳孔の変化を見極める術はないが、その道の専門家が確認しても変化はないと答えるだろう。

「突然変異ってのはあるからな。予知能力がある人間に驚くことはあっても、存在を否定することは俺の学んだ学問を否定することになる」
「ふーん。生物にも意外とロマンチックなところがあるんですね」
「興味が出てきたか? それじゃあCRISPR─Cas9について説明してやろう」
「なんですかそれ? 生物ハラスメントは懲戒免職の対象ですよ」

 軽口を叩きながらも苦虫を噛み潰したような顔になる澄花が面白い。全教科満遍なく成績が芳しくない澄花だが特に生物は苦手で、中間考査でも赤点ギリギリだった。多くの生徒の成績を向上させてきた身としては、自分のクラスの生徒がその有様では沽券に関わる。今度みっちりと指導してやらなければ。
 それはともかく、

「確認しておきたいことがある」

 慧は切り出した。

「何ですか? スリーサイズならノーコメントですよ」
「宮本はお前のことをどう思ってるんだ?」

 澄花が息を飲んだ。その反応を見て、教師を悪戯に脅して楽しむために学院一の秀才の名を借りたわけではないとわかった。やはり、澄花の颯太に対する気持ちに嘘はないようだ。

「どう思ってるのか……それは私が知りたいですね」
「片想いか?」
「だったら悲しいです」

 澄花は目を伏せる。単純に頬を赤らめるような甘酸っぱい恋ではないらしい。

「正直に言うと、藤咲から提案された話を受けるかどうかはまだ決めていない」
「そうなんですか? 脅されてるのに?」
「脅されたらみんな言うことを聞くと思ってるのか? 甘いな。それに生徒の顔色を伺って行動したって、生徒のためにはならないからな」
「なんですか、その教師ぶった発言は」
「ぶってるんじゃなくて教師なんだ」
「思ったよりも手強いですね、ケイ先生」
「いずれにしても、どうするかを決める前にまずは二人の関係が知りたい」
「なるほど。敵を知り己を知れば百戦危うからず、ってやつですね」

 この場合の「敵」は交認だと、澄花も認識しているようだ。そして「己」の中に慧を巻き込むことで勝機を見出そうとしている。自分たちの利害は一致し、共闘することはできるのか。慧はそれをしっかりと見極めなければならない。

「でも、担任ならそれくらい把握してないといけないんじゃないですか?」
「あれからお前ら二人のことは良く観察してるつもりだが、クラスメイトだということ以上の接点が一向に見当たらない。交認に申請するには二人の署名が必要だ。ただの片想いなら俺が協力するのかどうかという以前に、審議の土台にすら上がらないことになる」
「じゃあ、先生が訊いてみたら良いじゃないですか。宮本くんに」
「良いのか?」
「ええ。むしろ訊いたら私に教えてください。気になるし」

 そこで扉が開いて麗奈が戻ってきた。席に着こうとして澄花が居ることに気がつき立ち止まる。澄花は「すみません」と麗奈に頭を下げた。

「別に続けてて良いんだよ。座って。疲れちゃうでしょ」
「いえ、大丈夫です。もう行きますから」
「そう。なら良いけど」
「はい。ケイ先生のおかげで生物にロマンがあるってわかっただけで収穫です」

 失礼しました、と澄花は慇懃に頭を下げて職員室を出ていった。
 麗奈が薄笑いを浮かべて慧を見る。

「生物にロマンなんてあるんですか?」
「ロマンの塊だよ」
「そうなんだ。じゃあ今度夜景の見えるロマンチックなお店にでも連れて行ってください」
「ロマンがあるのは生物であって、生物教師ではない」
 すまんな、と席を立つ。たしか颯太は放課後になると、図書室で勉強をしているはずだ。
「どこ行くんですか?」
「生態調査ならぬ生徒調査だ」