廊下を歩いていると、すれ違う生徒たちのほとんどは挨拶をしてくれる。口下手な生徒でも、会釈くらいはして表面上の教師に対する敬意は示す。
しかし、慧に対してはどちらの振る舞いも絶対にしない生徒がいる。
「無視するなよ、生徒会長」
慧は階段の踊り場で振り返り、上階に歩を進めようとした東堂一郎に声をかけた。
立ち止まった一郎は話しかけられたことを意外に思ったのか、眼鏡の奥の目を丸くしている。しかし、すぐに小馬鹿にしたように鼻を鳴らすとニヤリと口元を歪めた。
「ありがたいですよ永島先生。ちゃんと僕にもお叱りの言葉をくれるんですね。いつも何も言わないので、見捨てられているのかと思ってました」
一郎の言うとおり、慧も普段は一郎の態度を咎めることはない。しかし、澄花からの脅迫もあり奏との停滞した関係性を再認識した今、改めて教審の審議部長が自分のことをどう思っているのか、確認しておくのも悪くないと思った。
「門馬先生からも冷血漢のように言われたりするが、俺は意外と普通の教師だ。生徒を見捨てたりはしない」
「普通ならそうでしょうが、僕のことはきっと嫌いでしょうからね」
「……あのな、東堂。俺は別にお前のことを嫌っていないぞ」
「そうだ、先生。最近知ったんですが、ピノキオ効果というのがあるようですね」
そう言うと一郎は慧の鼻のあたりを凝視してきた。変わっていないな、と慧は小さく肩を落とす。
ピノキオ効果とは嘘をついた時に交感神経が刺激され鼻先の温度がわずかに低下し、額の温度がわずかに上昇するという生理的な変化のことを指す。鼻先の違和感から無意識に鼻を触る回数が増えることもあり、それが嘘を見抜くサインになると言われたりもする。
つまり一郎はふざけながらも、暗に慧が嘘をついていると言っているのだ。
なぜここまでの敵対心を持たれなければならないのか。慧は時々、二年前に下した自らの判断を後悔しそうになる。
二年前。一郎は一年生ながら生物学オリンピックの国内大会に出場する校内代表を決める選考会で最終候補に残った。一年生で校内代表に選ばれた生徒は過去におらず、学院初の快挙達成に対する周囲の期待はにわかに高まっていた。しかし、結局一郎は落選。その最終判断を下したのが慧だった。
もちろん、慧の決定は最終候補者が参加した合宿や複数回行われた実力テストの結果などに基づいて総合的に判断した結果であり、一郎を貶めようとか上級生を優遇しようとした事実はない。それにも拘わらず、一郎は落選したことがよほど悔しかったのか、それ以降、校内で慧とすれ違う時には慧を無視し、虫の居所が悪い時には舌打ちをしたりして、嫌悪感を隠さなかった。二年生に進級すると「また不当な判断を下されても不愉快なだけだ」と選考会に参加すらしなくなった。
「それでは先生。僕は僕を慕ってくれている仲間たちと文化祭についての打ち合わせがありますので」
そう言うと一郎は生徒会室のある方向へと歩いて行った。
「やっぱり駄目だな」
慧は一人つぶやく。時間が経って少しは関係が改善しているかと期待したが、全くそんなことはなかった。
多くの人間は「慧は一郎に逆恨みされている」と気の毒に思っていた。しかし、教審で交際を認可するか否かの最終判断は審議部長である一郎に委ねられている。成績という数値化された指標で審議される交認に対して、教審には明確な基準はなく、端的に言うと感情論、つまり申請してきた教師の好感度は大きな判断材料になる。
仮に奏の希望通りに交際を申請したとしても、やはり勝ち目があるとは思えなかった。
しかし、慧に対してはどちらの振る舞いも絶対にしない生徒がいる。
「無視するなよ、生徒会長」
慧は階段の踊り場で振り返り、上階に歩を進めようとした東堂一郎に声をかけた。
立ち止まった一郎は話しかけられたことを意外に思ったのか、眼鏡の奥の目を丸くしている。しかし、すぐに小馬鹿にしたように鼻を鳴らすとニヤリと口元を歪めた。
「ありがたいですよ永島先生。ちゃんと僕にもお叱りの言葉をくれるんですね。いつも何も言わないので、見捨てられているのかと思ってました」
一郎の言うとおり、慧も普段は一郎の態度を咎めることはない。しかし、澄花からの脅迫もあり奏との停滞した関係性を再認識した今、改めて教審の審議部長が自分のことをどう思っているのか、確認しておくのも悪くないと思った。
「門馬先生からも冷血漢のように言われたりするが、俺は意外と普通の教師だ。生徒を見捨てたりはしない」
「普通ならそうでしょうが、僕のことはきっと嫌いでしょうからね」
「……あのな、東堂。俺は別にお前のことを嫌っていないぞ」
「そうだ、先生。最近知ったんですが、ピノキオ効果というのがあるようですね」
そう言うと一郎は慧の鼻のあたりを凝視してきた。変わっていないな、と慧は小さく肩を落とす。
ピノキオ効果とは嘘をついた時に交感神経が刺激され鼻先の温度がわずかに低下し、額の温度がわずかに上昇するという生理的な変化のことを指す。鼻先の違和感から無意識に鼻を触る回数が増えることもあり、それが嘘を見抜くサインになると言われたりもする。
つまり一郎はふざけながらも、暗に慧が嘘をついていると言っているのだ。
なぜここまでの敵対心を持たれなければならないのか。慧は時々、二年前に下した自らの判断を後悔しそうになる。
二年前。一郎は一年生ながら生物学オリンピックの国内大会に出場する校内代表を決める選考会で最終候補に残った。一年生で校内代表に選ばれた生徒は過去におらず、学院初の快挙達成に対する周囲の期待はにわかに高まっていた。しかし、結局一郎は落選。その最終判断を下したのが慧だった。
もちろん、慧の決定は最終候補者が参加した合宿や複数回行われた実力テストの結果などに基づいて総合的に判断した結果であり、一郎を貶めようとか上級生を優遇しようとした事実はない。それにも拘わらず、一郎は落選したことがよほど悔しかったのか、それ以降、校内で慧とすれ違う時には慧を無視し、虫の居所が悪い時には舌打ちをしたりして、嫌悪感を隠さなかった。二年生に進級すると「また不当な判断を下されても不愉快なだけだ」と選考会に参加すらしなくなった。
「それでは先生。僕は僕を慕ってくれている仲間たちと文化祭についての打ち合わせがありますので」
そう言うと一郎は生徒会室のある方向へと歩いて行った。
「やっぱり駄目だな」
慧は一人つぶやく。時間が経って少しは関係が改善しているかと期待したが、全くそんなことはなかった。
多くの人間は「慧は一郎に逆恨みされている」と気の毒に思っていた。しかし、教審で交際を認可するか否かの最終判断は審議部長である一郎に委ねられている。成績という数値化された指標で審議される交認に対して、教審には明確な基準はなく、端的に言うと感情論、つまり申請してきた教師の好感度は大きな判断材料になる。
仮に奏の希望通りに交際を申請したとしても、やはり勝ち目があるとは思えなかった。
