栞に初めて出会ったのは、慧が大学三年生になったばかりの四月だった。
講師として登録していた家庭教師の仲介業者から、数学の指導を希望する高校三年生の女子から依頼があったと連絡がきた。数学であれば他にもっと適した人材がいるのではないかと訊くと、「永島慧さんにお願いしたいって、お前をご指名だったぞ」と言われた。新手のストーカーか何かだろうかと訝しんだが、「とりあえず行ってみろ」と言われたので大人しく依頼があった家に向かうことにした。
「よろしくお願いします」
玄関先で迎えてくれたショートヘアの栞は高校三年生にしては幼く、何故か険しい顔をしていた直哉は四十歳には見えないほど若かった。
「お父さん、何でそんな顔してるの?」
「当たり前だろ」
「何が当たり前なのか全然わかんないんだけど」
呆れてため息を漏らした栞だったが、思春期特有の反抗的な態度ではなく、言いたいことを言い合える仲の良い親子なのだろうと慧は思った。母親は栞が五歳の頃に亡くなっていたようだがそこに寂しさはなく、仏壇の上で微笑む写真の母親とともに、今でも三人で暮らしているような暖かい空気が家の中に流れていた。言われたままとりあえず行ってみて何かあったら仲介業者に慰謝料でも請求してやろうと構えていたが、そんな事態にはならなそうだった。
栞の部屋に行って実力を測るために小テストを解かせてみると、とても優秀だということがわかった。それこそ、家庭教師など不要ではないかと思うほどに。
褒め言葉のつもりでそのことをストレートに伝えると、栞は「あれ、嘘なんです」と悪戯っぽく笑った。
「嘘?」
「学力アップとかどうでも良くて、ただ先生に会いたかったんです」
真っ直ぐに見つめてくる栞の瞳を見つめ返す。やはりストーカーの類なのかと、一瞬だけ疑念が湧いたが、黒く澄んだ瞳からは邪な感情は見てとれない。
「俺のことを知ってるのか?」
「最近知りました」
「どこで?」
「それは秘密です」
「怪しいな」
「ミステリアスな女を目指してるんですよ」
そんなことより先生のことを教えてください、と栞は言った。
「俺は数学を教えにきたんであって、自分語りをしにきたんじゃないぞ」
「すごいじゃないですか。作家や芸能人でもないのに自分語りでお金をもらえるなんて」
口の減らない奴だなと思ったが、不思議と不快にならなかったのは、きっと栞の笑顔が無邪気だったからだ。
今後、先生と教え子として関係を築くにあたって自分のことを少しでも知っておいてもらった方が良いのは確かであり、慧は名前や年齢などテンプレートの自己紹介をした後で、最近母親が再婚したことを話した。変な空気になるのが嫌で、周りの友人に教えたことはなく、話すのは栞が初めてだった。
「お父さんって呼ぶの?」
栞は殊の外おずおずと訊いてきた。たしかに明るく話すような話題でもないが、栞になら気を遣われることはないかと想像していたので、慧は口に出したことを少し後悔する。
「それは無理だろうな」
素直な気持ちだったが、再婚相手のことが嫌いなわけではなかったし、「俺の親父は一人だけだ」などと前の父に気を遣っているわけでもない。そもそも慧が産まれたのは前の父と母が破局してからであり、二人は籍も入れていなかった。それ故、「前の父」という表現をするのも違和感があるくらい、慧にとってその男は無に等しい存在だった。
再婚相手は慧にとって実質初めての父親であるが、二十歳を過ぎた今更になって知り合った歳上の男を「お父さん」などと呼ぶ気にはなれなかった。
数学の話は全くしないまま時間は過ぎ、帰る段になって一階に降りると、食卓には何故か三人分のドリアが仲良く湯気を立てて並んでいた。
「食っていけ」
来た時と変わらない険しい顔つきだったが、直哉の作ったドリアは濃厚なミートソースとチーズが絶妙に絡み合っていて美味かった。「店で一番の人気メニューなんだよ」と栞が言うと、険しい顔は少しだけ緩んでいた。
食事中は栞ばかりがずっと喋っていた。直哉とは一言も口を聞かなかったのに、食事を終えると向こうから「送っていく」と申し出があった。気まずい目に合うのは火を見るより明らかだったが、栞が嫌にプッシュしてくるので断ることができなかった。
軽自動車に二人きり。案の定、帰りの車内は発進してからずっと沈黙が続いたが、交差点の信号待ちのところで直哉はぶっきらぼうに口を開いた。
「どうだ、栞は」
「そうですね。すごく優秀だと思いますよ」
「そんなことはどうでも良いんだよ。楽しそうだったかって聞いてるんだ」
子も子なら親も親で、家庭教師を保育士か何かと勘違いしているのか。しかし、理由はわからないが栞が勉強そっちのけで楽しそうにしていたのは事実である。慧がそれを教えると、直哉は満足そうに頷いた。
「次からはもっとちゃんと授業をします」
「いや、良い。来てくれれば、それで」
「そういうわけにはいきません。お金をいただいているのに。それに、そんなサボってたら受験に影響します」
「良いんだよ、そんな先のことは」
そういうと直哉は急に鼻をすすり始めた。もしかして泣いているのかと思ったが、確認することはしなかった。
信号が青に変わって車が進み出すと、再び会話はなくなった。ラジオパーソナリティのゆるいトークと、直哉の鼻をすする音だけが車内に響く。
まるでもうすぐ死ぬみたいだな。
そんなことを思いながら、慧は沈黙に身を委ねていた。
講師として登録していた家庭教師の仲介業者から、数学の指導を希望する高校三年生の女子から依頼があったと連絡がきた。数学であれば他にもっと適した人材がいるのではないかと訊くと、「永島慧さんにお願いしたいって、お前をご指名だったぞ」と言われた。新手のストーカーか何かだろうかと訝しんだが、「とりあえず行ってみろ」と言われたので大人しく依頼があった家に向かうことにした。
「よろしくお願いします」
玄関先で迎えてくれたショートヘアの栞は高校三年生にしては幼く、何故か険しい顔をしていた直哉は四十歳には見えないほど若かった。
「お父さん、何でそんな顔してるの?」
「当たり前だろ」
「何が当たり前なのか全然わかんないんだけど」
呆れてため息を漏らした栞だったが、思春期特有の反抗的な態度ではなく、言いたいことを言い合える仲の良い親子なのだろうと慧は思った。母親は栞が五歳の頃に亡くなっていたようだがそこに寂しさはなく、仏壇の上で微笑む写真の母親とともに、今でも三人で暮らしているような暖かい空気が家の中に流れていた。言われたままとりあえず行ってみて何かあったら仲介業者に慰謝料でも請求してやろうと構えていたが、そんな事態にはならなそうだった。
栞の部屋に行って実力を測るために小テストを解かせてみると、とても優秀だということがわかった。それこそ、家庭教師など不要ではないかと思うほどに。
褒め言葉のつもりでそのことをストレートに伝えると、栞は「あれ、嘘なんです」と悪戯っぽく笑った。
「嘘?」
「学力アップとかどうでも良くて、ただ先生に会いたかったんです」
真っ直ぐに見つめてくる栞の瞳を見つめ返す。やはりストーカーの類なのかと、一瞬だけ疑念が湧いたが、黒く澄んだ瞳からは邪な感情は見てとれない。
「俺のことを知ってるのか?」
「最近知りました」
「どこで?」
「それは秘密です」
「怪しいな」
「ミステリアスな女を目指してるんですよ」
そんなことより先生のことを教えてください、と栞は言った。
「俺は数学を教えにきたんであって、自分語りをしにきたんじゃないぞ」
「すごいじゃないですか。作家や芸能人でもないのに自分語りでお金をもらえるなんて」
口の減らない奴だなと思ったが、不思議と不快にならなかったのは、きっと栞の笑顔が無邪気だったからだ。
今後、先生と教え子として関係を築くにあたって自分のことを少しでも知っておいてもらった方が良いのは確かであり、慧は名前や年齢などテンプレートの自己紹介をした後で、最近母親が再婚したことを話した。変な空気になるのが嫌で、周りの友人に教えたことはなく、話すのは栞が初めてだった。
「お父さんって呼ぶの?」
栞は殊の外おずおずと訊いてきた。たしかに明るく話すような話題でもないが、栞になら気を遣われることはないかと想像していたので、慧は口に出したことを少し後悔する。
「それは無理だろうな」
素直な気持ちだったが、再婚相手のことが嫌いなわけではなかったし、「俺の親父は一人だけだ」などと前の父に気を遣っているわけでもない。そもそも慧が産まれたのは前の父と母が破局してからであり、二人は籍も入れていなかった。それ故、「前の父」という表現をするのも違和感があるくらい、慧にとってその男は無に等しい存在だった。
再婚相手は慧にとって実質初めての父親であるが、二十歳を過ぎた今更になって知り合った歳上の男を「お父さん」などと呼ぶ気にはなれなかった。
数学の話は全くしないまま時間は過ぎ、帰る段になって一階に降りると、食卓には何故か三人分のドリアが仲良く湯気を立てて並んでいた。
「食っていけ」
来た時と変わらない険しい顔つきだったが、直哉の作ったドリアは濃厚なミートソースとチーズが絶妙に絡み合っていて美味かった。「店で一番の人気メニューなんだよ」と栞が言うと、険しい顔は少しだけ緩んでいた。
食事中は栞ばかりがずっと喋っていた。直哉とは一言も口を聞かなかったのに、食事を終えると向こうから「送っていく」と申し出があった。気まずい目に合うのは火を見るより明らかだったが、栞が嫌にプッシュしてくるので断ることができなかった。
軽自動車に二人きり。案の定、帰りの車内は発進してからずっと沈黙が続いたが、交差点の信号待ちのところで直哉はぶっきらぼうに口を開いた。
「どうだ、栞は」
「そうですね。すごく優秀だと思いますよ」
「そんなことはどうでも良いんだよ。楽しそうだったかって聞いてるんだ」
子も子なら親も親で、家庭教師を保育士か何かと勘違いしているのか。しかし、理由はわからないが栞が勉強そっちのけで楽しそうにしていたのは事実である。慧がそれを教えると、直哉は満足そうに頷いた。
「次からはもっとちゃんと授業をします」
「いや、良い。来てくれれば、それで」
「そういうわけにはいきません。お金をいただいているのに。それに、そんなサボってたら受験に影響します」
「良いんだよ、そんな先のことは」
そういうと直哉は急に鼻をすすり始めた。もしかして泣いているのかと思ったが、確認することはしなかった。
信号が青に変わって車が進み出すと、再び会話はなくなった。ラジオパーソナリティのゆるいトークと、直哉の鼻をすする音だけが車内に響く。
まるでもうすぐ死ぬみたいだな。
そんなことを思いながら、慧は沈黙に身を委ねていた。
