コイワズライ

 商店街の一角にあるカフェ「ことのは」。
 カウンターに座って、もう何千回飲んだかわからないブラックコーヒーを注文すると、マスターである四賀直哉(しがなおや)が慧を睨んでいた。先月誕生日を迎えて五十一歳になり、「俺も年食ったな」などと自虐していたが、金色に染まるツーブロックはまだまだ若々しさを感じさせる。

「やめてください。神様にそんなに見つめられると穴が開いちゃうじゃないですか」

 慧がふざけると直哉はため息をついた。基本的には直哉のことをマスターと呼ぶが、小説の神様と呼ばれた文豪と同じ名前であることから、時折神様と呼ぶこともある。他には直哉さんと呼んだり、一度だけ親父と呼んだこともあった。

「これ、いつものやつ」

 直哉はカウンターの下からA4用紙が何枚か入ったクリアファイルを取り出すと、慧の前に乱暴に置く。慧は受け取って中身を確認すると、足元に置いていた鞄の中に閉まった。

「いつもありがとうございます。それより俺、何かしました?」

 直哉の所作はいつもより乱暴で、声には怒気が含まれていた。あまりふざけていると拳が飛んでくるかもしれない。慧は努めて真顔を作る。

「退学させたんだってな」

 そういうことか。慧はようやく合点がいった。

「随分情報が早いですね」
「午前中に若いカップルが来た。そこのテーブル席に座って二人とも泣いていたから声をかけたんだ。そしたら『学校を追い出されました』って言うから気になってな」

 慧は直近の交認で退学を言い渡した玲央と心菜の姿を思い出す。あれから一週間が経つが、まだ傷は癒えていないのだろう。

「男の方は家出したみたいだぞ」

 交認の後、玲央は息子が退学したのに妙に晴れやかな顔をしている母親を訝しく思った。問い詰めると、母親は自分が交際についてリークしたことを悪びれもせずに認めた。 

 ──あなたのためなのよ。

 その台詞に激怒した玲央は我を忘れて家を飛び出し、心菜の家へと転がり込んだ。今は斎賀家に受け入れてもらっているが、ずっとそのままでいるわけにもいかず悩んでいる。

「なあ、慧。お前、目的を忘れたわけじゃないよな」

 わかっている。慧自身が今の自分の立場や役割に一番歯がゆさを抱いていた。
 慧が光栄学院の教師になってから五年。生徒の信頼を勝ち取り、学院内の地位を向上させることに努めたおかげで、早智枝からは高く評価されるようになった。早智枝に取り入ることは屈辱でしかなかったが、目的のために歯を食いしばり耐えた。
 目的は二つ。一つは交認を廃止に追い込むこと。そしてもう一つは、早智枝に自らの過ちを認めさせることだ。
 初めて早智枝と出会った時に抱いた絶望。それから数年は心に穴が空いたように日々を生きていたが、ある時、絶望は怒りとなって静かに燃え上がった。

 ──永島先生、今までありがとうございました。

 塾講師をしていた時、塾で目をかけていたショウタという男子生徒が唐突に別れを告げてきた。理由も言わずに逃げ出そうとするのを追いかけて問いただすと、ショウタはようやく口を開いてくれた。 

 ──俺、実は彼女がいたんです。

 それがどうした。大学生の時以来彼女がいない自分に対する嫌味なのかと慧は皮肉を言いたくなったが、そうではなかった。光栄学院に通っていたショウタは、認可を得ずにクラスメイトと交際していたことが発覚して退学処分となった。
 光栄学院には恋愛に関する制限があるということは慧も知っていたが、その規程を破ったからといって本当に退学させられる生徒がいるとは思わなかった。ショウタは塾でも非常に優秀で、その数カ月前には生物学オリンピックの校内代表候補になったという嬉しい報告を聞かされていたこともあり、そんな優秀な生徒を一度の過ち、それも世間一般では過ちとも思われないようなことで退学させる光栄学院の方針に、慧の中で何かが切れた。そして浮かんできたのは一度だけ会ったことのある、光栄学院理事長の冷酷な表情だった。

 ──俺があの女をなんとかする。

 直哉にそう宣言すると、同じ思いを抱いていたのか直哉からも「協力するから頼む」と頭を下げられた。
 そんな決意で潜入したというのに、現状は学院の中で最も早智枝に近い立場となり、影では傀儡と揶揄されていることも知っている。

「もう少し待ってください、マスター」

自分に言い聞かせる。

「もう少しできっかけが掴めそうなんです」
「何かあるのか?」
「はい。詳しくはまだ言えませんが」

 澄花からの脅迫はチャンスだ。しかしここで判断を誤ると、交認を壊滅させる前に自らの立場が危うくなる。

「まあ良くわからんが、栞には軽蔑されるようなことだけはするなよ」
「……わかってますよ」

 そこで、カラン、とカウベルが鳴り新しい客が入ってきた。
 直哉が接客に向かうと、それまで直哉に隠れて見えなかったカウンター内の後方、大きな食器棚のオープンスペースに置かれた小さな写真立てが顔を覗かせる。そこに写っている栞はいつもと変わらず、優しく微笑んでいる。