戦後生まれの早智枝は決して恵まれた家庭環境で育ったとは言えなかったが、独学で勉学に励み東京の国立大学に進学。卒業後は地元青野市に戻ってくると、自らが幼少時代に思うような教育が受けられなかったという経験から「家庭環境によらず、どんな子どもにも平等な教育環境を与える」という理念の元、塾の経営を始めた。
小さい塾ではあったが早智枝のわかりやすく丁寧な指導は評判を集めた。数年かけて複数の塾生をT大に合格させると、出版社から依頼を受けて「学歴社会における教育論」というタイトルの書籍を出版。次第に「教育界のご意見番」としてメディア出演をするようになると、テレビ局関係者の紹介で生涯の伴侶となる財閥の跡取りと出会った。
嫁ぎ先の潤沢な資産の力を借りた早智枝は私立光栄学院を創設して、現在に至るまで教育界の第一線で活躍している。早智枝とその夫との出会いは二人だけではなく、まさに多くの人間の人生を変えた出会いだった。
しかし、何故早智枝の惚気話を聞かされなければいけないのか。それに自身は自由恋愛の末に幸せを手にしたくせに、生徒にはそれを一切許さない。
──独裁者め。
慧が声に出さずに毒づいた時、早智枝は一つため息をつき、うんざりした顔で話を続けた。
「愛というのは継続して初めて意味があると思うのです。一過性の愛は時に人を不幸に陥れる」
なるほど。話の終着点がようやく慧にもわかった。
「この学院の生徒たちは皆、優秀です。それでも、まだ大人の庇護は必要な年齢であり、こと恋愛に関しては情熱こそが一番重要だという考えを持つ年頃です。それによって身を滅ぼす人間がいることを、私は知っています」
早智枝の脳裏には自分の体を痛めて産んだ息子の姿が浮かんでいるのかもしれない。早智枝の苦々しい記憶は、交認という歪な組織の誕生の歴史でもある。
早智枝には二人の子どもがいる。一人は麗奈の母親で、もう一人はその数年後に誕生した長男だ。長男は頭も良く、正式な試験を勝ち抜いて光栄学院に進学すると、学年でも常に上位をキープしていた。
──この子はきっとこの学院を継いでくれる。
早智枝はそんな期待を寄せるようになったが、長男は高校三年生の時、書き置きを残して突然失踪した。
──アイツと一緒になる。
長男は二年生の終わり頃からクラスメイトの女子生徒と交際を始めたが、早智枝は彼女のことがどうしても好きにはなれなかった。当時はまだ珍しかった金色に染まった髪に、二つの耳に空いたピアス。元々真面目だった女子生徒は、光栄学院のレベルの高さについていけなくなったことで、放課後には勉強もせずに繁華街に繰り出すようになった。早智枝は何度もその女子生徒と別れるように長男に言ったが、その度に喧嘩になり、終いには駆け落ちして家を出ていった。
その後は興信所に依頼して長男の情報は逐一入手していたが、光栄学院を卒業していれば叶ったはずの裕福な生活は送ることができなかったうえ、結局二人は別れてしまったことを早智枝は知った。
息子はたぶらかされ、明るい未来を捨ててしまった。どんなに勉強ができても、高校生はまだ子ども。特に恋愛に関してはその場の勢いだけで判断してしまうのだから、大人がしっかりと管理しなければいけない。
そんな思いを強くした早智枝は、二度と息子と同じような不幸な生徒を出さないために、生徒の恋愛を管理することにした。それが交際認可審議会設立の経緯だ。
「永島先生。あなたにはこれからも期待していますよ」
「ありがとう、ございます」
期待、という言葉に虫唾が走る。このまま自分は何も変えることができず、早智枝の思想に飲み込まれてしまうのだろうか。そんなことはない。そんなことはあってはならない。
「ところでどうですか? 麗奈のことは」
不意に飛び出した孫娘の名前に、またか、と慧は嫌気が差す。
「それに関しては、申し訳ないですが」
「麗奈のどこがお眼鏡にかなわないのです?」
「そういうことではなくて、麗奈さんはとても素敵な女性なのですが……」
「じゃあ良いじゃないですか。教審には私から話を通しておきますよ」
それは完全なる職権乱用ではないかと慧は呆れる。
この半年くらいで、麗奈の婚約者にならないかという話がしばしば早智枝の口から持ち出されるようになった。自分が評価されていることは感じていたが、まさか孫娘の婚約者候補にまでされるとは想定していなかった。しかし、麗奈とそういう仲になることはあり得ない。
「もしかして、もうすでにお付き合いをしている女性が?」
「それは、おりませんが」
当然、早智枝は奏と付き合っていることを知らない。こういう時、相手への後ろめたさから言葉を濁してしまう人間もいるが、慧は必ず「交際相手はいない」と言うことを決めていた。いると言ってしまうとどういう相手なのかを根掘り葉掘り聞かれてボロがでるかもしれないし、いないと言うことをためらってしまうと、疑われてしまう。
「いないのであれば良いでしょう? 麗奈だって、あなたのことは気に入っていますよ」
「そうでしょうか」
「そうです」
たしかに、麗奈には懐かれているという自覚はあるが、単純に舐められているだけのような気もする。
その時、机の上の電話が鳴った。早智枝がソファを立って電話に出ると、「ええ、ええ。ああ、そうでございましたね」と何やら頭を下げている。電話を切ると、早智枝は慧に退出を促した。
「先ほど言っていたテレビ番組のプロデューサーとウェブで打ち合わせをすることになっていたのを忘れていました。今日はこのあたりで」
「いえ。それでは失礼します」
救われた、と慧は安堵した。理事長室を出ると、スマートフォンで時刻を確認する。
こちらも約束の時間だった。
小さい塾ではあったが早智枝のわかりやすく丁寧な指導は評判を集めた。数年かけて複数の塾生をT大に合格させると、出版社から依頼を受けて「学歴社会における教育論」というタイトルの書籍を出版。次第に「教育界のご意見番」としてメディア出演をするようになると、テレビ局関係者の紹介で生涯の伴侶となる財閥の跡取りと出会った。
嫁ぎ先の潤沢な資産の力を借りた早智枝は私立光栄学院を創設して、現在に至るまで教育界の第一線で活躍している。早智枝とその夫との出会いは二人だけではなく、まさに多くの人間の人生を変えた出会いだった。
しかし、何故早智枝の惚気話を聞かされなければいけないのか。それに自身は自由恋愛の末に幸せを手にしたくせに、生徒にはそれを一切許さない。
──独裁者め。
慧が声に出さずに毒づいた時、早智枝は一つため息をつき、うんざりした顔で話を続けた。
「愛というのは継続して初めて意味があると思うのです。一過性の愛は時に人を不幸に陥れる」
なるほど。話の終着点がようやく慧にもわかった。
「この学院の生徒たちは皆、優秀です。それでも、まだ大人の庇護は必要な年齢であり、こと恋愛に関しては情熱こそが一番重要だという考えを持つ年頃です。それによって身を滅ぼす人間がいることを、私は知っています」
早智枝の脳裏には自分の体を痛めて産んだ息子の姿が浮かんでいるのかもしれない。早智枝の苦々しい記憶は、交認という歪な組織の誕生の歴史でもある。
早智枝には二人の子どもがいる。一人は麗奈の母親で、もう一人はその数年後に誕生した長男だ。長男は頭も良く、正式な試験を勝ち抜いて光栄学院に進学すると、学年でも常に上位をキープしていた。
──この子はきっとこの学院を継いでくれる。
早智枝はそんな期待を寄せるようになったが、長男は高校三年生の時、書き置きを残して突然失踪した。
──アイツと一緒になる。
長男は二年生の終わり頃からクラスメイトの女子生徒と交際を始めたが、早智枝は彼女のことがどうしても好きにはなれなかった。当時はまだ珍しかった金色に染まった髪に、二つの耳に空いたピアス。元々真面目だった女子生徒は、光栄学院のレベルの高さについていけなくなったことで、放課後には勉強もせずに繁華街に繰り出すようになった。早智枝は何度もその女子生徒と別れるように長男に言ったが、その度に喧嘩になり、終いには駆け落ちして家を出ていった。
その後は興信所に依頼して長男の情報は逐一入手していたが、光栄学院を卒業していれば叶ったはずの裕福な生活は送ることができなかったうえ、結局二人は別れてしまったことを早智枝は知った。
息子はたぶらかされ、明るい未来を捨ててしまった。どんなに勉強ができても、高校生はまだ子ども。特に恋愛に関してはその場の勢いだけで判断してしまうのだから、大人がしっかりと管理しなければいけない。
そんな思いを強くした早智枝は、二度と息子と同じような不幸な生徒を出さないために、生徒の恋愛を管理することにした。それが交際認可審議会設立の経緯だ。
「永島先生。あなたにはこれからも期待していますよ」
「ありがとう、ございます」
期待、という言葉に虫唾が走る。このまま自分は何も変えることができず、早智枝の思想に飲み込まれてしまうのだろうか。そんなことはない。そんなことはあってはならない。
「ところでどうですか? 麗奈のことは」
不意に飛び出した孫娘の名前に、またか、と慧は嫌気が差す。
「それに関しては、申し訳ないですが」
「麗奈のどこがお眼鏡にかなわないのです?」
「そういうことではなくて、麗奈さんはとても素敵な女性なのですが……」
「じゃあ良いじゃないですか。教審には私から話を通しておきますよ」
それは完全なる職権乱用ではないかと慧は呆れる。
この半年くらいで、麗奈の婚約者にならないかという話がしばしば早智枝の口から持ち出されるようになった。自分が評価されていることは感じていたが、まさか孫娘の婚約者候補にまでされるとは想定していなかった。しかし、麗奈とそういう仲になることはあり得ない。
「もしかして、もうすでにお付き合いをしている女性が?」
「それは、おりませんが」
当然、早智枝は奏と付き合っていることを知らない。こういう時、相手への後ろめたさから言葉を濁してしまう人間もいるが、慧は必ず「交際相手はいない」と言うことを決めていた。いると言ってしまうとどういう相手なのかを根掘り葉掘り聞かれてボロがでるかもしれないし、いないと言うことをためらってしまうと、疑われてしまう。
「いないのであれば良いでしょう? 麗奈だって、あなたのことは気に入っていますよ」
「そうでしょうか」
「そうです」
たしかに、麗奈には懐かれているという自覚はあるが、単純に舐められているだけのような気もする。
その時、机の上の電話が鳴った。早智枝がソファを立って電話に出ると、「ええ、ええ。ああ、そうでございましたね」と何やら頭を下げている。電話を切ると、早智枝は慧に退出を促した。
「先ほど言っていたテレビ番組のプロデューサーとウェブで打ち合わせをすることになっていたのを忘れていました。今日はこのあたりで」
「いえ。それでは失礼します」
救われた、と慧は安堵した。理事長室を出ると、スマートフォンで時刻を確認する。
こちらも約束の時間だった。
