コイワズライ

「失礼します。永島です」

 マホガニー製の扉をノックすると中から冷たい声が返ってきた。

「入りなさい」
「失礼します」

 扉を開けると光栄学院理事長、門馬早智枝は席に座り、忙しなくペンを走らせていた。白髪の上にかけている老眼鏡を上げ下げする仕草は八十歳を目前に控えた齢相応であるが、ピンと伸びた背筋や凛とした声色は知らない人が見れば実際より二十は若い年齢を言うだろう。

「お邪魔でしたか?」
「私が呼んだのだから、邪魔なわけはないでしょう。そこに座って少し待っていなさい」

 早智枝は目の前の応接ソファを目で指し示し、慧を座らせる。しばらくして、自らも向かい側に腰を下ろした。

「来週テレビ出演があるので資料をまとめていました。マスコミはいつまで後期高齢者をこき使うのでしょうね」
「いつもの情報番組ですか?」
「もう少し緩めの教育番組です。『高等教育の実態』というテーマで、芸能人を相手に語るという内容です。そんな場所で教育論を語っても無意味ですが」

 早智枝は土曜日の昼に放送されている全国放送の情報番組に教育評論家としてレギュラー出演している他、今回のようにスポットでテレビ番組に出たりもする。

「拝見させていただきます」

 学院に入ってから、平気で嘘をつけるようになったなと、慧は自分にうんざりする。

「それで。ご用件というのはなんでしょうか?」
「先日は不在にしていましたが、未認可交際についてはあなたがしっかりと裁いてくれたみたいですね」

 玲央と心菜の件だ。あの日、早智枝は学会で不在にしていた。おかげで慧は自らの口で生徒たちを追い出すハメになり、将来思い出したくない記憶がまた一つ増えたが、上司に褒められたら「ありがとうございます」と礼を述べるのが立派な大人の条件だ。
 感謝の念を示されたことに満足したのか、早智枝は頷いた。
 しかしそれも束の間、「ですが」と早智枝の眼光が鋭く光り、慧の背筋が反射的に伸びる。どんなに憎んでいる存在であっても、学院の理事長と教師という関係に体は素直に反応する。

「その後の交認……熊谷くんと三枝さん、でしたか。彼らに対するあの質問は何ですか? どういう意図があったのか私には理解しかねますが」
「あの場で熊谷くんに答えたとおりですよ。彼の三枝さんに対する愛情を他の審議員にも示しておこうと思いました」

 思いつきで答えたにしては、悪くない言い訳だ。しかし、早智枝は簡単には引き下がらない。

「それは生徒に肩入れをしたということですか?」
「そうではありません。二人の思いが強いほど、交際は長く続く。それは我々の判断が正しいということを補強することになるとも思いました」
「なるほど。あなたの言い分はわかりました。ですが、あの二人に関しては議論の余地もなく認可すべきことは明らかでした。このような場合には必要以上に議論をすることは避けるべきです。そこには必ず『感情』が入りますから」

 その感情に囚われて、このふざけた制度を作ったのだろう、と慧は内心で悪態をつく。

「以後、気をつけます。我々はただ審議会の規程に従って判断するまでですね」

 ルールだから仕方なくやっているんだ、という意思を言葉の裏に潜ませたが、それに早智枝が気づくことはない。

「言葉にすればそれだけのことですが、それだけのことを当たり前にできる人は意外にも少ないのですよ。永島先生、人間には二種類の人間がいます。情に流される人間と、情を捨てて秩序を守ろうとする人間です。あなたにはこれからも学院の秩序を守るために最適な選択をしてくれることを期待します」
「……それが生徒たちにとっても最適な選択であることが理想ですね」
「生徒たちにとって、ですか。まさに理想ですね。時に永島先生、良い教師とはどのような人間を指すと思いますか?」
「良い教師、ですか?」

 禅問答が始まるのだろうか、と慧はうんざりするが答えないわけにもいかない。
 少し思案して、ゆっくりと口を開く。

「生徒を恐れない教師、でしょうか」
「ほう」

 続けなさい、と早智枝の目が促してくる。

「現代は情報に溢れています。生徒たちは良くも悪くも色々なことを知っている。時に自分より優秀な生徒に出会うと引け目を感じ、自分の考えに自信がなくなることもあると思います。それでも、『あの教師は大したことがない』と、そのように生徒たちから評価されることを恐れて、自分の意見や信念を伝えないことがあってはならないと私は思っています」
「なるほど。そういう意味での『恐れない』ですか」

 そう言うと早智枝は「私は」と持論を述べ始める。

「生徒から学ぶことができるのが良い教師の条件だと思っています」
「生徒から学ぶ……」
「教師というのは『教える師』であると同時に『教わる師』でもあるのです。生徒から上手に教わり、それを自分の血肉にできる人間こそが一流の教育者だと思っています」

 早智枝は立ち上がり自身のデスクの引き出しを開けると、何枚かの便箋を取り出した。ふふ、と早智枝が珍しく柔らかな笑みを浮かべる。

「これは亡くなった主人からもらったものです。ほんの一部ですが。主人はマメな人でね、結婚する前もしてからも、亡くなる直前でもこうして手紙を書いてくれたものです」
「それは、素敵なご主人ですね」

 早智枝は愛する人とともに過ごした日々を思い出しているのか、遠い眼差しで便箋を撫でていた。