夜は静かだった、静かすぎるほどに。
窓の外には月が浮かんでいて、時計の針の音だけが小さく部屋に響いている。
(眠れない……)
最近は、こういう夜が増えた。
目を閉じれば、嫌なことばかり浮かぶから。
制服についた汚れ。
誰もいないはずなのに感じた視線。
振り返っても誰もいなかった廊下。
胸の奥に残る、説明のできない違和感。
それなのに、一番忘れられないのは。
“どうか……私を頼ってください”
律の、あの声だった。
「……変なの」
小さく呟く。
怖かった。
嫌なことがあったからじゃない。
優しくされたことが。
安心してしまうことが。
怖かった。
まるで。
長い間、冷たい水の中にいた人間が。
初めて温かい場所に触れてしまった時みたいに。
もう元には戻れない気がして。
目を閉じる。
すると、静かな夜はいつも過去へ繋がっていた。
昔の屋敷は大きかった今の屋敷よりも。
もっと豪華で。
もっと綺麗で。
誰もが羨むような場所。
でも、それは外側だけで、内側はもっとずっと寒かった。
春も、夏も、秋も、冬も。
ずっと寒かった。
“感情に価値はない。不要なものは切り捨てろ”
“いいな、鈴”
お父様はそういう人だった。
決して怒鳴る人ではなかった。
暴力を振るう人でもなかった。
ただ──、いつも正しかった。
正しくて合理的で、冷たかった。
だから、幼い私はいつも思っていた。
怒られる私が悪いんだと。
泣いてしまう私が悪いんだと。
笑いすぎる私が悪いんだと。
そうやって少しずつ、段々と、私の中の「私」が小さくなっていった。
“私は貴女の母ではない……だから、そんな目で私を見ないでちょうだい”
それはお母様はの口癖で、私が母に話しかける度、母は何度もそう言った。
怒っているわけじゃない、嫌っているわけでもない。
ただ悲しそうな顔で。
苦しそうな顔で。
何度も何度も。
“私は母ではない”
そう繰り返した。
だから私は、母を困らせてはいけないと思った。
泣いてはいけないと思った。
妹の様に“良い子”でいなければいけないと思った。
そうしないと。
そうでなければ。
捨てられる。
“お姉様はわがままなの”
年子の妹、雫の言葉。
“そんな下手な絵いちいち見せに来ないで……興味がないわ。その絵にも、貴女にも”
これはお母様の言葉。
“不要なものは切り捨てる”
これはお父様の言葉。
全部。
全部、覚えている。
忘れたことなんて一度もない。
だから、愛されるには。
人に迷惑をかけてはいけない。
相手を困らせてはいけない。
本当の気持ちなんて見せてはいけない。
そう思っていた。
そうやって生きてきた。
なのに、あの人はそうじゃなかった。
“はじめまして、お嬢様”
“本日から貴女にお仕えする執事の、律と言います”
四ヶ月前、この廃れた屋敷にやってきた彼は、きっとどこか、おかしかった。
“困ったままでも構いません”
あの人は言った。
“無理に笑わなくても”
“強くなくても”
“私はそのままの貴女を、お守りします”
「……ずるい」
ぽつりと声が零れる。
そんなこと。
今まで誰も言ってくれなかった。
誰にも言われたことなんてなかった。
だから、分からない。
信じていいのか、甘えていいのか。
“愛されたい”と思っていいのか。
分からない、分からないのに。
胸が痛い。
あの人にだけは、嫌われたくない。
あの人にだけは、捨てられたくない。
でも、他の使用人の様に彼もある日突然いなくなるかもしれない。
涙が滲む。
「……誰か……私を愛して」
小さな誰にも届かない声
「愛されたいって思うのは、そんなに、悪いことなの……?」
鈴は、置かれていても音を鳴らさない。
誰かが触れて、誰かが揺らして。
初めて、小さな音を鳴らす。
昔の私は、
よく笑って。
よく泣いて。
よく怒って。
よくはしゃぐ。
そんな子供だった。
でも、その音は。
少しずつ。
少しずつ。
誰にも聞こえないように閉じ込められていった。
だから、もし。
もしも、もう一度。
誰かが私を揺らしてしまったら。
その時、私はどんな音を鳴らしてしまうんだろう。
それが少しだけ。
怖かった。
─── 九話:甘い罪の香り
窓の外には月が浮かんでいて、時計の針の音だけが小さく部屋に響いている。
(眠れない……)
最近は、こういう夜が増えた。
目を閉じれば、嫌なことばかり浮かぶから。
制服についた汚れ。
誰もいないはずなのに感じた視線。
振り返っても誰もいなかった廊下。
胸の奥に残る、説明のできない違和感。
それなのに、一番忘れられないのは。
“どうか……私を頼ってください”
律の、あの声だった。
「……変なの」
小さく呟く。
怖かった。
嫌なことがあったからじゃない。
優しくされたことが。
安心してしまうことが。
怖かった。
まるで。
長い間、冷たい水の中にいた人間が。
初めて温かい場所に触れてしまった時みたいに。
もう元には戻れない気がして。
目を閉じる。
すると、静かな夜はいつも過去へ繋がっていた。
昔の屋敷は大きかった今の屋敷よりも。
もっと豪華で。
もっと綺麗で。
誰もが羨むような場所。
でも、それは外側だけで、内側はもっとずっと寒かった。
春も、夏も、秋も、冬も。
ずっと寒かった。
“感情に価値はない。不要なものは切り捨てろ”
“いいな、鈴”
お父様はそういう人だった。
決して怒鳴る人ではなかった。
暴力を振るう人でもなかった。
ただ──、いつも正しかった。
正しくて合理的で、冷たかった。
だから、幼い私はいつも思っていた。
怒られる私が悪いんだと。
泣いてしまう私が悪いんだと。
笑いすぎる私が悪いんだと。
そうやって少しずつ、段々と、私の中の「私」が小さくなっていった。
“私は貴女の母ではない……だから、そんな目で私を見ないでちょうだい”
それはお母様はの口癖で、私が母に話しかける度、母は何度もそう言った。
怒っているわけじゃない、嫌っているわけでもない。
ただ悲しそうな顔で。
苦しそうな顔で。
何度も何度も。
“私は母ではない”
そう繰り返した。
だから私は、母を困らせてはいけないと思った。
泣いてはいけないと思った。
妹の様に“良い子”でいなければいけないと思った。
そうしないと。
そうでなければ。
捨てられる。
“お姉様はわがままなの”
年子の妹、雫の言葉。
“そんな下手な絵いちいち見せに来ないで……興味がないわ。その絵にも、貴女にも”
これはお母様の言葉。
“不要なものは切り捨てる”
これはお父様の言葉。
全部。
全部、覚えている。
忘れたことなんて一度もない。
だから、愛されるには。
人に迷惑をかけてはいけない。
相手を困らせてはいけない。
本当の気持ちなんて見せてはいけない。
そう思っていた。
そうやって生きてきた。
なのに、あの人はそうじゃなかった。
“はじめまして、お嬢様”
“本日から貴女にお仕えする執事の、律と言います”
四ヶ月前、この廃れた屋敷にやってきた彼は、きっとどこか、おかしかった。
“困ったままでも構いません”
あの人は言った。
“無理に笑わなくても”
“強くなくても”
“私はそのままの貴女を、お守りします”
「……ずるい」
ぽつりと声が零れる。
そんなこと。
今まで誰も言ってくれなかった。
誰にも言われたことなんてなかった。
だから、分からない。
信じていいのか、甘えていいのか。
“愛されたい”と思っていいのか。
分からない、分からないのに。
胸が痛い。
あの人にだけは、嫌われたくない。
あの人にだけは、捨てられたくない。
でも、他の使用人の様に彼もある日突然いなくなるかもしれない。
涙が滲む。
「……誰か……私を愛して」
小さな誰にも届かない声
「愛されたいって思うのは、そんなに、悪いことなの……?」
鈴は、置かれていても音を鳴らさない。
誰かが触れて、誰かが揺らして。
初めて、小さな音を鳴らす。
昔の私は、
よく笑って。
よく泣いて。
よく怒って。
よくはしゃぐ。
そんな子供だった。
でも、その音は。
少しずつ。
少しずつ。
誰にも聞こえないように閉じ込められていった。
だから、もし。
もしも、もう一度。
誰かが私を揺らしてしまったら。
その時、私はどんな音を鳴らしてしまうんだろう。
それが少しだけ。
怖かった。
─── 九話:甘い罪の香り
