昼休み、私は一人で教室を出た。
別に理由なんてない。
誰かと一緒にいるのが嫌だったわけじゃない。
ただ、少しだけ静かな場所に行きたかった。
なにも考えず、廊下を歩く。
窓の外は曇り空。
春なのに、どこか冷たい風が吹いていた。
(……なんか、疲れたな)
小さく息を吐いたその時。
窓ガラスに映った自分を見て、私は足を止めた。
「……え?」
最初は何が違うのか分からなかった。
でもよく見れば、制服の背中、そこに黒い染みのようなものが広がっている。
「なに……これ」
慌てて振り返る。
見えない。
手を伸ばして触れる。
インクだ。
指先が黒く汚れる。
心臓が一度だけ大きく跳ねた。
「……うそ」
近くの御手洗へ駆け込んで、鏡の前で制服を見る。
背中。
そこに滲んだ文字。
『元お嬢様』
『かわいそう』
『まだ今の執事いるの?』
全部は読めない。
擦れている。
滲んでいる。
でも、嫌になるくらい、その文字だけが目に入る。
「……っ」
息が詰まる。
なんで。
どうして。
誰が。
そんな言葉より先に、別の感情が胸の奥から浮かんでくる。
(……やっぱり)
その言葉に、自分で怯えた。
(やっぱり……そうなんだ)
(私はもう、本当のお嬢様なんかじゃない)
家の名前を守るためだけの肩書き
「私は………“元”お嬢様なんだ」
(みんな、そう思ってる)
指で擦る、取れない。
何度も擦る、でも、消えない。
黒い汚れだけが少しずつ広がっていく。
「……やだ」
声にならない、でも涙も出なかった。
悲しいより先に、恥ずかしかった。
怖いより先に、申し訳なかった。
(私が悪いのかな)
(まだ屋敷にいるから?)
(まだ律にお世話になってるから?)
(だから、こうなるのかな)
そんなはずない。
そんなこと、分かってる。
分かっているのに。
頭より先に、心の方が勝手に納得してしまう。
『元お嬢様』
その言葉は、汚された制服じゃなくて、まるで私自身に書かれているみたいだった。
「……大丈夫」
小さく呟くいつもの言葉。
誰もいないトイレの中で。
私は一人で笑う。
「こんなの……大したことない」
「別に平気」
「平気だから」
何度も言う。
そうしないと、泣いてしまいそうだった。
帰る頃にはカーディガンを羽織っていた。
(隠せる)
(…だから大丈夫)
そう思おうとする。
でも、歩きながら私は何度も背中を気にしてしまう。
誰かに見られている気がする。
笑われている気がする。
本当は誰も見ていないのかもしれない。
でも、もう私が私を見てしまっている。
(……汚れてる)
(制服じゃない、私が…汚れてる)
そんな考えが。
静かに胸の奥へ沈んでいく。
だから、屋敷の門が見えた瞬間。
私は少しだけ安心してしまった。
そして同時に思ってしまった。
(律も……いつか私を捨ててしまう)
(今までの使用人もそうだった)
(みんな辞めていった)
そんな考えのまま玄関を開ける。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
いつもの声。
聞き慣れた声。
優しい声。
その瞬間、胸が少しだけ痛くなる。
(違う)
(私は、もう……)
(そんな風に呼ばれるような人間じゃないのに)
それでも。
その声を聞くと、どうしようもなく安心してしまう自分がいた。
だから私は、また笑ってしまう。
「……ただいま、律」
─── 八話:愛されたいと願うのは
別に理由なんてない。
誰かと一緒にいるのが嫌だったわけじゃない。
ただ、少しだけ静かな場所に行きたかった。
なにも考えず、廊下を歩く。
窓の外は曇り空。
春なのに、どこか冷たい風が吹いていた。
(……なんか、疲れたな)
小さく息を吐いたその時。
窓ガラスに映った自分を見て、私は足を止めた。
「……え?」
最初は何が違うのか分からなかった。
でもよく見れば、制服の背中、そこに黒い染みのようなものが広がっている。
「なに……これ」
慌てて振り返る。
見えない。
手を伸ばして触れる。
インクだ。
指先が黒く汚れる。
心臓が一度だけ大きく跳ねた。
「……うそ」
近くの御手洗へ駆け込んで、鏡の前で制服を見る。
背中。
そこに滲んだ文字。
『元お嬢様』
『かわいそう』
『まだ今の執事いるの?』
全部は読めない。
擦れている。
滲んでいる。
でも、嫌になるくらい、その文字だけが目に入る。
「……っ」
息が詰まる。
なんで。
どうして。
誰が。
そんな言葉より先に、別の感情が胸の奥から浮かんでくる。
(……やっぱり)
その言葉に、自分で怯えた。
(やっぱり……そうなんだ)
(私はもう、本当のお嬢様なんかじゃない)
家の名前を守るためだけの肩書き
「私は………“元”お嬢様なんだ」
(みんな、そう思ってる)
指で擦る、取れない。
何度も擦る、でも、消えない。
黒い汚れだけが少しずつ広がっていく。
「……やだ」
声にならない、でも涙も出なかった。
悲しいより先に、恥ずかしかった。
怖いより先に、申し訳なかった。
(私が悪いのかな)
(まだ屋敷にいるから?)
(まだ律にお世話になってるから?)
(だから、こうなるのかな)
そんなはずない。
そんなこと、分かってる。
分かっているのに。
頭より先に、心の方が勝手に納得してしまう。
『元お嬢様』
その言葉は、汚された制服じゃなくて、まるで私自身に書かれているみたいだった。
「……大丈夫」
小さく呟くいつもの言葉。
誰もいないトイレの中で。
私は一人で笑う。
「こんなの……大したことない」
「別に平気」
「平気だから」
何度も言う。
そうしないと、泣いてしまいそうだった。
帰る頃にはカーディガンを羽織っていた。
(隠せる)
(…だから大丈夫)
そう思おうとする。
でも、歩きながら私は何度も背中を気にしてしまう。
誰かに見られている気がする。
笑われている気がする。
本当は誰も見ていないのかもしれない。
でも、もう私が私を見てしまっている。
(……汚れてる)
(制服じゃない、私が…汚れてる)
そんな考えが。
静かに胸の奥へ沈んでいく。
だから、屋敷の門が見えた瞬間。
私は少しだけ安心してしまった。
そして同時に思ってしまった。
(律も……いつか私を捨ててしまう)
(今までの使用人もそうだった)
(みんな辞めていった)
そんな考えのまま玄関を開ける。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
いつもの声。
聞き慣れた声。
優しい声。
その瞬間、胸が少しだけ痛くなる。
(違う)
(私は、もう……)
(そんな風に呼ばれるような人間じゃないのに)
それでも。
その声を聞くと、どうしようもなく安心してしまう自分がいた。
だから私は、また笑ってしまう。
「……ただいま、律」
─── 八話:愛されたいと願うのは
