朝の空気は静かだった。
昨夜の雨は止み、窓の外には薄い光が差している。
それなのに。
胸の奥に残る重さだけは消えていなかった。
(……眠れなかったな)
鏡の前で制服を整える。
その時。
「あ……」
昨日、少しだけ裂けていた袖。
そこが昨日より少しだけ広がっていた。
「……」
指先でそっと触れる。
(……いつ、こうなったんだろう)
昨日だったか、もっと前だったか。
考えても分からない。
(別に、このくらい)
(大したことない)
そう思って、私は制服から手を離した。
昔からそうだった。
痛いことも。
苦しいことも。
我慢していれば、そのうち終わる。
だから。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
「おはようございます、お嬢様」
食卓にはいつもの声。
「おはよう、律」
彼は小さく頭を下げる。
「よくお休みになれましたか」
「うん」
嘘だった。
でも、律は何も言わない。
「……そうですか」
それだけ。
なのに、ほんの少しだけ。
その目が苦しそうに見えた。
今日の学校も、教室も、全部、いつも通り。
授業。
笑い声。
誰かの噂話。
その中に自分だけがいない。
そんな感覚。
昼休み、机の中に教科書を入れようとして私は動きを止めた。
「あれ……?」
昨日と位置が違う。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ。
気のせいと言われれば、それまで。
でも。
(……誰か、触った?)
胸の奥がざわつく。
周囲を見る。
誰も見ていない、誰も何も言わない。
それが逆に怖かった。
「……変なの」
小さく笑って。
私はまた見なかったことにした。
夕焼けが屋敷までの道のりを赤く染めてる。
「……早く、帰らなくちゃ」
その言葉が自然と出る。
(帰りたい)
(安心したい)
(誰かに、大丈夫だと言ってほしい)
そんなことを考えながら屋敷へ戻る。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
やっぱり、その声を聞くと安心してしまう。
「……ただいま」
彼は小さく目を細める。
「お疲れでしょう」
「そう見える?」
「はい」
「やっぱり失礼ね」
「申し訳ございません」
思わず笑う。
そんなやり取りが今は少しだけ嬉しかった。
─ Side:律 ─
最近、お嬢様の笑顔が減った。
それだけは分かる。
疲れている。
何かを隠している。
それも分かる。
でも。
何が起きているのかだけが分からない。
「……」
(……執事として失格だ)
毎日見ているのに。
毎日傍にいるのに。
何も分からない。
それが嫌だった。
夕食の席で彼女は笑う。
でも、その笑顔が無理をしていることくらい、俺にも分かる。
「お嬢様」
「なに?」
「学校生活はいかがですか」
「楽しいよ」
まただ。
また笑う。
また大丈夫と言う。
胸が痛くなる。
「……そうですか………なら、良いんです」
それ以上聞けない。
聞いてはいけない。
主人の事情に踏み込みすぎるべきではない。
旦那様から俺はそう教わってきた。
そうあるべきだ。
それなのに。
(もっと知りたい)
(苦しいなら、教えてほしい)
そんな考えが浮かぶ。
「……駄目だ」
小さく呟く。
その感情は、執事の俺には必要ない。
その日の夜、部屋へ戻るお嬢様の背中が、少しだけ小さく見えた。
「お嬢様」
「ん?」
「……」
言葉が出ない。
何を言えばいいのか分からない。
だから。
「何かございましたら」
「どうか、私を頼ってください」
彼女は少しだけ目を丸くする。
「最近の律、そればっかり」
「申し訳ございません」
「ふふ」
彼女は笑う。
でも、その笑顔の奥にあるものだけは。
やっぱり今日も見えなかった。
─ Side:鈴 ─
ベッドに身を潜らせて私は目を閉じる。
昼間の机。
動いていた教科書。
少しずつ大きくなる制服の裂け目。
背中に感じた気配。
全部、気のせい。
そう、きっと気のせい。
そう思わないと怖くなる。
「……大丈夫」
小さく呟く。
その言葉が少しずつ、自分自身にも届かなくなり始めていることに。
私はまだ気づいていなかった。
そして、廊下の向こうで閉じられた扉を見つめる律もまた。
自分の中で少しずつ大きくなっていく感情の名前を。
まだ知らない。
── 七話:まだ知らないふりをして
昨夜の雨は止み、窓の外には薄い光が差している。
それなのに。
胸の奥に残る重さだけは消えていなかった。
(……眠れなかったな)
鏡の前で制服を整える。
その時。
「あ……」
昨日、少しだけ裂けていた袖。
そこが昨日より少しだけ広がっていた。
「……」
指先でそっと触れる。
(……いつ、こうなったんだろう)
昨日だったか、もっと前だったか。
考えても分からない。
(別に、このくらい)
(大したことない)
そう思って、私は制服から手を離した。
昔からそうだった。
痛いことも。
苦しいことも。
我慢していれば、そのうち終わる。
だから。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
「おはようございます、お嬢様」
食卓にはいつもの声。
「おはよう、律」
彼は小さく頭を下げる。
「よくお休みになれましたか」
「うん」
嘘だった。
でも、律は何も言わない。
「……そうですか」
それだけ。
なのに、ほんの少しだけ。
その目が苦しそうに見えた。
今日の学校も、教室も、全部、いつも通り。
授業。
笑い声。
誰かの噂話。
その中に自分だけがいない。
そんな感覚。
昼休み、机の中に教科書を入れようとして私は動きを止めた。
「あれ……?」
昨日と位置が違う。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ。
気のせいと言われれば、それまで。
でも。
(……誰か、触った?)
胸の奥がざわつく。
周囲を見る。
誰も見ていない、誰も何も言わない。
それが逆に怖かった。
「……変なの」
小さく笑って。
私はまた見なかったことにした。
夕焼けが屋敷までの道のりを赤く染めてる。
「……早く、帰らなくちゃ」
その言葉が自然と出る。
(帰りたい)
(安心したい)
(誰かに、大丈夫だと言ってほしい)
そんなことを考えながら屋敷へ戻る。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
やっぱり、その声を聞くと安心してしまう。
「……ただいま」
彼は小さく目を細める。
「お疲れでしょう」
「そう見える?」
「はい」
「やっぱり失礼ね」
「申し訳ございません」
思わず笑う。
そんなやり取りが今は少しだけ嬉しかった。
─ Side:律 ─
最近、お嬢様の笑顔が減った。
それだけは分かる。
疲れている。
何かを隠している。
それも分かる。
でも。
何が起きているのかだけが分からない。
「……」
(……執事として失格だ)
毎日見ているのに。
毎日傍にいるのに。
何も分からない。
それが嫌だった。
夕食の席で彼女は笑う。
でも、その笑顔が無理をしていることくらい、俺にも分かる。
「お嬢様」
「なに?」
「学校生活はいかがですか」
「楽しいよ」
まただ。
また笑う。
また大丈夫と言う。
胸が痛くなる。
「……そうですか………なら、良いんです」
それ以上聞けない。
聞いてはいけない。
主人の事情に踏み込みすぎるべきではない。
旦那様から俺はそう教わってきた。
そうあるべきだ。
それなのに。
(もっと知りたい)
(苦しいなら、教えてほしい)
そんな考えが浮かぶ。
「……駄目だ」
小さく呟く。
その感情は、執事の俺には必要ない。
その日の夜、部屋へ戻るお嬢様の背中が、少しだけ小さく見えた。
「お嬢様」
「ん?」
「……」
言葉が出ない。
何を言えばいいのか分からない。
だから。
「何かございましたら」
「どうか、私を頼ってください」
彼女は少しだけ目を丸くする。
「最近の律、そればっかり」
「申し訳ございません」
「ふふ」
彼女は笑う。
でも、その笑顔の奥にあるものだけは。
やっぱり今日も見えなかった。
─ Side:鈴 ─
ベッドに身を潜らせて私は目を閉じる。
昼間の机。
動いていた教科書。
少しずつ大きくなる制服の裂け目。
背中に感じた気配。
全部、気のせい。
そう、きっと気のせい。
そう思わないと怖くなる。
「……大丈夫」
小さく呟く。
その言葉が少しずつ、自分自身にも届かなくなり始めていることに。
私はまだ気づいていなかった。
そして、廊下の向こうで閉じられた扉を見つめる律もまた。
自分の中で少しずつ大きくなっていく感情の名前を。
まだ知らない。
── 七話:まだ知らないふりをして
