今日の学校も全部、いつもと同じ。
それなのに。
今日は少しだけ違った。
(……帰りたい)
ふと、そんなことを思ってしまう。
窓の外を見る。
まだ昼なのに、頭の中には昨日の夜のことばかり浮かんでいた。
“大丈夫です”
“私が傍にいますから”
あの声。
あの温度。
あの安心。
思い出すたびに、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
(前までは、屋敷なんて嫌いだったのに)
(寒くて、静かで、好きじゃなかったのに)
それなのに今は。
(早く帰りたい)
そう思ってしまう。
授業が終わり、私は鞄を手に立ち上がる。
その時。
「……あれ?」
制服の袖に小さな違和感を覚えた。
目を向ける。
布が少しだけ裂けていた。
「……」
いつだろう。
(どこかに引っかけたのかな。)
ほんの少しの傷。
それだけ。
それだけなのに、なぜか胸の奥がざわついた。
「……別にいいか」
誰かに言うほどのことじゃない。
こんなの。
大したことない。
そう思って、私はそのまま鞄を持つ。
教室を出る時一瞬だけ、背中に何かが触れた気がした。
思わず振り返る。
誰もいない。
遠くで誰かの笑い声だけが聞こえていた。
(……気のせい)
そう思うことにした。
帰り道の夕焼けの色が少しだけ濃い。
私は自然と足を速めていた。
理由なんて分からない。
分かりたくない。
それでも。
屋敷の門が見えた瞬間。
少しだけ安心している自分に気づく。
玄関を開けると。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
いつもの声。
いつもの姿。
いつもの律。
それだけなのに、やっぱり安心してしまう。
「……ただいま」
言った瞬間。
彼が小さく目を見開いた。
「お嬢様?」
「なに?」
「……いえ」
ほんの少しだけ、彼の表情が揺れる。
「お帰りなさいませ」
その声は、いつもよりずっと優しかった。
─ Side:律 ─
「ただいま」
その一言だけで、胸の奥が静かに揺れる。
(駄目だ)
ただいまと言われただけ。
それだけだ。
(嬉しいなんて思うな)
(期待するな)
(お前にそんな資格はない)
それでも。
「お帰りなさいませ」
今日もその言葉を返せたことが、どうしようもなく嬉しかった。
(やっぱり俺は……最低だ)
こんなことで満たされるなんて。
本当にどうかしている。
夕食の時間、向かいに座るお嬢様は、どこかぼんやりしていた。
「お嬢様」
「ん?」
「本日は、お疲れですか」
「まあ、そうかな。少しだけ……疲れたかも」
脆くて小さな声。
その言葉だけで胸が痛くなる。
「学校で、何か」
「ないよ」
彼女は笑う。
でも、その笑顔は少し寂しかった。
「何もない、大丈夫よ」
また、その言葉。
俺は小さく目を閉じる。
「……お嬢様」
「なに?」
「私は」
一瞬だけ言葉に迷う。
「貴女の“大丈夫”という言葉を……俺は、信じられなくなりそうです」
私は目を丸くする。
「え?」
「貴女の“大丈夫”は」
「…それは、貴女自身を守る我慢の言葉でしょう」
その声は優しい。
でも、少しだけ苦しそうだった。
「だから、せめて……俺の前では、嘘をつかないでください」
静かなお願い。
命令じゃない。
執事の言葉でもない。
ただ、一人の人間の願い。
胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……そんなにひどい顔?」
「はい……少々」
思わず笑ってしまう。
「律ってば失礼ね」
「申し訳ございません」
いつもの返事。
それがおかしくて。
心の底から、少しだけ笑う。
久しぶりに。
本当に少しだけ。
自室のベッドに体を沈ませる。
(……眠れない)
窓の外には月。
静かな夜。
今日は少しだけ安心していた。
(……なんでだろ)
考えるまでもない。
分かっている。
それが嫌だった。
「…鈴」
誰も呼ばない名前を、自分で小さく呟く。
「……変なの」
こんなに誰かがいてほしいと思ったことなんてなかった。
ふと昼間のことを思い出す。
少しだけ裂けていた制服。
背中に感じた気配。
振り返っても、誰もいなかった廊下。
胸の奥がひやりと冷える。
(……気のせい)
(きっと、そう)
気づかないふりをしなければ。
そう思おうとした時。
部屋の外から優しく扉を鳴らす音が聞こえた。
「お嬢様」
「……律?」
「飲み物をお持ちしました……眠れないかと思いまして」
私は思わず笑ってしまう。
「なんで分かるの」
扉越しに言葉を交わす。
少しだけ沈黙が流れて、彼は言う。
「毎日、見ていますから」
静かな声。
優しい声。
少しだけ不器用な声。
胸の奥が小さく痛む。
「……ありがとう」
「もったいないお言葉です」
「ねえ、律」
「はい」
「もし、私がずっと困ったままだったら……どうする?」
短く長い沈黙が流れるら、
「その時は」
「困ったままでも構いません」
「え?」
「無理に笑わなくても、強くなくても」
「お嬢様は、お嬢様ですから」
「私は、そのままの貴女をお守りします」
息が止まる。
優しい。
優しいはずなのに。
どうしてだろう。
少しだけ、戻れなくなる気がした。
「……ずるい」
思わず零れる。
「そんなこと言われたら、あなたに甘えたくなるじゃない」
扉の向こうで。
彼の呼吸が止まる。
「……それで構いません」
優しさと寂しさが混じった声。
「どうか……私を頼ってください」
その言葉が静かな夜の中へ落ちていく。
まだ私は気づかない。
制服の小さな傷が。
誰にも言わなかった小さな違和感が。
少しずつ、私の心を削っていたことを。
そして、その削れた場所を埋めるように。
私は静かに彼の優しさへと沈み始めていることを。
─── 六話:言えない事、癒えない傷
それなのに。
今日は少しだけ違った。
(……帰りたい)
ふと、そんなことを思ってしまう。
窓の外を見る。
まだ昼なのに、頭の中には昨日の夜のことばかり浮かんでいた。
“大丈夫です”
“私が傍にいますから”
あの声。
あの温度。
あの安心。
思い出すたびに、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
(前までは、屋敷なんて嫌いだったのに)
(寒くて、静かで、好きじゃなかったのに)
それなのに今は。
(早く帰りたい)
そう思ってしまう。
授業が終わり、私は鞄を手に立ち上がる。
その時。
「……あれ?」
制服の袖に小さな違和感を覚えた。
目を向ける。
布が少しだけ裂けていた。
「……」
いつだろう。
(どこかに引っかけたのかな。)
ほんの少しの傷。
それだけ。
それだけなのに、なぜか胸の奥がざわついた。
「……別にいいか」
誰かに言うほどのことじゃない。
こんなの。
大したことない。
そう思って、私はそのまま鞄を持つ。
教室を出る時一瞬だけ、背中に何かが触れた気がした。
思わず振り返る。
誰もいない。
遠くで誰かの笑い声だけが聞こえていた。
(……気のせい)
そう思うことにした。
帰り道の夕焼けの色が少しだけ濃い。
私は自然と足を速めていた。
理由なんて分からない。
分かりたくない。
それでも。
屋敷の門が見えた瞬間。
少しだけ安心している自分に気づく。
玄関を開けると。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
いつもの声。
いつもの姿。
いつもの律。
それだけなのに、やっぱり安心してしまう。
「……ただいま」
言った瞬間。
彼が小さく目を見開いた。
「お嬢様?」
「なに?」
「……いえ」
ほんの少しだけ、彼の表情が揺れる。
「お帰りなさいませ」
その声は、いつもよりずっと優しかった。
─ Side:律 ─
「ただいま」
その一言だけで、胸の奥が静かに揺れる。
(駄目だ)
ただいまと言われただけ。
それだけだ。
(嬉しいなんて思うな)
(期待するな)
(お前にそんな資格はない)
それでも。
「お帰りなさいませ」
今日もその言葉を返せたことが、どうしようもなく嬉しかった。
(やっぱり俺は……最低だ)
こんなことで満たされるなんて。
本当にどうかしている。
夕食の時間、向かいに座るお嬢様は、どこかぼんやりしていた。
「お嬢様」
「ん?」
「本日は、お疲れですか」
「まあ、そうかな。少しだけ……疲れたかも」
脆くて小さな声。
その言葉だけで胸が痛くなる。
「学校で、何か」
「ないよ」
彼女は笑う。
でも、その笑顔は少し寂しかった。
「何もない、大丈夫よ」
また、その言葉。
俺は小さく目を閉じる。
「……お嬢様」
「なに?」
「私は」
一瞬だけ言葉に迷う。
「貴女の“大丈夫”という言葉を……俺は、信じられなくなりそうです」
私は目を丸くする。
「え?」
「貴女の“大丈夫”は」
「…それは、貴女自身を守る我慢の言葉でしょう」
その声は優しい。
でも、少しだけ苦しそうだった。
「だから、せめて……俺の前では、嘘をつかないでください」
静かなお願い。
命令じゃない。
執事の言葉でもない。
ただ、一人の人間の願い。
胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……そんなにひどい顔?」
「はい……少々」
思わず笑ってしまう。
「律ってば失礼ね」
「申し訳ございません」
いつもの返事。
それがおかしくて。
心の底から、少しだけ笑う。
久しぶりに。
本当に少しだけ。
自室のベッドに体を沈ませる。
(……眠れない)
窓の外には月。
静かな夜。
今日は少しだけ安心していた。
(……なんでだろ)
考えるまでもない。
分かっている。
それが嫌だった。
「…鈴」
誰も呼ばない名前を、自分で小さく呟く。
「……変なの」
こんなに誰かがいてほしいと思ったことなんてなかった。
ふと昼間のことを思い出す。
少しだけ裂けていた制服。
背中に感じた気配。
振り返っても、誰もいなかった廊下。
胸の奥がひやりと冷える。
(……気のせい)
(きっと、そう)
気づかないふりをしなければ。
そう思おうとした時。
部屋の外から優しく扉を鳴らす音が聞こえた。
「お嬢様」
「……律?」
「飲み物をお持ちしました……眠れないかと思いまして」
私は思わず笑ってしまう。
「なんで分かるの」
扉越しに言葉を交わす。
少しだけ沈黙が流れて、彼は言う。
「毎日、見ていますから」
静かな声。
優しい声。
少しだけ不器用な声。
胸の奥が小さく痛む。
「……ありがとう」
「もったいないお言葉です」
「ねえ、律」
「はい」
「もし、私がずっと困ったままだったら……どうする?」
短く長い沈黙が流れるら、
「その時は」
「困ったままでも構いません」
「え?」
「無理に笑わなくても、強くなくても」
「お嬢様は、お嬢様ですから」
「私は、そのままの貴女をお守りします」
息が止まる。
優しい。
優しいはずなのに。
どうしてだろう。
少しだけ、戻れなくなる気がした。
「……ずるい」
思わず零れる。
「そんなこと言われたら、あなたに甘えたくなるじゃない」
扉の向こうで。
彼の呼吸が止まる。
「……それで構いません」
優しさと寂しさが混じった声。
「どうか……私を頼ってください」
その言葉が静かな夜の中へ落ちていく。
まだ私は気づかない。
制服の小さな傷が。
誰にも言わなかった小さな違和感が。
少しずつ、私の心を削っていたことを。
そして、その削れた場所を埋めるように。
私は静かに彼の優しさへと沈み始めていることを。
─── 六話:言えない事、癒えない傷
