陥落令嬢は執着執事に堕ちていく–Re:Choice−

四話 痛いくらいがちょうどいい

夜の匂いがする。
雨は止んだのに、窓を開けると湿った風が部屋に入り込んできた。
静まり返った屋敷と部屋。
そんな静けさの中で、私はベッドの上で膝を抱えたまま動けずにいた。
制服も脱いでいない。
床にほうりなげた鞄もそのまま。
何もしたくなかった。

「……疲れた」

自分の口からぽつりと零れた声は、思ったより弱かった。
外から優しく扉を叩く音がする。

「お嬢様」

聞き慣れた声。

「入って」

「紅茶をお持ちしました」

「…ありがとう」

彼はいつものようにカップを置く。

それだけ、それだけのはずだった。

「……失礼いたします」

「え?」

律の手が止まる。

視線が私の腕に落ちていた。

「お嬢様、怪我を…されています」

「これ?」

私はようやく気づく。
そこにあるのは浅い擦り傷、おそらく昼休みにぶつかった時のものだろう。

「大したことないよ」

その瞬間、彼の動きが止まった。

「……また」

小さな声。

「え?」

「また貴女は…大丈夫と仰るのですね」

彼のその声は穏やかだった。
怒っていない。
責めてもいない。
なのに、少しだけ苦しそうだった。

「本当に平気なら」

「そんな顔は、なさらないはずです」

「そんな顔?」

「……」

彼は答えない。
代わりに救急箱を持ってきて、消毒液を取り出す。

「少し、沁みます」

「いたっ」

「…申し訳ございません」

指先に触れる彼の手は、とても優しくて、少しだけ震えていた。

─ Side:律 ─

(…また、間に合わなかった)
その事実だけが胸に残る。
お嬢様は笑っている。
何でもないような顔をしている。
でもその笑顔の下で、何かを我慢していることくらい分かる。
腕の傷を見た瞬間、胸に浮かんだのは怒りでも憎しみでもなかった。
ただ。

“もう、こんな顔をさせたくない”

その願いだけだった。
執事なら、主人が無事でいてくれればそれでいい。
そう思ってきた。
けれど今は。
安心してほしい。
頼ってほしい。

そんな想いが、胸の奥で膨らんでいた。

「律」

「はい」

「今日、変だよ?」

「申し訳ございません」

「また謝った」

彼女は少し笑う。
そんな顔をされると、安心してしまう。

「笑わなくてもいいんです」

「え?」

「辛い時くらい本心を見せてください……我慢なんて、しなくていいんです」

思わず出た言葉。
お嬢様が目を丸くする。

「私、そんなに分かりやすい?」

「……毎日見ていますので」

言ってから止まる。

(しまった、近すぎる)

「失礼しました」

離れようとしたその時。

「律」

彼女が俺の袖を掴む、その仕草に心臓が止まる。

「……はい」

「行かないで」

小さな声。

「もう少しだけ…ここにいて、今日はもう一人になりたくない」

泣きそうな顔。
助けを求めるような目。
その瞬間胸の奥が揺れた。

(俺は執事で、お嬢様は主人だ)

その一線を越えてはいけない。
分かっている。
それでも。

「……承知しました」

気づけば隣に座っていた。

触れない距離。
近すぎない距離。
今までで一番近い距離。

「律」

「はい」

「ありがとう」

「……私には、もったいないお言葉です」

「ふふ、変なの」

「はい」

「でもね…安心する」

その一言が、胸の奥に深く染み込む。

守りたい。
助けたい。
笑っていてほしい。
それだけだったはずなのに。

今はもっと近くで、その笑顔を見ていたいと思ってしまう。

「お嬢様」

「なに?」

「今日はこのままお休みください」

「うん」

「大丈夫です。私が傍にいますから」

その言葉に彼女は少しだけ目を細める。

「……うん」

「知ってる」

その微笑みにまた心がほどけていく。

(頼むから、そんな顔をしないでくれ…期待してしまう)

(……もっと、なんて…思ってしまうだろ)

深夜、俺しかいない部屋。
月明かりだけが床を照らしていた。

(…眠れない)

理由は知っている。
嬉しかった。

「行かないで」と言われたことが。

「安心する」と言われたことが。

薄暗い部屋の中、俺は目を閉じる。

「……お嬢様」

誰にも届かない声。

「…どうか、俺を必要としてください」

それは綺麗な願いではないのかもしれない。
それでも胸の奥から消えてはくれなかった。
彼はまだ知らない。その願いを、彼女もまた少しずつ求め始めていることを。

──五話:優しい嘘でもいいから