食堂には柔らかな灯りが落ちていた。
窓を叩く雨音と温かい紅茶。
そして。
「おはようございます、お嬢様」
律。
いつも通りの執事服。
いつも通りの声。
それなのに
「……おはよう」
私がそう返した瞬間。
ほんの少しだけ彼の肩の力が抜けたように見えた。
「どうしたの?」
「いえ」
「問題ありません」
静かな返事。
最近の律は、少し変だ。
前から変だったけれど、最近はもっと変。
「律」
「はい」
「私、まだ何も言ってないよ?」
「……失礼しました」
律は一瞬だけ目を伏せた。
「お嬢様が何か仰ると思いましたので」
「なにそれ」
思わず笑ってしまう。
「変なの」
「申し訳ございません」
「だから褒めてるの」
「……そうでしたか」
困ったような顔。
その表情を見ていると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
それが何なのか、私はまだ知らない。
学校へ向かう車の中、雨粒が窓を流れていく。
「今日は冷えます」
運転席に座る律が静かに言った。
「そうだね」
「帰りも雨になるかと」
「うん」
「傘をわすれないでください」
「分かってるよ」
「それと」
律が少しだけ言葉を止める。
「何かございましたら、私にご連絡ください」
私は小さく笑った。
「律の心配性」
「……申し訳ございません」
「また謝る」
「失礼しました」
「ふふっ」
律は少しだけ視線を逸らした。
まるで、笑われると困るみたいに。
─ Side:律 ─
俺は雨の日が嫌いだった。
理由はない。いや、本当は知っている。
視界が悪くなるから。
足元が滑りやすいから。
事故が増えるから。
そう。
(…それだけだ)
そうであるべきだった。
執事として。
主人の安全を第一に考える。
それは執事として当然の義務だ。
だから、雨の日に気を配るのは仕事。
心配するのも仕事、ずっと、そう整理してきた。
「……」
時計を見る。
まだ早い。
連絡もない。
問題もない。
それなのに、胸の奥が落ち着かない。
(おかしい)
書類を見る。
ペンを持つ。
手は進まない。
また窓の外を見る。
意味はない、意味はないのにそれでも見てしまう。
(俺は…何をしている)
自分でも分からない。
ただ、彼女が無事に帰ってくるまでどこか呼吸が浅い。
そんな自分が少しだけ煩わしかった。
以前なら彼女が外出していても、ここまで気を乱されることはなかった。
必要な時に迎えに行き、必要な時に支える。
それで十分だった。それが執事だ。
それ以上を望んではいけない。
なのに、ふとした瞬間に浮かぶのは。
朝の彼女の口から出る「おはよう、律」という言葉、笑った顔、「変なの」と言われた時の柔らかな表情。
思い出す必要などない。
(仕事に私情を持ち込むな)
(主人に感情を向けるな)
何度も自分に言い聞かせる。
だが。
「……早く、お帰りください…お嬢様」
誰もいない部屋で漏れたその言葉に。
自分自身が一番驚いていた。
それは執事としての願いなのか。
それとも、俺個人としての願いなのか。
考えたくなかった。
____________________
放課後になっても雨はまだ止まない。
私は昇降口の前で立ち止まる。
「あ、……最悪」
(傘、忘れた)
空を見上げる。
(…屋敷まで走ろうかな)
そう思った時。
「お嬢様」
聞き慣れた声に私は振り返る。
そこにいたのは黒い傘を持った律だった。
「え……?」
思わず目を見開く。
「律?」
「お迎えに参りました」
「なんで?」
「雨ですので」
当たり前のような顔。
「連絡してないよ?」
「はい」
「じゃあ、なんで?」
一瞬だけ律の動きが止まった。
─ Side:律 ─
本当は昼過ぎから何度も天気予報を確認していた。
連絡がないことに安堵しながら。
それでも落ち着かなくて結局、予定より早く車を出した。
そんな理由を口にできるはずがなかった。
「……雨でしたので」
「それだけ?」
「はい」
嘘だ。
正確には、嘘ではない。
だがそれだけではない。
「主人が雨に濡れる可能性がある以上、迎えに来るのは当然です」
そう言えば済む。
執事としての理屈はいくらでも並べられる。
けれどその奥にある。
(会いたかった)
(無事な顔を見て安心したかった)
そんな感情だけは。
決して彼女に知られてはいけない。
─────────────────
「変なの」
小さく笑う。
すると律は少しだけ安心したように目を細めた。
その表情に。
なぜか胸が小さく鳴った。
一つの傘、近すぎる距離。
肩が触れそうになる。
雨の音と夜の匂い。
「律」
「はい」
「近い」
「申し訳ございません」
少し離れる。
でも次の瞬間には。
また元の距離に戻っていた。
「……律」
「失礼しました」
「もう」
思わず笑ってしまう。
この人は変だ。
不器用で、少し過保護で、たまに息苦しいくらい優しくて。
それなのに嫌じゃない。
むしろこの距離が嫌じゃない自分の方が。
少しだけ怖かった。
─ Side:律 ─
お嬢様の髪に雨が触れる。
それだけで指先が動きそうになる。
濡れている。
風邪を引く。
体調を崩してしまうかもしれない。
(だから…)
そう。
それだけだ。
そう言い聞かせる。
執事として当然の配慮。
主人の健康管理。
それ以上の意味などない。
ないはずだ。
「……失礼します」
気づけば、お嬢様の髪についた雨粒を払っていた。
「え?」
「髪が濡れておりますので」
それだけ。
それだけのはずだった。
なのに。
至近距離で見上げる瞳にほんの一瞬、呼吸が止まる。
(……違う)
すぐに手を引く。
(離れろ…それ以上は駄目だ)
(俺は執事で、お嬢様は主人だ…間違えるな)
そう言い聞かせる。
だが、本当に執事としてだけなら。
こんなにも心臓が騒ぐはずがない。
触れた指先の感触を惜しむはずがない。
もっと近くで見ていたいなどと考えるはずがない。
「律?」
不思議そうな声に我に返る。
(駄目だ。そんな感情は)
持ってはいけない。
お嬢様の隣に立つ資格はあっても、俺に並ぶ資格などない。
守ることが役目で求めることは許されない。
それが正しい。
それが俺の在り方だ。
なのに。
「ありがとう」
その笑顔を見るだけで胸の奥が静かに乱れていく。
そして、その乱れを嫌だと思えない自分がいた。
_____________________
その夜ベッドの上で私は思い出す。
雨の匂い。
近い距離。
黒い傘。
そして ──
髪に触れた彼指先。
「……変なの」
顔が少し熱い。
私は慌てて布団を被る。
(そんなこと、気にする方がおかしい)
そう思うのに瞼を閉じると頭に浮かぶのは。
「お迎えに参りました」
雨の中で当たり前みたいな顔で立っていた、あの人だった。
私はまだ知らなかった。
彼の「正しさ」が、少しずつ綻び始めていることを。
執事として守るべき理性と。
一人の男として抱いてしまった感情。
その二つが静かにぶつかり合いながら、少しずつ、確かに彼の中で形を変え始めていることを。
その綻びに触れた自分もまた、元には戻れなくなり始めていることを。
─── 四話:痛いくらいがちょうどいい
窓を叩く雨音と温かい紅茶。
そして。
「おはようございます、お嬢様」
律。
いつも通りの執事服。
いつも通りの声。
それなのに
「……おはよう」
私がそう返した瞬間。
ほんの少しだけ彼の肩の力が抜けたように見えた。
「どうしたの?」
「いえ」
「問題ありません」
静かな返事。
最近の律は、少し変だ。
前から変だったけれど、最近はもっと変。
「律」
「はい」
「私、まだ何も言ってないよ?」
「……失礼しました」
律は一瞬だけ目を伏せた。
「お嬢様が何か仰ると思いましたので」
「なにそれ」
思わず笑ってしまう。
「変なの」
「申し訳ございません」
「だから褒めてるの」
「……そうでしたか」
困ったような顔。
その表情を見ていると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
それが何なのか、私はまだ知らない。
学校へ向かう車の中、雨粒が窓を流れていく。
「今日は冷えます」
運転席に座る律が静かに言った。
「そうだね」
「帰りも雨になるかと」
「うん」
「傘をわすれないでください」
「分かってるよ」
「それと」
律が少しだけ言葉を止める。
「何かございましたら、私にご連絡ください」
私は小さく笑った。
「律の心配性」
「……申し訳ございません」
「また謝る」
「失礼しました」
「ふふっ」
律は少しだけ視線を逸らした。
まるで、笑われると困るみたいに。
─ Side:律 ─
俺は雨の日が嫌いだった。
理由はない。いや、本当は知っている。
視界が悪くなるから。
足元が滑りやすいから。
事故が増えるから。
そう。
(…それだけだ)
そうであるべきだった。
執事として。
主人の安全を第一に考える。
それは執事として当然の義務だ。
だから、雨の日に気を配るのは仕事。
心配するのも仕事、ずっと、そう整理してきた。
「……」
時計を見る。
まだ早い。
連絡もない。
問題もない。
それなのに、胸の奥が落ち着かない。
(おかしい)
書類を見る。
ペンを持つ。
手は進まない。
また窓の外を見る。
意味はない、意味はないのにそれでも見てしまう。
(俺は…何をしている)
自分でも分からない。
ただ、彼女が無事に帰ってくるまでどこか呼吸が浅い。
そんな自分が少しだけ煩わしかった。
以前なら彼女が外出していても、ここまで気を乱されることはなかった。
必要な時に迎えに行き、必要な時に支える。
それで十分だった。それが執事だ。
それ以上を望んではいけない。
なのに、ふとした瞬間に浮かぶのは。
朝の彼女の口から出る「おはよう、律」という言葉、笑った顔、「変なの」と言われた時の柔らかな表情。
思い出す必要などない。
(仕事に私情を持ち込むな)
(主人に感情を向けるな)
何度も自分に言い聞かせる。
だが。
「……早く、お帰りください…お嬢様」
誰もいない部屋で漏れたその言葉に。
自分自身が一番驚いていた。
それは執事としての願いなのか。
それとも、俺個人としての願いなのか。
考えたくなかった。
____________________
放課後になっても雨はまだ止まない。
私は昇降口の前で立ち止まる。
「あ、……最悪」
(傘、忘れた)
空を見上げる。
(…屋敷まで走ろうかな)
そう思った時。
「お嬢様」
聞き慣れた声に私は振り返る。
そこにいたのは黒い傘を持った律だった。
「え……?」
思わず目を見開く。
「律?」
「お迎えに参りました」
「なんで?」
「雨ですので」
当たり前のような顔。
「連絡してないよ?」
「はい」
「じゃあ、なんで?」
一瞬だけ律の動きが止まった。
─ Side:律 ─
本当は昼過ぎから何度も天気予報を確認していた。
連絡がないことに安堵しながら。
それでも落ち着かなくて結局、予定より早く車を出した。
そんな理由を口にできるはずがなかった。
「……雨でしたので」
「それだけ?」
「はい」
嘘だ。
正確には、嘘ではない。
だがそれだけではない。
「主人が雨に濡れる可能性がある以上、迎えに来るのは当然です」
そう言えば済む。
執事としての理屈はいくらでも並べられる。
けれどその奥にある。
(会いたかった)
(無事な顔を見て安心したかった)
そんな感情だけは。
決して彼女に知られてはいけない。
─────────────────
「変なの」
小さく笑う。
すると律は少しだけ安心したように目を細めた。
その表情に。
なぜか胸が小さく鳴った。
一つの傘、近すぎる距離。
肩が触れそうになる。
雨の音と夜の匂い。
「律」
「はい」
「近い」
「申し訳ございません」
少し離れる。
でも次の瞬間には。
また元の距離に戻っていた。
「……律」
「失礼しました」
「もう」
思わず笑ってしまう。
この人は変だ。
不器用で、少し過保護で、たまに息苦しいくらい優しくて。
それなのに嫌じゃない。
むしろこの距離が嫌じゃない自分の方が。
少しだけ怖かった。
─ Side:律 ─
お嬢様の髪に雨が触れる。
それだけで指先が動きそうになる。
濡れている。
風邪を引く。
体調を崩してしまうかもしれない。
(だから…)
そう。
それだけだ。
そう言い聞かせる。
執事として当然の配慮。
主人の健康管理。
それ以上の意味などない。
ないはずだ。
「……失礼します」
気づけば、お嬢様の髪についた雨粒を払っていた。
「え?」
「髪が濡れておりますので」
それだけ。
それだけのはずだった。
なのに。
至近距離で見上げる瞳にほんの一瞬、呼吸が止まる。
(……違う)
すぐに手を引く。
(離れろ…それ以上は駄目だ)
(俺は執事で、お嬢様は主人だ…間違えるな)
そう言い聞かせる。
だが、本当に執事としてだけなら。
こんなにも心臓が騒ぐはずがない。
触れた指先の感触を惜しむはずがない。
もっと近くで見ていたいなどと考えるはずがない。
「律?」
不思議そうな声に我に返る。
(駄目だ。そんな感情は)
持ってはいけない。
お嬢様の隣に立つ資格はあっても、俺に並ぶ資格などない。
守ることが役目で求めることは許されない。
それが正しい。
それが俺の在り方だ。
なのに。
「ありがとう」
その笑顔を見るだけで胸の奥が静かに乱れていく。
そして、その乱れを嫌だと思えない自分がいた。
_____________________
その夜ベッドの上で私は思い出す。
雨の匂い。
近い距離。
黒い傘。
そして ──
髪に触れた彼指先。
「……変なの」
顔が少し熱い。
私は慌てて布団を被る。
(そんなこと、気にする方がおかしい)
そう思うのに瞼を閉じると頭に浮かぶのは。
「お迎えに参りました」
雨の中で当たり前みたいな顔で立っていた、あの人だった。
私はまだ知らなかった。
彼の「正しさ」が、少しずつ綻び始めていることを。
執事として守るべき理性と。
一人の男として抱いてしまった感情。
その二つが静かにぶつかり合いながら、少しずつ、確かに彼の中で形を変え始めていることを。
その綻びに触れた自分もまた、元には戻れなくなり始めていることを。
─── 四話:痛いくらいがちょうどいい
