今日は朝から、少しだけ空気が重かった。
理由なんて分からない。
ただ、目を覚ました瞬間から胸の奥がざわついている。
窓の外は曇り空だった。昨夜の雨が残した湿った匂いが、静かな屋敷に溶けている。
「お嬢様」
控えめなノック。
「朝食の準備ができております」
聞き慣れた声。
それだけで、少しだけ息がしやすくなる。
「……うん」
そう返事をしてから、私は小さく首を振った。
(大丈夫)
(今日もちゃんと笑える)
そう思いながら、学校へ向かった。
教室は今日も賑やかだ。
誰かの笑い声。
机を引く音。
誰かの恋愛話。
その全部が、私とは関係ない場所で流れていく。
「ねぇ」
「まだあの屋敷に住んでるんでしょ?」
「執事もいるって本当?」
「すごいよね、元お嬢様って」
笑いながら。
面白い話でもするみたいに。
悪意なんて無いような顔で。
私は小さく笑った。
「そうかな」
それだけ。
昔からそうだった。
笑っていれば終わる。
我慢していれば、いつか終わる。
だから。
「お嬢様って怒らないよね」
「優しいよね」
そんな言葉を聞くたびに、少しだけ苦しくなる。
(違う…怒れないだけ)
(嫌だって言えないだけ)
でも、それを口にするほど、私は強くなかった。
昼休みの終わり、教室に戻ると机の上に見覚えのない紙が置かれていた。
『元お嬢様って大変そう』
『執事に何でもやってもらえるの?』
『羨ましい』
『これからも仲良くしてね』
丁寧で綺麗な文字。
だからこそ。
余計に冷たかった。
私は紙を折りたたむ。
捨てることもしない。
怒ることもしない。
ただなかったことにする。
慣れているから。
そう、慣れている……はずだった。
「……」
それなのになぜか胸の奥が少しだけ痛かった。
夕方の空は紫色に染まっていた。
帰り道を歩きながら、私は小さく息を吐く。
(……疲れた)
そう思った瞬間頭の中に自然と浮かんだのは。
(帰ろう)
家じゃない、学校でもない、あの屋敷。
「……律が待ってる」
ぽつりと零れた言葉に、自分で驚く。
「……なんで」
小さく笑う。
(変なの…あの人は執事なのに)
待っているのは仕事だからなのに。
それなのにあの声を聞けば、少しだけ安心できる。
今までそんなことは考えたこともなかった。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
玄関を開けると、いつもの声がした。
その瞬間、心の中で張りつめていた糸が少しだけ緩む。
「……ただいま」
自然にそう言っていた。
彼がほんの僅かに目を見開く。
「お嬢様?」
「え?」
「いえ」
「問題ありません」
静かな声。
けれど、どこか安心したような顔だった。
鞄を受け取る手。
乱れのない執事服。
変わらない声。
変わらない距離。
──それなのに。
「律」
「はい」
「なんでもない」
「そうですか」
すぐに返ってくる返事。
その速さに、なぜだか少しだけ笑ってしまう。
「変なの」
「申し訳ございません」
「褒めてるの」
「……そうでしたか」
少し困ったような顔。
それを見ていると。
学校であったことなんて、どうでもよくなる気がした。
その日の夜、私は自室のベッドに座りながら、ぼんやり天井を見上げる。
学校は嫌い。
朝も嫌い。
自分のことも、少し苦手。
それでも。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
あの声だけは嫌いじゃなかった。
むしろ、あの声が聞こえる場所にいれば、大丈夫だと。
そんなふうに思い始めている自分がいた。
窓の外では、夜の風が静かに揺れている。
なのにふと想像してしまう。
(もし明日、あの声が聞こえなかったら)
(もし帰っても、誰も待っていなかったら)
そう考えただけで胸の奥が、ひどく冷たくなった。
私は慌てて目を閉じる。
(そんなこと、あるはずない)
そう言い聞かせるように。
何度も。
何度も。
この時の私はまだ気づかなかった。
その「安心」が、いつしか失うことを恐れるほどのものへと姿を変え。
気づかないうちに、私自身を静かに縛り始めていることを。
─── 三話:正しさの綻び
理由なんて分からない。
ただ、目を覚ました瞬間から胸の奥がざわついている。
窓の外は曇り空だった。昨夜の雨が残した湿った匂いが、静かな屋敷に溶けている。
「お嬢様」
控えめなノック。
「朝食の準備ができております」
聞き慣れた声。
それだけで、少しだけ息がしやすくなる。
「……うん」
そう返事をしてから、私は小さく首を振った。
(大丈夫)
(今日もちゃんと笑える)
そう思いながら、学校へ向かった。
教室は今日も賑やかだ。
誰かの笑い声。
机を引く音。
誰かの恋愛話。
その全部が、私とは関係ない場所で流れていく。
「ねぇ」
「まだあの屋敷に住んでるんでしょ?」
「執事もいるって本当?」
「すごいよね、元お嬢様って」
笑いながら。
面白い話でもするみたいに。
悪意なんて無いような顔で。
私は小さく笑った。
「そうかな」
それだけ。
昔からそうだった。
笑っていれば終わる。
我慢していれば、いつか終わる。
だから。
「お嬢様って怒らないよね」
「優しいよね」
そんな言葉を聞くたびに、少しだけ苦しくなる。
(違う…怒れないだけ)
(嫌だって言えないだけ)
でも、それを口にするほど、私は強くなかった。
昼休みの終わり、教室に戻ると机の上に見覚えのない紙が置かれていた。
『元お嬢様って大変そう』
『執事に何でもやってもらえるの?』
『羨ましい』
『これからも仲良くしてね』
丁寧で綺麗な文字。
だからこそ。
余計に冷たかった。
私は紙を折りたたむ。
捨てることもしない。
怒ることもしない。
ただなかったことにする。
慣れているから。
そう、慣れている……はずだった。
「……」
それなのになぜか胸の奥が少しだけ痛かった。
夕方の空は紫色に染まっていた。
帰り道を歩きながら、私は小さく息を吐く。
(……疲れた)
そう思った瞬間頭の中に自然と浮かんだのは。
(帰ろう)
家じゃない、学校でもない、あの屋敷。
「……律が待ってる」
ぽつりと零れた言葉に、自分で驚く。
「……なんで」
小さく笑う。
(変なの…あの人は執事なのに)
待っているのは仕事だからなのに。
それなのにあの声を聞けば、少しだけ安心できる。
今までそんなことは考えたこともなかった。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
玄関を開けると、いつもの声がした。
その瞬間、心の中で張りつめていた糸が少しだけ緩む。
「……ただいま」
自然にそう言っていた。
彼がほんの僅かに目を見開く。
「お嬢様?」
「え?」
「いえ」
「問題ありません」
静かな声。
けれど、どこか安心したような顔だった。
鞄を受け取る手。
乱れのない執事服。
変わらない声。
変わらない距離。
──それなのに。
「律」
「はい」
「なんでもない」
「そうですか」
すぐに返ってくる返事。
その速さに、なぜだか少しだけ笑ってしまう。
「変なの」
「申し訳ございません」
「褒めてるの」
「……そうでしたか」
少し困ったような顔。
それを見ていると。
学校であったことなんて、どうでもよくなる気がした。
その日の夜、私は自室のベッドに座りながら、ぼんやり天井を見上げる。
学校は嫌い。
朝も嫌い。
自分のことも、少し苦手。
それでも。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
あの声だけは嫌いじゃなかった。
むしろ、あの声が聞こえる場所にいれば、大丈夫だと。
そんなふうに思い始めている自分がいた。
窓の外では、夜の風が静かに揺れている。
なのにふと想像してしまう。
(もし明日、あの声が聞こえなかったら)
(もし帰っても、誰も待っていなかったら)
そう考えただけで胸の奥が、ひどく冷たくなった。
私は慌てて目を閉じる。
(そんなこと、あるはずない)
そう言い聞かせるように。
何度も。
何度も。
この時の私はまだ気づかなかった。
その「安心」が、いつしか失うことを恐れるほどのものへと姿を変え。
気づかないうちに、私自身を静かに縛り始めていることを。
─── 三話:正しさの綻び
