彼女の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
──「まだ途中でしょ?」
その一言だけが、やけに重い。
(…途中)
違う。
本当は、とうに“境界線”は越えている。
越えているのに──戻るふりをしているだけだ。
「…律」
美しく澄んだ清らかな声。
呼ばれた瞬間、身体が勝手に反応する。
「はい、お嬢様」
迷いは無い即答。
完璧な“執事”の声。
そう言えたはずだった。
でも今日は違った。
ほんの一瞬。
“間”があった。
その一瞬を、彼女は見逃さない。
「ねぇ」
ゆっくりと近づいてくる。
距離が近い。
さっきよりも、ずっと。
「律ってさ」
「……はい」
「まだ、‘’執事”でいるつもり?」
その言葉で、喉が詰まる。
(……“執事”)
そうだ。
俺は執事だ。
規律を守れ。
忠誠を誓え。
距離を保て。
すべて守るためにここにいる。
なのに──目の前の彼女は、その“すべて”の外側にいる。
「当然です」
言葉は出た。
でも、遅い。
彼女が小さく笑う。
「じゃあ、私が今からお願いすることも止めるの?」
「内容によってはそう致します」
「私、律に抱きしめて欲しいの」
その瞬間。
呼吸が止まる。
(…止めなければ)
(“執事”として)
(“従者”として)
(それが…正しい)
正しい。
正しい、はずなのに。
身体が動かない。
彼女が一歩、踏み込む。
もう逃げられない距離。
その距離で、彼女は静かに言う。
「律、どうしたの?そんなにぼんやりして」
彼女が紡ぐ俺の名前。
ただそれだけで。
何かが“壊れる”音がした気がした。
(……違う)
(これは命令じゃない)
(お願いでもない)
(ただの──彼女からの呼びかけだ)
だからこそ。
一番危険だ。
「……お嬢様」
声が掠れる。
完璧じゃない。
もう、戻れない。
「本当に……それを‘’お願い”するのですか?」
最後の確認。
“執事”としての、最後の砦。
彼女は、迷わない。
「うん」
その返事を瞬間。
全部が終わった。
理性が、役割が、規律が。
全部。
(そうか)
(俺は…)
(……もうずっと前から)
手を伸ばしていた。
でも止めていたのは“理性”じゃない。
“まだ戻れるかもしれない”という幻想だった。
でも彼女がそれを壊した。
何もしていないのに。
ただ、そこにいるだけで。
俺は一歩、近づく。
その動きだけで、境界線は消える。
「……失礼します」
それは執事の言葉だった。
でも、意味は違う。
もう“許可”を求めていない。
もう“業務”でもない。
ただの、最後の形だけの言葉。
そして──彼女の身体に触れた瞬間。
腕の中に閉じ込めた瞬間、世界が静かになる。
音が消える。
思考が消える。
残るのはただ一つ。
(……あぁ、離したくない)
それだけだった。
どれだけ正しさを積み上げても。
どれだけ規律を守っても。
どれだけ己を律しても。
もう遅い。
これを愛と呼ぶには遅すぎる。
腕の中にいる彼女が小さく息を吐く。
「律」
その声で、執事でいさせる最後の糸が切れる。
「……はい」
もう執事ではない声。
それでも彼女は、怖がらない。
むしろ──
待っていたみたいに、笑う。
その笑顔を見た瞬間。
ようやく理解する。
(俺はもう)
(戻る気なんて、最初からなかった)
(………これは、穢い愛だ)
そう思った瞬間。
それはもう──ただの“感情”ではなくなってしまう。
「……お嬢様」
呼ぶ。
もう“確認”ではない。
もう“距離”でもない。
ただ、名前を縛るための呼び方。
「なぁに、律?」
彼女の返事は軽い。
それが怖い。
(この人は)
(俺に名前を与えさせる、存在価値を与えてくる)
(そして──それを当然のように受け取る)
「……貴女は」
「うん?」
「貴女は──逃げませんね」
彼女は笑う。
「逃げる理由…ある?」
その一言で理解する。
(…違う)
(これは対等じゃない)
(俺が“選んだ”ように見えて、彼女に“選ばされて”いる)
そして気づく。
触れた瞬間からずっと。
この関係は──“俺の自由”の形をした檻なのかもしれない。
そして静かに、堕ちる。
“理性”ではなく。
“意志”として。
─── 二十八話:おかえり、律
──「まだ途中でしょ?」
その一言だけが、やけに重い。
(…途中)
違う。
本当は、とうに“境界線”は越えている。
越えているのに──戻るふりをしているだけだ。
「…律」
美しく澄んだ清らかな声。
呼ばれた瞬間、身体が勝手に反応する。
「はい、お嬢様」
迷いは無い即答。
完璧な“執事”の声。
そう言えたはずだった。
でも今日は違った。
ほんの一瞬。
“間”があった。
その一瞬を、彼女は見逃さない。
「ねぇ」
ゆっくりと近づいてくる。
距離が近い。
さっきよりも、ずっと。
「律ってさ」
「……はい」
「まだ、‘’執事”でいるつもり?」
その言葉で、喉が詰まる。
(……“執事”)
そうだ。
俺は執事だ。
規律を守れ。
忠誠を誓え。
距離を保て。
すべて守るためにここにいる。
なのに──目の前の彼女は、その“すべて”の外側にいる。
「当然です」
言葉は出た。
でも、遅い。
彼女が小さく笑う。
「じゃあ、私が今からお願いすることも止めるの?」
「内容によってはそう致します」
「私、律に抱きしめて欲しいの」
その瞬間。
呼吸が止まる。
(…止めなければ)
(“執事”として)
(“従者”として)
(それが…正しい)
正しい。
正しい、はずなのに。
身体が動かない。
彼女が一歩、踏み込む。
もう逃げられない距離。
その距離で、彼女は静かに言う。
「律、どうしたの?そんなにぼんやりして」
彼女が紡ぐ俺の名前。
ただそれだけで。
何かが“壊れる”音がした気がした。
(……違う)
(これは命令じゃない)
(お願いでもない)
(ただの──彼女からの呼びかけだ)
だからこそ。
一番危険だ。
「……お嬢様」
声が掠れる。
完璧じゃない。
もう、戻れない。
「本当に……それを‘’お願い”するのですか?」
最後の確認。
“執事”としての、最後の砦。
彼女は、迷わない。
「うん」
その返事を瞬間。
全部が終わった。
理性が、役割が、規律が。
全部。
(そうか)
(俺は…)
(……もうずっと前から)
手を伸ばしていた。
でも止めていたのは“理性”じゃない。
“まだ戻れるかもしれない”という幻想だった。
でも彼女がそれを壊した。
何もしていないのに。
ただ、そこにいるだけで。
俺は一歩、近づく。
その動きだけで、境界線は消える。
「……失礼します」
それは執事の言葉だった。
でも、意味は違う。
もう“許可”を求めていない。
もう“業務”でもない。
ただの、最後の形だけの言葉。
そして──彼女の身体に触れた瞬間。
腕の中に閉じ込めた瞬間、世界が静かになる。
音が消える。
思考が消える。
残るのはただ一つ。
(……あぁ、離したくない)
それだけだった。
どれだけ正しさを積み上げても。
どれだけ規律を守っても。
どれだけ己を律しても。
もう遅い。
これを愛と呼ぶには遅すぎる。
腕の中にいる彼女が小さく息を吐く。
「律」
その声で、執事でいさせる最後の糸が切れる。
「……はい」
もう執事ではない声。
それでも彼女は、怖がらない。
むしろ──
待っていたみたいに、笑う。
その笑顔を見た瞬間。
ようやく理解する。
(俺はもう)
(戻る気なんて、最初からなかった)
(………これは、穢い愛だ)
そう思った瞬間。
それはもう──ただの“感情”ではなくなってしまう。
「……お嬢様」
呼ぶ。
もう“確認”ではない。
もう“距離”でもない。
ただ、名前を縛るための呼び方。
「なぁに、律?」
彼女の返事は軽い。
それが怖い。
(この人は)
(俺に名前を与えさせる、存在価値を与えてくる)
(そして──それを当然のように受け取る)
「……貴女は」
「うん?」
「貴女は──逃げませんね」
彼女は笑う。
「逃げる理由…ある?」
その一言で理解する。
(…違う)
(これは対等じゃない)
(俺が“選んだ”ように見えて、彼女に“選ばされて”いる)
そして気づく。
触れた瞬間からずっと。
この関係は──“俺の自由”の形をした檻なのかもしれない。
そして静かに、堕ちる。
“理性”ではなく。
“意志”として。
─── 二十八話:おかえり、律
