陥落令嬢は執着執事に堕ちていく。Re:Choice

さっきから、ずっと胸の奥がうるさい。
静かなのに。
何も起きていないのに。
呼吸だけが、少し変だ。

(…変なの)

そう思う。
でも、嫌じゃない。
むしろ──少しだけ、落ち着く。

律がいるだけで。

さっきのことを思い出すと、指先が熱くなる。
触れられた場所。
近すぎた距離。
獣の様なあの赤紫の目。

(……あれ)

(律、変だった)

でも。
それを“嫌”だとは思わなかった。
むしろ逆だった。

(もっと、その目で私を…見てほしい)

そう思ってしまった自分に驚く。

「お嬢様」

少し離れた場所から声がする。
いつもの声。
いつもの距離。
でも──さっきと同じじゃない。

(戻ってる)

(ちゃんと)

(“執事の律”に)

そのことに、なぜか胸が痛くなる。

「律」

「はい」

呼ぶと、すぐに返事が来る。
完璧。
でも少しだけ遅い。
その“遅れ”が、私には分かってしまう。

(さっきまでと違う)

(なんで?)

(さっきはあんなに近かったのに)

「さっきの」

言いかけて止まる。
本当は聞きたいことがある。
でも、言葉にすると壊れそうで怖い。
律が少しだけ視線を向ける。

「……何でしょうか」

丁寧な声。
距離を作る声。
その声が、少しだけ寂しい。
私は小さく息を吐く。
そして、別の言葉を選ぶ。

「……ねぇ、律ってさ」

少しだけ間を置く。

「今、私のことどう思ってるの?」

そう聞いた瞬間、律は黙り込んでしまった。
それでも、私は待ってしまう。
逃げるならそれでもいい。
嘘でもいい。

でも──

何も返ってこないのが、一番怖い。

─‬ Side:律 ─‬

“私のこと、どう思ってるの?”

その瞬間。
空気が止まる。
俺の表情が、ほんのわずかに揺れたのが自分でもわかる。

(それは)

(答えてはいけない質問だ)

でも、彼女は待っている。
俺はゆっくり口を開く。

「……俺にとってお嬢様は、お嬢様です」

でも、それは質問の答えじゃない。
分かっている。そのくらい。
そして彼女も分かっている。

─‬ Side:鈴 ─‬

(違う)

(律が言いたいのは、それじゃない)

「それ以外は?」

小さく聞く。
律の喉が動く。
一瞬、目が逸れる。
ほんの一瞬だけ。

「……執事として」

そう言ってから、止まる。
続きが出てこない。
沈黙。
長いようで、短い。
そして律は、静かに視線を戻す。

「それ以上は」

「今の俺には、定義できません」

その言葉を聞いた瞬間。
私の胸が、少しだけ熱くなる。

(定義できない)

(じゃあ)

(まだ決まってないってこと?)

嬉しいのか。
怖いのか。
分からない。

でも一つだけ分かる。

「……そっか」

私は小さく笑う。

「じゃあ、いいや」

彼の目が、ほんの少しだけ揺れる。

「……よろしいのですか」

その問いに、私は少しだけ首を傾ける。

「うん、だって」

少し間を置く。

「まだ途中でしょ?」

その一言で。
また律の呼吸が止まる。


─‬ Side:律 ─‬

(途中)

その言葉が、胸に落ちる。
そうだ。
まだ終わっていない。

いや──始まったばかりだ。

彼女を見る。
さっきより近い距離。
さっきより危うい距離。
それなのに。
彼女は怖がっていない。
待っていると言った方が正しい。。。

(この人は)

(……俺をどこまで壊す気だ)

その問いは、もう逃げではない。
事実の確認だった。


─‬ Side:鈴 ─‬

(ほんと……変なの)

(でも、悪くない)

そう思ってしまう自分がいる。
そしてもう一つ。

(知りたいじゃない)

(…私、この人の中に、入りたい)

それが何かは分からない。
でも。
この危険で綺麗な関係を、止めたくないと思っている。
朝の光はまだ静かで。
でも二人の間だけは、もう静かじゃなかった。



─‬─‬─‬ 二十七話:愛と名付けて、また支配する