陥落令嬢は執着執事に堕ちていく。Re:Choice

ただ、静かだった。
さっきまで風があったはずなのに、今は何も動いていないみたいに感じる。
小さな屋敷の世界だけが、ひとつ遅れている。

「……」

言葉が出ない。
さっきの出来事が、まだ身体のどこかに残っている。
温度だけが、現実より先に消えない。

「……失礼しました」

律の声が落ちる。
いつもの執事の声。
完璧に整えられた声。
なのに、その“完璧さ”が少しだけ揺れていた。

「業務外の行動でした」

そう言った瞬間。
その言葉が、逆に重くなる。

(業務外)

(私が命令したのに……?)

(……なんでいつも距離とるんだろ)

私は唇を開きかけて、やめた。
聞いたら、壊れる気がした。

「……律」

呼ぶ。
一拍遅れて、返事が来る。

「はい、お嬢様」

即答。
でもその“即答”が、さっきより遠い。
さっきより、ちゃんとしている。
さっきより──“戻っている”。

「今のさ」

「お嬢様、忘れてください」

遮るように、律が言った。
その声は静かだった。
でも、命令だった。
初めて聞く種類の声。

「今のは…“誤り”です」

「私は執事として──」

「ねぇ」

私は小さく言う。
その一言で、律の言葉が止まる。
私は一歩近づく。
まだ、距離は近い。
でもさっきとは違う。
もう“安全な距離”じゃない。

「忘れるって、なに?」

律の喉が動く。

「……そのままの意味です」

「今の、なかったことにするってこと?」

「はい」

即答、それなのに。
その言葉が一番嘘くさい。
それがどこかおかしくて私は少しだけ笑った。
でも、それは楽しそうじゃなかった。

「じゃあさ」

「律は、“なかったこと”にしたいの?」

その瞬間。
空気が止まる。
律の目が揺れる。
ほんのわずかに。
ほんの一瞬だけ。

──でも確かに。

「……それは」

言葉が途切れる。

─ Side:律 ─

“執事”の仮面がそこだけ剥がれる。

(違う)

(そうじゃない)

(本当は──)

その奥にあるものが、喉まで上がってくる。
でも、それを言葉にした瞬間。
終わる。
全部。
俺は一度目を閉じる。
そして、いつもの声に戻した。

「……忘れてください」

もう一度。
今度は、少しだけ硬い。
彼女はその言葉を見つめたまま、動かない。

「忘れる……そういうものなんだ」

でも── 、

さっきの温度だけは、まだ消えていない。
指先に残っている。
呼吸の奥に残っている。

「……じゃあ」

彼女は小さく言った。

「“忘れない”のは、ダメ?」

俺の肩が、ほんの少しだけ動く。

「……お嬢様」

「それは」

言いかけて、止まる。

“執事として不適切です”

そう続けるはずだった。
でも、言えなかった。
沈黙が落ちる。
長いようで、一瞬の沈黙。
そして俺は、静かに言った。
言ってしまった。

「……貴女がそれを望まれるなら」

その言葉は。
許可でもなく。
拒絶でもなく。
ただの“降伏”だった。
彼女の表情が少しだけ明るくなる。

「じゃあ」

彼女は一歩だけ、近づく。
今度は、逃げられない距離。

「忘れなくていいよね」

俺の呼吸が止まる。
目が、ほんの少しだけ細くなる。

(──戻れない)

(…………いや)

(もう、とっくに)

「……はい」

その返事は、もう執事のものじゃなかった。
夜でもないのに。
世界だけが、少しずつ暗くなっていく。


─‬─‬─‬ 二十六話 :心酔させて、いっそ壊して