朝の中庭は、まだ静寂という名の均衡に包まれていた。
白い光が木々の間から落ちている。
鈴は小さなメモ帳を抱えながら、律の少し後ろを歩いていた。
「……律」
「はい、お嬢様」
即答だった。
私は少しだけ笑う。
「これ終わったら……ご褒美、くれる?」
彼の足がわずかに止まる。
「……内容によります」
「えー、どうして?」
不満そうな声に律は淡々と続ける。
「何でも許可されるわけではありませんので」
それでも、その声は柔らかかった。
完全な拒絶ではないことを、私はもう知っている。
「じゃあ私から命令ね。ご褒美、ちょうだい?」
「…………では、決まり次第お伝えください」
彼はそう言って歩き出す。
その背中を、鈴は少しだけ追いかける
作業は単純なものだった。
書類の整理。
庭の片付け。
小さな雑務。
私はわざと遅くする。
(これをやれば、また律に褒めてもらえる)
そんな理由を、自分でも気づかないまま握っている。
「お嬢様、そちらの書類はその棚ではありません」
律の声が落ちる。
次の瞬間、彼の手が私の手元に重なる。
「こちらです」
ただ直すだけ。
それだけ。
それなのに。
私の呼吸が少しだけ乱れる。
(……今、触れた)
(ちゃんと、見てくれてる)
彼はそれに気づかないふりをする。
あるいは、気づいてはいけないと判断している。
─Side:律 ─
律は理解している。
この距離は、本来適切ではない。
執事として。
教育係として。
主従として。
護衛として。
どれを取っても、近すぎる。
(……しかし)
視線が、彼女に向く。
彼女は楽しそうに作業をしている。
その事実だけで。
判断基準が少しだけ揺れる。
(これで正しいのか)
(それとも、俺がただ甘やかしているだけなのか)
答えは出ない。
出さないようにしているのかもしれない。
「律」
彼女が俺の名前を呼ぶ。
「はい」
俺はすぐに反応する。
「ねぇ、ご褒美……まだ?」
「……まだ作業は終わっておりません」
淡々とした返答。
それでも彼女は引かない。
「でも、ちゃんと手伝ったよ?」
「その評価は後ほど行います」
俺の声は変わらない。
完璧な執事のままだ。
彼女は少し考えて。
「じゃあ、今お願い」
“お願い”その一言で。
空気がわずかに変わる。
俺は一瞬だけ沈黙する。
(“お願い”)
その言葉は、命令ではない。
拒否もできる。
だからこそ厄介だった。
「……内容をお伺いしても?」
「あたま、撫でてほしいの」
即答。
律の目が、ほんのわずかだけ揺れる。
(それくらいなら問題ない)
(執事としても許容範囲だ)
そう判断する。
判断“してしまう”。
律はゆっくりと手を伸ばす。
彼女の髪に触れる。
丁寧に。
乱さないように。
距離を守ったまま。
「……これでよろしいですか」
「もうちょっと、欲しい」
そうおねだりをする彼女の声。
俺は一瞬だけ止まる。
(もう少し)
(それだけなら)
(これ以上は“許可”の範囲を越える)
(……越えたら、戻れなくなる)
手が、少しだけ長く留まる。
その数秒が。
異様に長く感じられる。
律は静かに手を離す。
一歩下がる。
完璧に整った姿勢に戻る。
「……以上で終了いたします」
いつもの声。
いつもの距離。
彼女は少しだけ不満そうにする。
「もう終わり?」
「業務は完了しております」
「今日たくさんお手伝いしたよ?その分のご褒美は?」
俺は一瞬だけ沈黙する。
「……後日、改めて」
それだけ言う。
その“逃げ方”を、自分で理解している。
深夜の廊下には俺しかいない。誰もいない空間。
律は一人で立ち止まる。
手袋の上から、自分の手を見つめる。
(問題ない……問題ないはずだ)
そう、“理解しようとする”。
………だが、胸の奥がうまく納得しない
(なぜ、あの時間が欲しいと思った)
(あのままで…よかったんじゃないか)
(あれは“業務”だ)
(そうでなければ、許されない)
なのに、それなのに俺は ───
(…俺は………手を、離したくなかったのかもしれない)
その考えを。
俺はすぐに否定する。
執事として。
従者として。
それは許されない。
「……俺は」
小さく呟く。
すぐに言い直す。
「…私は」
その修正すら、少しだけ遅かった。
遠くから声がする。
「律」
彼女の声。
俺は一瞬で表情を整える。
「はい、お嬢様」
完璧な執事の声。
でも、その“完璧” は ──少しだけ、彼女に追いつけていなかった。
─── 二十四話:求めて、離さないで
白い光が木々の間から落ちている。
鈴は小さなメモ帳を抱えながら、律の少し後ろを歩いていた。
「……律」
「はい、お嬢様」
即答だった。
私は少しだけ笑う。
「これ終わったら……ご褒美、くれる?」
彼の足がわずかに止まる。
「……内容によります」
「えー、どうして?」
不満そうな声に律は淡々と続ける。
「何でも許可されるわけではありませんので」
それでも、その声は柔らかかった。
完全な拒絶ではないことを、私はもう知っている。
「じゃあ私から命令ね。ご褒美、ちょうだい?」
「…………では、決まり次第お伝えください」
彼はそう言って歩き出す。
その背中を、鈴は少しだけ追いかける
作業は単純なものだった。
書類の整理。
庭の片付け。
小さな雑務。
私はわざと遅くする。
(これをやれば、また律に褒めてもらえる)
そんな理由を、自分でも気づかないまま握っている。
「お嬢様、そちらの書類はその棚ではありません」
律の声が落ちる。
次の瞬間、彼の手が私の手元に重なる。
「こちらです」
ただ直すだけ。
それだけ。
それなのに。
私の呼吸が少しだけ乱れる。
(……今、触れた)
(ちゃんと、見てくれてる)
彼はそれに気づかないふりをする。
あるいは、気づいてはいけないと判断している。
─Side:律 ─
律は理解している。
この距離は、本来適切ではない。
執事として。
教育係として。
主従として。
護衛として。
どれを取っても、近すぎる。
(……しかし)
視線が、彼女に向く。
彼女は楽しそうに作業をしている。
その事実だけで。
判断基準が少しだけ揺れる。
(これで正しいのか)
(それとも、俺がただ甘やかしているだけなのか)
答えは出ない。
出さないようにしているのかもしれない。
「律」
彼女が俺の名前を呼ぶ。
「はい」
俺はすぐに反応する。
「ねぇ、ご褒美……まだ?」
「……まだ作業は終わっておりません」
淡々とした返答。
それでも彼女は引かない。
「でも、ちゃんと手伝ったよ?」
「その評価は後ほど行います」
俺の声は変わらない。
完璧な執事のままだ。
彼女は少し考えて。
「じゃあ、今お願い」
“お願い”その一言で。
空気がわずかに変わる。
俺は一瞬だけ沈黙する。
(“お願い”)
その言葉は、命令ではない。
拒否もできる。
だからこそ厄介だった。
「……内容をお伺いしても?」
「あたま、撫でてほしいの」
即答。
律の目が、ほんのわずかだけ揺れる。
(それくらいなら問題ない)
(執事としても許容範囲だ)
そう判断する。
判断“してしまう”。
律はゆっくりと手を伸ばす。
彼女の髪に触れる。
丁寧に。
乱さないように。
距離を守ったまま。
「……これでよろしいですか」
「もうちょっと、欲しい」
そうおねだりをする彼女の声。
俺は一瞬だけ止まる。
(もう少し)
(それだけなら)
(これ以上は“許可”の範囲を越える)
(……越えたら、戻れなくなる)
手が、少しだけ長く留まる。
その数秒が。
異様に長く感じられる。
律は静かに手を離す。
一歩下がる。
完璧に整った姿勢に戻る。
「……以上で終了いたします」
いつもの声。
いつもの距離。
彼女は少しだけ不満そうにする。
「もう終わり?」
「業務は完了しております」
「今日たくさんお手伝いしたよ?その分のご褒美は?」
俺は一瞬だけ沈黙する。
「……後日、改めて」
それだけ言う。
その“逃げ方”を、自分で理解している。
深夜の廊下には俺しかいない。誰もいない空間。
律は一人で立ち止まる。
手袋の上から、自分の手を見つめる。
(問題ない……問題ないはずだ)
そう、“理解しようとする”。
………だが、胸の奥がうまく納得しない
(なぜ、あの時間が欲しいと思った)
(あのままで…よかったんじゃないか)
(あれは“業務”だ)
(そうでなければ、許されない)
なのに、それなのに俺は ───
(…俺は………手を、離したくなかったのかもしれない)
その考えを。
俺はすぐに否定する。
執事として。
従者として。
それは許されない。
「……俺は」
小さく呟く。
すぐに言い直す。
「…私は」
その修正すら、少しだけ遅かった。
遠くから声がする。
「律」
彼女の声。
俺は一瞬で表情を整える。
「はい、お嬢様」
完璧な執事の声。
でも、その“完璧” は ──少しだけ、彼女に追いつけていなかった。
─── 二十四話:求めて、離さないで
