陥落令嬢は執着執事に堕ちていく。Re:Choice

朝、目を覚ました瞬間まず思ったのは“静かすぎる”だった。

(……昨日より、もっと静か)

違う。
音が減ったわけじゃない。

ただ──“必要な音だけが残っている”

そんな世界になっていた。

「お嬢様」

その声で、全部が戻る。

(ああ、これ)

呼吸が整う。

「入って」

扉が開く。
律はいつも通りそこにいる。
いつも通りの距離。
いつも通りの姿。
なのに今日は、その全部が少しだけ“完成しすぎている”。
欠けていない。
揺れていない。
迷いもない。

(……完成?)

その単語が、喉の奥に引っかかる。

「朝食をご用意しております」

「うん」

立ち上がる。

その瞬間──

「お嬢様」

呼ばれて、振り返る。
律は一瞬だけ沈黙する。
その“間”は、もう以前みたいに短くない。

(また何か言う)

そう思うのに。
彼の言葉は、予想よりずっと静かだった。

「今日も、ここにいてください」

それだけ。
命令でもなく、提案でもなく。
お願いでもない。
ただの“願望の形をした確定”。

(……なに?それ)

でも、不思議と嫌じゃない。


むしろ──“安心”する。

「うん」

私はそれだけ答える。

その瞬間。
律の表情が、ほんの一瞬だけ緩んで薄い笑みが零れた気がした。
でもすぐ戻る。

(今の、何)

昼食を食べた後本を開いても、文字が少しだけ曖昧だった。
文字は読める
意味もわかる。
でも、内容が深く入ってこない。

その代わりに、頭の中に浮かぶのは別のもの。

(律の声)

(律の距離)

(律の“はい”)

扉が叩かれる。

「お嬢様」

「…入って」

律が入ってくる。
紅茶の香り。
整った所作。

でも今日は──

“何かを隠している人の動き”じゃない。

“何かを確かめ続けている人の動き”だった。

「本日の予定ですが」

「ないでしょ?」

私が言うと、律は少しだけ瞬きをする。

「……はい」

やっぱり即答。
でも、その後に続く言葉は少し違った。

「ですが」

一拍。

「外の音が大きい日です」

(外の音?)

窓を見る。
確かに、少しだけ遠くが騒がしい気がする。

でも──どうでもいい。

「ここの方が静かだよ」

そう言うと、律は止まる。
ほんの一瞬。
その後で、小さく息を吐く。

「……そうですね」

空が群青色に染まる頃、私はソファに座っていた。
律は少し離れた位置にいる。

その距離は、いつも通りのはずなのに。

今日は違う。

“距離が測られている”

そんな感じがする。

「律」

「はい」

呼ぶと、すぐ返事。

でも今日は、少しだけ遅い。

「ねえ」

「はい、お嬢様」

「最近、変じゃない?」

その問いに。
律は答えない。
代わりに、少しだけ視線を落とす。

「……変わっているのは」

そこで止まる。
そして。

「貴女の方です」

(…え)

一瞬、意味が分からなかった。

「私?」

「はい」

間髪入れずに即答。
でも、優しい。

「貴女は今、“ここ”を基準にしています」

「それは自然な適応です」

(適応)

その言葉が少し冷たい。
でも、不思議と怖くない。

むしろ──“正しい”気がする。

私は少しだけ笑う。

「じゃあ、いいのかもね」

その瞬間、律の赤紫の瞳が大きく揺れる。
ほんの一瞬だけ。
でも確かに。

「……そう、ですね」

夜が深くなる。
私はベッドに身を委ねる。
すぐには眠れない。
でも、不安でもない。
ただ、扉の向こうに気配がある。

(律、いる)

それだけでいい。
でも同時に思う。

(あれ)

(これって、“好き”ってやつだったっけ)

答えは出ない。

でも、そんなものは必要ない気もする。


─ Side:律 ─

扉の前。
動かない。
動けないわけじゃない。
動く必要がない。

(彼女は、ここを“世界”にしている)

それでいい。
それでいいはずだ。
なのに。
胸の奥だけが、まだ“正しくない音”を立てている。

(俺は、執事だ)

(執事であるべきだ)

(でも──)

その続きは、もう言葉にならない。
ただひとつだけ確かなのは。
この箱庭は、もう“誰のため”でもなくなっているということだった。
そしてその鍵は、最初からずっと彼の手の中で熱を持ち続けていた。



───二十三話:Education