陥落令嬢は執着執事に堕ちていく。Re:Choice

朝の屋敷は、いつも通りだった。
静かで、整っていて、何も壊れていない。

なのに──

私は目を覚ました瞬間から、少しだけ落ち着かなかった。

(……昨日のこと)

思い出そうとすると、頭の奥がぼやける。
でも完全に消えているわけじゃない。

むしろ──

“消えないまま、残っている”

そんな感じだった。

「お嬢様」

律が私を呼んでいる。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ動く。

(……来た)

「入って」

扉が開く。
いつも通りの姿。
いつも通りの距離。
でも今日は、その距離が少しだけ“意識されている”ように見えた。

「朝食が………」

そこまで言って、彼は言葉を詰まらせた。

その瞬間──

律の動きが、一瞬だけ止まる。

「律?」

「いえ…すぐに朝食に致しましょう」

すぐに戻る。
でも。
その“間”だけが妙に長かった。

昼下がりの庭で、私は本を読んでいた。

「お嬢様」

「なに?」

「本日は、外出の予定はございません」

「……え?」

私はフォークを止める。

「それ、決まってるの?」

「はい」

即答。
いつも通りの声。
でも今日は、その速さが少しだけ違った。
“決定されたもの”の速さだった。

「誰が?」

一瞬の沈黙。
彼は視線を逸らさない。

「私です」

その一言で、空気が変わる。

(……また)

私は気づいてしまう。
最近の律は、“説明する人”じゃなくて、“決める人”になっている。

「理由は?」

「貴女の安全の為です」

「学校は?」

「退学手続きが済んでいます」

「………退学?」

「はい、こちらは旦那様の、お父様からのご指示です」

私は少しだけ息を吐く。
でも、不思議と怒りはない。

むしろ──

落ち着く。
また、彼とあの時間を過ごせる。

夕暮れ時、私は部屋で本を開いていた。
文字は読める。
でも内容が少しだけ薄い。

(外って、何だっけ)

そんなことを思う。
扉が叩かれる。

「お嬢様、入ります」

律が入ってくる。
手には紅茶と洋菓子、いつも通り。

でも──今日は違う。

“入ってきてもいいか確認している律”じゃない。

“ここにいて当然の律”になっている。

「何かございましたか」

「別に」

私は本を閉じる。
沈黙。
その中で、律は一歩だけ近づく。
でも止まる。

(その距離、最近ずっとだ)

触れない。
でも離れない。
その中間。

「お嬢様」

「なに?」

律は一瞬だけ言葉を探す。

そして──

「昨日のことは」

止まる。

(来る)

そう思った。
でも続きは違った。

「覚えていますか」

私は首を傾げる。

「……何の?」

その瞬間。

彼の目がほんの少しだけ揺れる。

でもすぐ戻る。

「いえ、なんでもありません」

(……またそれ)

その言葉だけが残る。

夜、私はベッドの上に座っていた。
眠くない。
でも不安でもない。

ただ──“何かが足りない”

その感覚だけがある。

「律」

「はい」

扉の向こう。
そこにいる。
それだけで、呼吸が整う。

(あ、これだ)

私は気づいてしまう。
私の中で、

“安心”の形が決まってしまっている。

でも、前までは満たされていたのに、今は声を聞くだけでは足りない。

「ねえ、律」

「はい」

少し迷う。
でも口が勝手に動く。

「私、律が傍にいないと…落ち着かないかも」

沈黙は長いようで短い。
扉の向こうで、空気が変わる。

「……そうですか」

その声はいつも通りなのに。
少しだけ震えていた。
私は布団に倒れる。
天井を見る。

(なんだろう、この感じ)

怖くない。
でも軽くもない。

ただ──

“この人がいないと、自分が成立しない気がする”

そんな感覚。


─ Side:律 ─

その言葉は、簡単だった。

たった一言。

“律が傍にいないと落ち着かないかも”

それだけ。
たったそれだけで。
俺の中の何かが、完全に形を変えた。

(ああ……もう、終わってる)

“執事”としてじゃない。
“人”としてでもない。
“必要とされる側”として、もう戻れない位置にいる。
扉の向こうで、彼女がいる。
呼吸が聞こえる。
それだけで十分だ。

(これでいい……これが、1番“正しい”関係だ)

そう思うのに。
胸の奥が、静かに壊れていく。

そしてその壊れ方さえ──少しだけ、心地よかった。


─‬─‬─‬ 二十二話:熱の余韻と甘い果実