その夜の屋敷は、異様なほど静かだった。
静かというより──音が、最初から存在していないような世界。
俺は廊下に立っていた。
いつも通りの巡回。
いつも通りの確認。
そのはずだった。
なのに、足が止まる。
(……ここにいる)
ただそれだけで、屋敷の意味が変わる。
扉は開いている。
彼女はそこにいる。
いつも通りの姿。
ただひとつ違うのは──
“俺を見ているのに、世界は俺を中心にしていない”ことだった。
それが、妙に気に障る。
「お嬢様」
声をかける。
遅れて、視線がこちらへ向く。
その瞬間だけ、呼吸が浅くなる。
(……戻る)
そう錯覚する。
彼女が小さく瞬きをする。
「律」
その名前で、ようやく世界が“整う”。
「はい」
即答してしまう。
速すぎる。
分かっているのに、直せない。
彼女は少し首を傾げる。
「律って、ほんと変」
その言葉は軽い。
軽いはずなのに──胸の奥に落ちると、熱を持つ。
(変なのは、どっちだ)
(俺はここにいない方が“正常”だったのか?)
違う。
最初からそうだった。
彼女がいない時間の方が、ずっと不自然だった。
俺はただそれに気づいただけだ。
ティーカップを机に置く。
距離はいつも通り。
触れない。
近いのに、触れない。
その距離が一番正しいはずだった。
なのに今日は、その距離が遠い。
「お嬢様」
呼べば彼女がこちらを見る。
その視線に、ほんの少しだけ熱が混じる。
気づかれてはいけない熱だ。
それでも、止まらない。
「もし」
言葉が落ちる。
「もし貴女が」
一度、息を飲む。
(これは執事の言葉じゃない)
分かっている。
それでも続ける。
「俺がいる場所の方が、落ち着くと感じるなら」
彼女の目が、少しだけ揺れる。
純粋すぎるか故に、理解していない。
まだ、意味としては届いていない。
それでいい。
今はまだ、それでいい。
「それは、間違いではありません」
静かに落とす。
優しく。
壊さないように。
でも確実に彼女の逃げ道を減らすように。
彼女は小さく眉を寄せる。
「……それ、どういう意味?」
無垢な瞳で問いかけるら、
その無防備さが、逆に危険だった。
俺は少しだけ笑う。
執事の形をしたまま。
完璧な距離を保ったまま。
なのに内側だけが崩れていく。
(もっと…俺に慣れていい)
(彼女には、俺だけがいればいい)
その思考に、自分で気づいてしまう。
それでも止まらない。
彼女が窓を見る。
外を見ている。
その横顔を見て、確信する。
(外はいらない、必要なのはここだけだ)
彼女が振り返る。
「律」
その一言で、全てが揺れる。
「……はい」
少し遅れて返す。
それだけで嬉しいと感じてしまう自分がいる。
それが一番危険だ。
夜、いつも通り彼女の部屋の前に俺はそこに立っている。
入らない。
離れない。
その境界線の上で、ようやく理解する。
(守っているんじゃない)
(俺が彼女を必要としている)
彼女の存在が、俺という形を決めている。
そしてそれを、もう否定できない。
扉の向こうから声がする。
「律」
呼ばれる。
それだけでいい。
世界が正しい形に戻る。
「……はい」
その声が、もう“俺のもの”ではないと気づいてしまった。
─── 二十話:貴方の正気、溶かしてあげる。
静かというより──音が、最初から存在していないような世界。
俺は廊下に立っていた。
いつも通りの巡回。
いつも通りの確認。
そのはずだった。
なのに、足が止まる。
(……ここにいる)
ただそれだけで、屋敷の意味が変わる。
扉は開いている。
彼女はそこにいる。
いつも通りの姿。
ただひとつ違うのは──
“俺を見ているのに、世界は俺を中心にしていない”ことだった。
それが、妙に気に障る。
「お嬢様」
声をかける。
遅れて、視線がこちらへ向く。
その瞬間だけ、呼吸が浅くなる。
(……戻る)
そう錯覚する。
彼女が小さく瞬きをする。
「律」
その名前で、ようやく世界が“整う”。
「はい」
即答してしまう。
速すぎる。
分かっているのに、直せない。
彼女は少し首を傾げる。
「律って、ほんと変」
その言葉は軽い。
軽いはずなのに──胸の奥に落ちると、熱を持つ。
(変なのは、どっちだ)
(俺はここにいない方が“正常”だったのか?)
違う。
最初からそうだった。
彼女がいない時間の方が、ずっと不自然だった。
俺はただそれに気づいただけだ。
ティーカップを机に置く。
距離はいつも通り。
触れない。
近いのに、触れない。
その距離が一番正しいはずだった。
なのに今日は、その距離が遠い。
「お嬢様」
呼べば彼女がこちらを見る。
その視線に、ほんの少しだけ熱が混じる。
気づかれてはいけない熱だ。
それでも、止まらない。
「もし」
言葉が落ちる。
「もし貴女が」
一度、息を飲む。
(これは執事の言葉じゃない)
分かっている。
それでも続ける。
「俺がいる場所の方が、落ち着くと感じるなら」
彼女の目が、少しだけ揺れる。
純粋すぎるか故に、理解していない。
まだ、意味としては届いていない。
それでいい。
今はまだ、それでいい。
「それは、間違いではありません」
静かに落とす。
優しく。
壊さないように。
でも確実に彼女の逃げ道を減らすように。
彼女は小さく眉を寄せる。
「……それ、どういう意味?」
無垢な瞳で問いかけるら、
その無防備さが、逆に危険だった。
俺は少しだけ笑う。
執事の形をしたまま。
完璧な距離を保ったまま。
なのに内側だけが崩れていく。
(もっと…俺に慣れていい)
(彼女には、俺だけがいればいい)
その思考に、自分で気づいてしまう。
それでも止まらない。
彼女が窓を見る。
外を見ている。
その横顔を見て、確信する。
(外はいらない、必要なのはここだけだ)
彼女が振り返る。
「律」
その一言で、全てが揺れる。
「……はい」
少し遅れて返す。
それだけで嬉しいと感じてしまう自分がいる。
それが一番危険だ。
夜、いつも通り彼女の部屋の前に俺はそこに立っている。
入らない。
離れない。
その境界線の上で、ようやく理解する。
(守っているんじゃない)
(俺が彼女を必要としている)
彼女の存在が、俺という形を決めている。
そしてそれを、もう否定できない。
扉の向こうから声がする。
「律」
呼ばれる。
それだけでいい。
世界が正しい形に戻る。
「……はい」
その声が、もう“俺のもの”ではないと気づいてしまった。
─── 二十話:貴方の正気、溶かしてあげる。
