陥落令嬢は執着執事に堕ちていく。Re:Choice

私は朝から、胸の奥が落ち着かなかった。

(……何か、足りない)

理由は分からない。
でもそれは“欠けている”というより、
“誰かに埋められている途中”みたいな感覚だった。

「お嬢様」

扉の外から声がする。
律の声だ。
その声を聞いた瞬間、少しだけ安心する。

(あ……戻った)

「入って」

扉が開く。
いつも通りの姿。
いつも通りの距離。
でも今日は、その“いつも通り”が、少しだけ怖い。
完璧すぎる。

乱れがない。
揺れがない。
迷いもない。

──なのに。

「食事の準備ができております」

「うん」

私は立ち上がる。
その瞬間。

「……お嬢様」

律が、珍しく呼び止める。

「なに?」

彼は一瞬だけ、言葉を探す。
その“間”が異常に長い。

(律が、迷ってる?)

それだけで、胸が少しざわつく。

「……今日」

「もし、外に出たいと感じられたとしても」

そこで止まって、息を吐く。

そして──

「それは、錯覚です」

(……え?)

一瞬、意味が分からなかった。

(錯覚?外に出たい気持ちが?)

律は続ける。
声はいつも通り優しい。

なのに、その優しさが少しだけ“異常に整っている”。

「貴女の環境は、すでに最適化されています」

「外部刺激は不安定要素です」

「ここが貴女にとって、最も安全です」

これは、説得じゃない。

(“修正”だ)

私は気づく。
律の言葉が全部、“優しさの形をした制限”になっている。

「律」

「はい」

早すぎる。
まるで、呼ばれることだけを待っていたみたいに。

「私、外に行きたいなんて言ってない」

その瞬間、彼の目がほんの一瞬だけ揺れた。
でもすぐ戻る。

「そうですか」

「なら、問題ありません」

(問題……?)

私は今、何を話してるんだっけ。

夕方、窓の外は見える。
でも、もう意味が薄い。

「律」

呼ぶと、すぐ返事が来る。

「はい」

扉の向こう。
彼は“そこにいるだけで成立する存在”みたいになっている。

「今日……」

「はい」

「律、ちょっと変だよね」

その言葉に、一瞬の沈黙。

(…来る)

何か来る。
そう思った。

「……そう見えますか?」

声が、少しだけ低い。
そして続く。

「お嬢様が不安定になる要因は、可能な限り排除すべきです」

「全ては貴女の……お嬢様の為に」

(ああ、これだ)

優しさじゃない。
それによく似た管理だ。
でも、その中に確かに“感情”が混じっている。

「それって、私のため?」

聞くと、律はすぐ答える。

「はい」

即答、迷いは微塵もない。
でも。
その“はい”だけが異様に重い。

深夜、私の部屋の前に俺は立っている。
入らない。
離れない。

「……お嬢様」

「貴女がここにいる限り、俺は“正しく“いられる」

その言葉は優しい。でも ─‬─‬、

(それって、私のため?それとも、律のため?)

部屋の中で私は目を閉じる。
律の声がある。
安心する。
でもその安心は、
“外の世界を消したあとに残る静けさ”だった。


─‬ Side:律 ─‬

扉の向こう、俺は動かない。

ただひとつだけ理解している。

(俺はもう、執事じゃない)

(執事の仮面を被っているだけだ)

(でも、まだ“壊れてもいない”)

そして、その中途半端な状態が一番危険だと

彼はまだ知らない。


─‬─‬─‬ 十九話:甘い声はまだ知らない