私は朝が嫌いだった。
嫌いになった、と言った方が正しいのかもしれない。
目を覚ました瞬間、昨日の続きをまた始めなくちゃいけないから。
薄いカーテンの向こうには、雨上がりの空が広がっていた。夜の名残を残した屋敷は静かで、時計の針の音だけがやけに大きい。
広すぎる部屋。
広すぎる廊下。
昔はもっと賑やかだったはずなのに、今はもう。
この屋敷には、私と一人の執事しかいない。
「お嬢様」
控えめなノックと、聞き慣れた声。
「朝食の準備ができております」
「……うん」
返事をすると、扉の向こうの気配が少し遠ざかる。
開けてこない。
急かさない。
いつもそう。
それが律だった。
私は鏡を見る。
制服。
髪型。
いつもの笑顔。
(大丈夫、今日もちゃんと笑えてる)
そう思いながら部屋を出た。
階段を下りると、温かい紅茶の香りがする。
食堂には朝の光が差し込み、窓際には飾られている白い花が優しく揺れる
「おはようございます、お嬢様」
黒い執事服。
乱れのない姿勢。
変わらない声。
その姿を見た瞬間、胸の奥の緊張が少しほどけた。
「……おはよう」
彼は小さく目を伏せる。
それだけなのに、ほんの僅かに肩の力が抜けたように見えた。
「どうしたの?」
「いえ」
静かな声で、彼は答える。
「問題ありません」
最近の律は、自分のことになるといつもそう言う。
「変なの」
「…申し訳ございません」
「褒めてるの」
「……そうでしたか」
少し困ったような顔。
その表情に、私は思わず笑ってしまう。
すると律は、私の前のティーカップの位置をほんの少しだけ整えた。
何気ない仕草なのに、変わらないそれを見ると、なぜだか落ち着いた。
朝食の最中、私はふと気づいた。
「律」
「はい」
「また待ってる」
「何をでしょう」
「食べるの」
律の手が止まる。
「偶然です」
「嘘」
「だって、いつも私が食べ終わるまで食べないじゃない」
「そのようなことは」
「あるよ」
笑いながら言うと、律は視線を落とした。
「……失礼いたしました」
「謝るところ?」
「申し訳ございません」
「だから、なんで謝るの」
また笑ってしまう。
律は不思議そうにこちらを見る。
笑われる理由が分からないみたいに。
けれど私が笑っているのを確かめると、律は何も言わずに自分のカップへ手を伸ばした。
この人は昔からそうだ。
自分のことになると少し変で、優しいというより不器用。
それなのに、誰よりも私の変化に気づく。
「お嬢様」
「なに?」
「昨夜は眠れておりませんでしたか」
思わず目を瞬かせる。
「なんで?」
「目元が少し赤いので」
「……そんなに?」
「はい」
即答だった。
「それと、朝食の量も少ないです」
「見てたの?」
「当然です。お嬢様の執事ですから」
その答え方が、少しおかしくて。
少しだけ息苦しい。
でも、嫌ではなかった。
私はフォークを置きながら、つい律の顔を見上げる。
視線が合うと、律はすぐに目を逸らすことなく、静かに次の紅茶を注いだ。
「律って、たまにお母さんみたい」
「複雑です」
珍しく、すぐ返事が返ってきた。
私は吹き出す。
その瞬間、律はほんの少しだけ目を細めた。
笑顔というには小さすぎる。
でも、どこか安心したような顔だった。
玄関で靴を履いて鞄を持ち上げようとした瞬間、律の手が先に伸びる。
「ありがとう、律」
受け取った鞄の重みが少し軽くなった気がして、私は小さく指先を握り直した。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
いつもの声。
いつもの距離。
扉を開く。
そして、なぜか私は振り返っていた。
律はそこにいた。
朝の光の中、静かにこちらを見ている。
私が振り返ったことに気づくと、彼はわずかに目を見開き、それからいつものように背筋を正した。
その視線に、名前はまだなかった。
優しさなのか。
心配なのか。
それとも、もっと違うものなのか。
(分からない)
でも。
「……変なの」
小さく呟くと彼は少し首を傾げた。
「何かございましたか」
「ううん」
私は笑う。
「なんでもない」
そう言いながら、もう一度だけ律の姿を目に焼きつけるように見てから、外へ出た。
そう、この時の私は知らなかった。
あの人が、呼べばすぐ返事をして、いつも同じ場所にいて、当たり前みたいに私を見ていることが。
本当は、当たり前なんかじゃなかったことを。
そして、彼もまた知らない。朝、私の声を聞いたあと、手元の銀盆を置く指先からようやく余計な力が抜けることを。
一人残された彼が、ほんの少しの間だけ閉じられた扉から目を逸らせなくなっていることを。
扉が閉まったあと。
静かな玄関で。
やがて。
「……行ってらっしゃいませ、お嬢様」
もう届かないはずの声を、小さく落としてから。
彼はようやく踵を返した。
─── 二話:肩書きの檻
嫌いになった、と言った方が正しいのかもしれない。
目を覚ました瞬間、昨日の続きをまた始めなくちゃいけないから。
薄いカーテンの向こうには、雨上がりの空が広がっていた。夜の名残を残した屋敷は静かで、時計の針の音だけがやけに大きい。
広すぎる部屋。
広すぎる廊下。
昔はもっと賑やかだったはずなのに、今はもう。
この屋敷には、私と一人の執事しかいない。
「お嬢様」
控えめなノックと、聞き慣れた声。
「朝食の準備ができております」
「……うん」
返事をすると、扉の向こうの気配が少し遠ざかる。
開けてこない。
急かさない。
いつもそう。
それが律だった。
私は鏡を見る。
制服。
髪型。
いつもの笑顔。
(大丈夫、今日もちゃんと笑えてる)
そう思いながら部屋を出た。
階段を下りると、温かい紅茶の香りがする。
食堂には朝の光が差し込み、窓際には飾られている白い花が優しく揺れる
「おはようございます、お嬢様」
黒い執事服。
乱れのない姿勢。
変わらない声。
その姿を見た瞬間、胸の奥の緊張が少しほどけた。
「……おはよう」
彼は小さく目を伏せる。
それだけなのに、ほんの僅かに肩の力が抜けたように見えた。
「どうしたの?」
「いえ」
静かな声で、彼は答える。
「問題ありません」
最近の律は、自分のことになるといつもそう言う。
「変なの」
「…申し訳ございません」
「褒めてるの」
「……そうでしたか」
少し困ったような顔。
その表情に、私は思わず笑ってしまう。
すると律は、私の前のティーカップの位置をほんの少しだけ整えた。
何気ない仕草なのに、変わらないそれを見ると、なぜだか落ち着いた。
朝食の最中、私はふと気づいた。
「律」
「はい」
「また待ってる」
「何をでしょう」
「食べるの」
律の手が止まる。
「偶然です」
「嘘」
「だって、いつも私が食べ終わるまで食べないじゃない」
「そのようなことは」
「あるよ」
笑いながら言うと、律は視線を落とした。
「……失礼いたしました」
「謝るところ?」
「申し訳ございません」
「だから、なんで謝るの」
また笑ってしまう。
律は不思議そうにこちらを見る。
笑われる理由が分からないみたいに。
けれど私が笑っているのを確かめると、律は何も言わずに自分のカップへ手を伸ばした。
この人は昔からそうだ。
自分のことになると少し変で、優しいというより不器用。
それなのに、誰よりも私の変化に気づく。
「お嬢様」
「なに?」
「昨夜は眠れておりませんでしたか」
思わず目を瞬かせる。
「なんで?」
「目元が少し赤いので」
「……そんなに?」
「はい」
即答だった。
「それと、朝食の量も少ないです」
「見てたの?」
「当然です。お嬢様の執事ですから」
その答え方が、少しおかしくて。
少しだけ息苦しい。
でも、嫌ではなかった。
私はフォークを置きながら、つい律の顔を見上げる。
視線が合うと、律はすぐに目を逸らすことなく、静かに次の紅茶を注いだ。
「律って、たまにお母さんみたい」
「複雑です」
珍しく、すぐ返事が返ってきた。
私は吹き出す。
その瞬間、律はほんの少しだけ目を細めた。
笑顔というには小さすぎる。
でも、どこか安心したような顔だった。
玄関で靴を履いて鞄を持ち上げようとした瞬間、律の手が先に伸びる。
「ありがとう、律」
受け取った鞄の重みが少し軽くなった気がして、私は小さく指先を握り直した。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
いつもの声。
いつもの距離。
扉を開く。
そして、なぜか私は振り返っていた。
律はそこにいた。
朝の光の中、静かにこちらを見ている。
私が振り返ったことに気づくと、彼はわずかに目を見開き、それからいつものように背筋を正した。
その視線に、名前はまだなかった。
優しさなのか。
心配なのか。
それとも、もっと違うものなのか。
(分からない)
でも。
「……変なの」
小さく呟くと彼は少し首を傾げた。
「何かございましたか」
「ううん」
私は笑う。
「なんでもない」
そう言いながら、もう一度だけ律の姿を目に焼きつけるように見てから、外へ出た。
そう、この時の私は知らなかった。
あの人が、呼べばすぐ返事をして、いつも同じ場所にいて、当たり前みたいに私を見ていることが。
本当は、当たり前なんかじゃなかったことを。
そして、彼もまた知らない。朝、私の声を聞いたあと、手元の銀盆を置く指先からようやく余計な力が抜けることを。
一人残された彼が、ほんの少しの間だけ閉じられた扉から目を逸らせなくなっていることを。
扉が閉まったあと。
静かな玄関で。
やがて。
「……行ってらっしゃいませ、お嬢様」
もう届かないはずの声を、小さく落としてから。
彼はようやく踵を返した。
─── 二話:肩書きの檻
