陥落令嬢は執着執事に堕ちていく。Re:Choice

その日もいつも通り静かだった。
静かで、整っていて、壊れていない。
そのはずなのに──私は、どこか違和感の中で目を覚ました。

(……外の音が、遠い)

窓の向こうの世界が、少しだけ薄い。
そんな気がした。

「お嬢様」

扉の外から声がする。
律だ。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着く。

(ああ、これだ)

「入って」

扉が開く。
いつも通りの姿。
いつも通りの距離。
でも今日は、その“いつも通り”が少しだけ違って見えた。

「朝食の準備ができております」

「うん」

私は何も考えずに立ち上がる。
ただ、それだけでいい気がしていた。
完璧に管理された食卓、その中心に、律がいる。

「お嬢様」

「なに?」

律は一瞬だけ間を置く。
その間が、なぜか長く感じた。

「本日より、学校には行かなくて結構です」

「……え?」

一瞬、理解できなかった。

「どういう意味?」

律は視線を逸らさない。
その目は、いつもの執事の目じゃなかった。
静かで、揺れなくて、逃げ道がない。

「危険が多すぎます」

「外部環境、対人関係、精神的負荷──すべて不安定です」

「ですので、通学は停止致しました」

(……停止?)

その言葉だけが、頭の中に残る。
声が少しだけ上ずる。

「勝手に決めたの?」

「はい」

即答だった。
迷いがない。
それが一番怖かった。

「…私、聞いてない」

「必要ありません」

その一言で、空気が止まる。

(必要……ない?)

私はゆっくりと立ち上がる。
でも、怒りにはならなかった。
代わりに出てきたのは──

「……じゃあ、私はどこに行けばいいの?」

その問いに、律は一瞬だけ沈黙する。
そして静かに言った。

「この屋敷にいてくれれば、それだけで充分です」

(……この屋敷)

世界が、少し狭くなる音がした気がした。

「学校は?」

「不要です」

「クラスの人は?」

「安定しません」

「外は?」

「危険です」

一つずつ、丁寧に。
壊すみたいに。
私は気づく。
これは説明じゃない。

これは──“削っている”

「律」

呼ぶと、彼はすぐに返事をする。

「はい」

その速さが、少し怖い。

「それ、私のため?」

一瞬。

ほんの一瞬だけ、彼の目が揺れた。

でもすぐに戻る。

「はい」

「貴女のためです」

(嘘じゃない)

そう思ってしまった。
だから余計に、何も言えなくなる。

私は部屋の窓から外を見つめる。窓の外は見えるのに、遠い。

(学校……)

(クラスの、人……)

その言葉を思い出そうとしても、輪郭がぼやける。

代わりに浮かぶのは──律の声だけだった。

「危険です」

「不要です」

「貴女はここにいればいい」

(ああ)

私は気づいてしまう。

(……これ、安心だ)

扉が開く。

「お嬢様」

律が紅茶を持って入ってくる。
いつも通り。
でも今日は、その“いつも通り”が違う。
優しいのに。
逃げられない。

「貴女がここにいれば」

律がカップを置きながら言う。

「何も起こりません」

「誰にも触れられません」

「貴女は、守られます」

その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
でも同時に。
どこかが、少しだけ痛い。

(……これ、いいことのはずなのに…なんで、少し怖いの)

律は私の隣には来ない。
でも、離れもしない。
その距離が、一番落ち着く。
そして一番、逃げられない。

私はベッドに座る。
静かすぎる部屋。
静かすぎる世界。
その中で、ふと思う。

(外って、どんな音だったっけ)

思い出せない。
でも、不思議と怖くない。
廊下の向こうには、人の気配。

(…律がいる)

それだけは分かる。

「律」

呼ぶとすぐに声が返る。

「はい」

その声を聞いた瞬間だけ、世界が元に戻る気がした。
でも同時に気づく。

(私の世界って)

(もう、この声だけでいいのかもしれない)

─‬ Side:律 ─‬

その夜。俺は廊下で立ち止まる。
扉越しに聞こえる彼女の呼吸。
静かで、落ち着いている。

(これでいい)

そう思う、はずだった。
でも胸の奥が、少しだけ騒がしい。

(俺は今、何を削った?)

(彼女の世界を?)

(それとも──俺以外を全部?)

廊下の静けさは変わらない。
なのに、その静けさだけが妙に重い。


──その箱の鍵が、すでに誰の手にあるのか。
彼女は、まだ知らない。



─‬─‬─‬ 十八話:もう一つの箱庭