朝の屋敷は、少し恐ろしいほどに音がなかった
。
静かというより、正確には──整いすぎていた。
音も、光も、匂いも、すべてが“正しい位置”にある。
なのに私は、目を覚ました瞬間から違和感だけを抱えていた。
(……何か、あった気がする)
でも思い出そうとすると、そこだけがすり抜ける。
記憶の代わりに残っているのは、ただの感覚。
誰かの声。
距離近さ。
そして、安心に似た何か。
「……」
起き上がると、律がすでに部屋の外にいた。
優しく扉を叩く音。
「お嬢様」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ沈む。
(……これだ)
理由もないのにそう思う。
「朝食の準備ができております」
「うん」
それだけ返して、廊下へ出る。
彼はいつも通りの距離を保って歩く。
近いのに、絶対に触れない距離。
そのはずなのに──今日はその距離が少しだけ怖い。
(なんで…?)
理由は分からない。
ただ、その背中を見ていると落ち着く。
落ち着くのに、離れるのが嫌だと思う。
その矛盾が、喉の奥に引っかかる。
食卓はいつも通りだった。
紅茶の香り。
光の差し方。
整えられたテーブル。
彼の手は静かにカップを置く。
「お嬢様、昨夜は──」
そこで一瞬だけ止まる。
「……眠れましたか」
「……わからない」
正直に言うと、律の指先がほんの少しだけ動く。
それ以上は何もない。
「そうですか」
その声が、少しだけ低い。
(今……何か言いかけた?)
でも聞けない。
聞いたらいけない気がした。
午後、部屋の空気が重いわけでもないのにずっと落ち着かない。
机に置かれたティーカップに触れる。
冷たい。
でも一瞬だけ、熱かった気がする。
(……なんで)
扉が叩かれる。
「お嬢様」
「入って」
律が入ってくる。
いつも通りの姿。
いつも通りの声。
でも今日は、どこか違う。
“視線が少しだけ定まらない”
「何かございましたか」
「別に」
即答する。
でも言葉の奥が詰まる。
(何か言いたいのに、出てこない)
律は一歩だけ近づく。
そして止まる。
いつも通りの距離。
でも今日は、その距離が“作られている”ように見えた。
「……お嬢様」
その声が、少しだけ揺れる。
「もし──」
言いかけて、止まる。
(なに…今、何を言おうとしたの)
でも、私は聞けない。
ただ胸の奥がざわつく。
「律」
呼ぶと、すぐ返事が来る。
「はい」
速すぎるくらいの返事。
その速さに、なぜか安心する。
(ああ、この声があれば私は…)
そう思ってしまう自分に、気づかないまま。
彼は一歩下がる。
距離を戻す。
その動きだけが、少し遅い。
「失礼しました」
「……うん」
扉が閉まる。
静けさが戻る。
でも今度は、その静けさがさっきより重い。
─ Side:律 ─
夜、俺は廊下に立っていた。
屋敷の安全確認、それはいつも通りのはずだった。
なのに、足が止まる。
(今日……俺は何を言おうとした)
思い出す。
昼間の部屋。
彼女の顔。
そして──
“この距離を、これ以上保てるのか”
その問い。
言葉にする前に飲み込んだはずなのに、まだ喉に残っている。
(違う)
(…執事だ)
(これは仕事だ)
(私情を挟むな)
(己を律しろ)
何度も繰り返す。
それなのに、彼女の声が頭から離れない。
“律”
その一言だけで、呼吸が乱れる。
(……まずい)
手袋の上から、自分の指先を握る。
強く。
痛いほどに。
でも消えない。
彼女の部屋の前で止まる。
部屋の中から声はない。
それなのに──
そこに“いる”と分かる。
(俺は……何をしている)
扉に手をかけて開ける。
彼女はそこにいる。
いつも通りの位置。
でも、少しだけ違う。
“俺を見ているようで、見ていない”
「お嬢様」
声が出る。
その瞬間だった。
「……律」
彼女が、名前を呼んだ。
それだけで。
全部が崩れた。
呼吸が止まる。
視界が一瞬だけ揺れる。
(今のは)
“鈴”からの“律”だった。
呼び方が、ただの呼称じゃなくなった瞬間。
俺の中の何かが、音を立てた。
気づけば一歩近づいている。
止められない。
「……もう一度」
声が低くなる。
「お嬢様…今の……もう一度言ってください」
彼女は少し首を傾げる。
「律?」
その一言で十分だった。
限界が、静かに崩れる。
「……それで、いい」
思わず漏れる。
「…あぁ、“それ”でいいんです」
自分でも分からない声。
安堵でもない。
救いでもない。
ただ──“ここにいていいと思えた”
「貴女は本当に──」
(なんて…愛らしい)
それだけだった。
沈黙。
彼女は何も分からないまま、こちらを見ている。
でも俺は気づいてしまう。
(もう戻れない)
この名前を聞いてしまった時点で。
距離はもう、同じ形には戻らない。
「……律」
もう一度呼ばれる。
今度は少しだけ、はっきりと。
俺は、息を吐く。
「……はい」
その返事は、執事のものじゃなかった。
ただの“俺”だった。
夜の廊下に戻る。
扉は閉まっている。
なのに、まだ声が残っている。
“律”
その響きだけが、ずっと消えない。
彼の顔には、自分でも分からないくらい薄い笑みが浮かんでいた。
赤紫の瞳が揺れる。
(これでいい……そう、これでいいはずだ)
(貴女は俺だけを…そのまま見ていればいい)
そう思うのに。
心の奥では、もう一つだけ別の感情が育っていた。
──それは、“正常ではない”と分かっているのに、やめられない感情だった。
─── 十七話:幸せは小さな箱に
。
静かというより、正確には──整いすぎていた。
音も、光も、匂いも、すべてが“正しい位置”にある。
なのに私は、目を覚ました瞬間から違和感だけを抱えていた。
(……何か、あった気がする)
でも思い出そうとすると、そこだけがすり抜ける。
記憶の代わりに残っているのは、ただの感覚。
誰かの声。
距離近さ。
そして、安心に似た何か。
「……」
起き上がると、律がすでに部屋の外にいた。
優しく扉を叩く音。
「お嬢様」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ沈む。
(……これだ)
理由もないのにそう思う。
「朝食の準備ができております」
「うん」
それだけ返して、廊下へ出る。
彼はいつも通りの距離を保って歩く。
近いのに、絶対に触れない距離。
そのはずなのに──今日はその距離が少しだけ怖い。
(なんで…?)
理由は分からない。
ただ、その背中を見ていると落ち着く。
落ち着くのに、離れるのが嫌だと思う。
その矛盾が、喉の奥に引っかかる。
食卓はいつも通りだった。
紅茶の香り。
光の差し方。
整えられたテーブル。
彼の手は静かにカップを置く。
「お嬢様、昨夜は──」
そこで一瞬だけ止まる。
「……眠れましたか」
「……わからない」
正直に言うと、律の指先がほんの少しだけ動く。
それ以上は何もない。
「そうですか」
その声が、少しだけ低い。
(今……何か言いかけた?)
でも聞けない。
聞いたらいけない気がした。
午後、部屋の空気が重いわけでもないのにずっと落ち着かない。
机に置かれたティーカップに触れる。
冷たい。
でも一瞬だけ、熱かった気がする。
(……なんで)
扉が叩かれる。
「お嬢様」
「入って」
律が入ってくる。
いつも通りの姿。
いつも通りの声。
でも今日は、どこか違う。
“視線が少しだけ定まらない”
「何かございましたか」
「別に」
即答する。
でも言葉の奥が詰まる。
(何か言いたいのに、出てこない)
律は一歩だけ近づく。
そして止まる。
いつも通りの距離。
でも今日は、その距離が“作られている”ように見えた。
「……お嬢様」
その声が、少しだけ揺れる。
「もし──」
言いかけて、止まる。
(なに…今、何を言おうとしたの)
でも、私は聞けない。
ただ胸の奥がざわつく。
「律」
呼ぶと、すぐ返事が来る。
「はい」
速すぎるくらいの返事。
その速さに、なぜか安心する。
(ああ、この声があれば私は…)
そう思ってしまう自分に、気づかないまま。
彼は一歩下がる。
距離を戻す。
その動きだけが、少し遅い。
「失礼しました」
「……うん」
扉が閉まる。
静けさが戻る。
でも今度は、その静けさがさっきより重い。
─ Side:律 ─
夜、俺は廊下に立っていた。
屋敷の安全確認、それはいつも通りのはずだった。
なのに、足が止まる。
(今日……俺は何を言おうとした)
思い出す。
昼間の部屋。
彼女の顔。
そして──
“この距離を、これ以上保てるのか”
その問い。
言葉にする前に飲み込んだはずなのに、まだ喉に残っている。
(違う)
(…執事だ)
(これは仕事だ)
(私情を挟むな)
(己を律しろ)
何度も繰り返す。
それなのに、彼女の声が頭から離れない。
“律”
その一言だけで、呼吸が乱れる。
(……まずい)
手袋の上から、自分の指先を握る。
強く。
痛いほどに。
でも消えない。
彼女の部屋の前で止まる。
部屋の中から声はない。
それなのに──
そこに“いる”と分かる。
(俺は……何をしている)
扉に手をかけて開ける。
彼女はそこにいる。
いつも通りの位置。
でも、少しだけ違う。
“俺を見ているようで、見ていない”
「お嬢様」
声が出る。
その瞬間だった。
「……律」
彼女が、名前を呼んだ。
それだけで。
全部が崩れた。
呼吸が止まる。
視界が一瞬だけ揺れる。
(今のは)
“鈴”からの“律”だった。
呼び方が、ただの呼称じゃなくなった瞬間。
俺の中の何かが、音を立てた。
気づけば一歩近づいている。
止められない。
「……もう一度」
声が低くなる。
「お嬢様…今の……もう一度言ってください」
彼女は少し首を傾げる。
「律?」
その一言で十分だった。
限界が、静かに崩れる。
「……それで、いい」
思わず漏れる。
「…あぁ、“それ”でいいんです」
自分でも分からない声。
安堵でもない。
救いでもない。
ただ──“ここにいていいと思えた”
「貴女は本当に──」
(なんて…愛らしい)
それだけだった。
沈黙。
彼女は何も分からないまま、こちらを見ている。
でも俺は気づいてしまう。
(もう戻れない)
この名前を聞いてしまった時点で。
距離はもう、同じ形には戻らない。
「……律」
もう一度呼ばれる。
今度は少しだけ、はっきりと。
俺は、息を吐く。
「……はい」
その返事は、執事のものじゃなかった。
ただの“俺”だった。
夜の廊下に戻る。
扉は閉まっている。
なのに、まだ声が残っている。
“律”
その響きだけが、ずっと消えない。
彼の顔には、自分でも分からないくらい薄い笑みが浮かんでいた。
赤紫の瞳が揺れる。
(これでいい……そう、これでいいはずだ)
(貴女は俺だけを…そのまま見ていればいい)
そう思うのに。
心の奥では、もう一つだけ別の感情が育っていた。
──それは、“正常ではない”と分かっているのに、やめられない感情だった。
─── 十七話:幸せは小さな箱に
