朝の屋敷は、いつも通り静かだった。
何も変わっていないように見える空気。
けれど俺は、その“いつも通り”が昨日とは違うことを知っていた。
(……視線がある)
気配ではない。
もっと小さくて、もっと弱いもの。
それでも確かに。
(来ている)
彼女の部屋の前に立つ。
扉は開いていた。
それも、いつも通り。
「お嬢様」
声をかける。
返事はない。
彼女は窓際の椅子に座ったまま、ぼんやりと外を見ていた。
いや。
“見ているように見えるだけ”だ。
昨日より静か。
昨日より薄い。
存在の輪郭が、少しだけ曖昧になっている。
(……まだ戻っていない)
その事実に胸が痛む。
「お嬢様」
もう一度呼ぶ。
すると。
ほんの少しだけ。
彼女の指先が動いた。
「……りつ」
小さな声。
かすれていて。
でも確かに。
俺の名前だった。
息が止まる。
(……また)
昨日と同じ。
いや。
昨日より、はっきりしている。
「はい」
声が震えそうになるのを抑える。
「律です」
彼女の視線がゆっくり動く。
合わない。
それでも。
昨日より近い。
「……りつ」
「はい」
「……りつ?」
何度も。
まるで確認するように。
小さな子供みたいに。
俺の名前だけを繰り返す。
その度に。
胸の奥が静かに壊れていく。
(駄目だ)
(喜ぶな)
(こんなのは正常じゃない)
(これは回復じゃない)
それなのに。
「……はい、律はここにいます」
「貴女の傍におります」
返事をすることをやめられない。
彼女が名前を呼ぶ。
俺が返事をする。
たったそれだけ。
それだけなのに。
この世界には、それしか必要ないような気がしてしまう。
(……駄目だ)
自分で自分が怖くなる。
彼女が壊れていること。
俺しか認識できないこと。
それを。
ほんの少しだけ。
安心してしまっている。
「最低だ……」
小さく零れる。
すると。
「……ちがう」
声。
今度は俺が顔を上げる番だった。
彼女は相変わらずこちらを見ていない。
でも。
「……りつ」
「……わたし…ひとり、やだ」
その言葉に。
胸の奥で何かが軋んだ。
理性じゃない。
執事としての責任でもない。
もっと奥。
もっとずっと深い場所。
「……大丈夫です」
気づけば、そう答えていた。
「お嬢様は独りではありません」
「俺がいます」
彼女は答えない。
でも。
ほんの少しだけ。
身体から力が抜けていく。
その姿を見て。
俺は初めて思う。
(このまま、ずっと…未完成のままでいい)
彼女が元に戻らなくてもいい。
正しくなくてもいい。
壊れていてもいい。
何度でも。
何度でも。
この人が、ここにいてくれるなら。
そう思ってしまった瞬間、俺はようやく理解する。
(あぁ……もう)
(……もう、とっくに手遅れなんだ)
その時だった。
静かな部屋に響く電子音。
反射的にボタンを押す。
そこから聞こえるのは、冷たい声。
かつて俺に執事としての在り方と、礼儀作法を教えてくれた人物の声。
「律様、報告がございます」
「先生……報告とは、なんでしょうか」
「旦那様からご連絡がございました」
「……旦那様?」
「はい」
一拍。
「来週、そちらにお戻りになられるそうです」
その瞬間。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
理由は分からない。
なのに。
なぜか。
ひどく嫌な予感がした。
「……そうですか、伝達ありがとうございます、先生」
「では、失礼します」
それだけ返して、先生は電話を切った。
部屋に静寂が戻る。
「……りつ」
小さな声。
振り返る。
彼女はまだこちらを見ていない。
それでも。
俺の名前だけを呼ぶ。
「……はい」
答える。
優しく。
静かに。
そして。
窓の外では。
春の終わりを告げる風が、静かに吹き始めていた。
──十五話:箱庭の創造主
何も変わっていないように見える空気。
けれど俺は、その“いつも通り”が昨日とは違うことを知っていた。
(……視線がある)
気配ではない。
もっと小さくて、もっと弱いもの。
それでも確かに。
(来ている)
彼女の部屋の前に立つ。
扉は開いていた。
それも、いつも通り。
「お嬢様」
声をかける。
返事はない。
彼女は窓際の椅子に座ったまま、ぼんやりと外を見ていた。
いや。
“見ているように見えるだけ”だ。
昨日より静か。
昨日より薄い。
存在の輪郭が、少しだけ曖昧になっている。
(……まだ戻っていない)
その事実に胸が痛む。
「お嬢様」
もう一度呼ぶ。
すると。
ほんの少しだけ。
彼女の指先が動いた。
「……りつ」
小さな声。
かすれていて。
でも確かに。
俺の名前だった。
息が止まる。
(……また)
昨日と同じ。
いや。
昨日より、はっきりしている。
「はい」
声が震えそうになるのを抑える。
「律です」
彼女の視線がゆっくり動く。
合わない。
それでも。
昨日より近い。
「……りつ」
「はい」
「……りつ?」
何度も。
まるで確認するように。
小さな子供みたいに。
俺の名前だけを繰り返す。
その度に。
胸の奥が静かに壊れていく。
(駄目だ)
(喜ぶな)
(こんなのは正常じゃない)
(これは回復じゃない)
それなのに。
「……はい、律はここにいます」
「貴女の傍におります」
返事をすることをやめられない。
彼女が名前を呼ぶ。
俺が返事をする。
たったそれだけ。
それだけなのに。
この世界には、それしか必要ないような気がしてしまう。
(……駄目だ)
自分で自分が怖くなる。
彼女が壊れていること。
俺しか認識できないこと。
それを。
ほんの少しだけ。
安心してしまっている。
「最低だ……」
小さく零れる。
すると。
「……ちがう」
声。
今度は俺が顔を上げる番だった。
彼女は相変わらずこちらを見ていない。
でも。
「……りつ」
「……わたし…ひとり、やだ」
その言葉に。
胸の奥で何かが軋んだ。
理性じゃない。
執事としての責任でもない。
もっと奥。
もっとずっと深い場所。
「……大丈夫です」
気づけば、そう答えていた。
「お嬢様は独りではありません」
「俺がいます」
彼女は答えない。
でも。
ほんの少しだけ。
身体から力が抜けていく。
その姿を見て。
俺は初めて思う。
(このまま、ずっと…未完成のままでいい)
彼女が元に戻らなくてもいい。
正しくなくてもいい。
壊れていてもいい。
何度でも。
何度でも。
この人が、ここにいてくれるなら。
そう思ってしまった瞬間、俺はようやく理解する。
(あぁ……もう)
(……もう、とっくに手遅れなんだ)
その時だった。
静かな部屋に響く電子音。
反射的にボタンを押す。
そこから聞こえるのは、冷たい声。
かつて俺に執事としての在り方と、礼儀作法を教えてくれた人物の声。
「律様、報告がございます」
「先生……報告とは、なんでしょうか」
「旦那様からご連絡がございました」
「……旦那様?」
「はい」
一拍。
「来週、そちらにお戻りになられるそうです」
その瞬間。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
理由は分からない。
なのに。
なぜか。
ひどく嫌な予感がした。
「……そうですか、伝達ありがとうございます、先生」
「では、失礼します」
それだけ返して、先生は電話を切った。
部屋に静寂が戻る。
「……りつ」
小さな声。
振り返る。
彼女はまだこちらを見ていない。
それでも。
俺の名前だけを呼ぶ。
「……はい」
答える。
優しく。
静かに。
そして。
窓の外では。
春の終わりを告げる風が、静かに吹き始めていた。
──十五話:箱庭の創造主
