陥落令嬢は執着執事に堕ちていく。Re:Choice

十三話:心は触れない。

朝の屋敷は、昨日と変わらなかった。
静かで、整っていて、
何も壊れていないように見える空気。
俺はその“いつも通り”を確認するように歩いていた。

(問題はない)

そう思えるはずだった。
なのに。
何かが引っかかる。
それは記憶ではない。
感情でもない。
“違和感だけが残っている状態”

(昨日、‘’何か”が変わった)

でも何が変わったのかは、言葉にならない。
廊下を進む。
足音は一定。
呼吸も一定。
それなのに、視界の端だけが落ち着かない。

(俺は何を見落としてる)

答えは出ないまま、今日も彼女の部屋の前に立つ。

扉は開いている。
それはいつも通り。
中にいる彼女も、いつも通り。

(……いや。違う。)

“いつも通りに見えるだけ”だ。

彼女はそこにいる。
でも、昨日より少しだけ“静か”だった。
言葉ではなく、存在の密度が薄い。

(……今日も戻ってない…というより)

(あの状態から安定してしまっている)

その表現が一番近い気がした。

「お嬢様」

声をかける。
彼女は少しだけ顔を動かす。
でも視線は合わない。
それでいい、という感覚が一瞬よぎる。

(俺は、何に慣れてる)

彼女はゆっくりと口を開く。

「……だれ?」

昨日と同じ言葉。
でも違う。
その声には、昨日より“探す意志”があった。

(見えてないんじゃない…探してる)

その事実が、少しだけ胸に落ちる。

「俺は」

言いかけて止まる。
昨日のような言葉は出ない。
“ここにいます”でもない。
別の何かを探す。
でも見つからない。
結局、出たのは一番単純な言葉だった。

「律です」

一瞬、空気が止まる。
彼女の視線が、わずかにこちらに寄る。
ほんの数秒。
それだけなのに。
なぜか呼吸が変わる。

「……りつ?」

(今のは……認識された?)

確信ではない。
でも、確実に“反応”だった。
彼女は小さく瞬きをして、また視線を逸らす。
それで終わり。
でも俺は気づく。

(今、俺の名前に反応した)

それは昨日までになかったもの。
抱きしめた記憶でもない。
感情の爆発でもない。
もっと小さい。
でも確かな変化。

「……お嬢様」

もう一度呼ぶ。
今度は返事はない。
でも、さっきより“距離が近い”気がした。

(戻ってない)

(でも、消えてもいない)

その状態が、なぜか一番危うい。
俺は気づかないまま、理解してしまう。

これはまだ“途中”だと。

救いでも、崩壊でもない。
ただ“変わり始めているだけの状態”
彼女はまだそこにいる。
でももう、昨日と同じ形ではない。
そして俺は初めて思う。

(これ以上進んだら、どうなる)

答えは出ない。
ただ、止める気もなかった。
彼女はまだ壊れている。
でも。

“俺だけを認識しようとしている”

その事実が、静かに怖い。
そして同時に。
どうしようもなく、嬉しいと思ってしまった。

(……これは)

言葉にならないまま、喉の奥で止まる。
“好き”という単語にすらならない。
ただ一つ。

「……貴女から離れたく、ない」

それだけが、静かに落ちる。
彼女はまだ、こちらを見ない。
それでも。
もう、関係は変わってしまっている。

第一章【完】

壊れてしまった少女。

そして、
その少女を離せなくなってしまった執事。

触れているのに、
心だけは届かない。

それでも。

未完成な二人は、
何度でも間違えて、
何度でも選び直していく。

優しさは、愛になるのか。

それとも──もう、手遅れなのか。




第二章【隠せない距離】

─‬─‬─‬ 十四話:“未完成”だって何度でも。