陥落令嬢は執着執事に堕ちていく。Re:Choice

私は布団の中で目を閉じる。

(今日も、何もなかった)

そう思おうとした瞬間、意識が沈む。
眠るという感覚ではない。
─‬─‬ 意識が、‘’落とされる”

遠くから声が聞こえる。
もう長いこと聞いていない、懐かしい声。

(もう父と呼ぶな……)

(お前は“不要品”だ)

「………やめ、て…お父様…」

苦しみが自然と口から溢れる。
それは、空気に溶ける。

(お前とはもう…)

「……そんなこと、いわないで…」

(鈴…そんな目で私を見ないで)

(私は母ではないの)

起き上がって息をしようとしても、息が止まる。
息を吸おうとしても、身体が拒否する。
その中で、記憶の断片が頭の中に流れてくる。
でも確かに、その言葉の先に“私”がいた。

(お姉様は間違えたのよ)

「……違う、違うの」

声は出るのに、届かない。

(私は母になったんじゃない)

(あの人にさせられたのよ)

理解する前に感情だけが刺さる。

(お姉様はわがままなの)

「………ごめんなさい、もう…やめて」

「…いい子に……なるから…」

(言うことを聞かないから、お姉様はそうなのよ)

(そんな下手な絵見せないでちょうだい)

(本日付けで使用人を辞めることを、お許し下さい)

(貴女の世話係は、私には荷が重すぎたんです)

(あなたのその絵も、あなたにも興味なんてないわ)

「………ごめ、なさ」

(家族でもなんでもない)

(お前は)

(“不要品”だ)


その瞬間、何かが‘’落ちる”。
意識ではない。
もっと浅い場所の、存在の輪郭。

(また………捨てられる)

─‬ Side:律 ─‬

帰ってきた彼女を見て俺は、昔のことを思い出した。

優しかった母。
温かかった家。
鈍く重たい金属の音。
母の身体から力が無くなるあの温度。
宙を舞う赤い花。

一瞬、彼女も母と同じように居なくなってしまうのではないか。

(嫌だ……もう、あんな事は)

ふと我に返る。
こんなこと考えては駄目だ。
俺はただの執事だ。
私情を持ち込むべきじゃない。
間違っている。

気を紛らわせるように、俺はいつも通り屋敷の巡回をしていた。
理由はない。
習慣というより、確認作業に近かった。
屋敷の安全確認。
この屋敷に“異常がないこと”を維持し続ける。
それが、俺に与えられた役割。

廊下の空気が、少しだけ重い。
音がないのではない。
‘’音が生まれる前の静けさ”だった。

(……嫌な静けさだ)

彼女の部屋の前で足が止まる。
鍵はかかっていない。
それだけで違和感がある。

彼女はそこにいた。
だが“彼女”という認識が一瞬遅れる

目が合わない。焦点がない。
こちらを見ていない。

「お嬢様、眠れないのですか?」

返事はない。

「……お嬢様?」

声は届かない。
いや、届いていないのではない。
受け取る側が存在していない。
彼女の口が微かに動く。

「やめ、て……捨てないで…」

その瞬間、理解する。
これは夢の続きじゃない。

─‬─‬侵食だ。

彼女の息は荒く乱れ、体は小刻みに震えている。

俺は彼女の傍に駆け寄り、反射的に抱きしめた。
優しく、強く、繋ぎ止めるように。
その行動に迷いはなかった。
理由は思考じゃない。
間に合うかどうか、それだけだった。
このままでは、彼女はどこにも戻らない。

「大丈夫です……俺は、ここにいます」

「もう、貴女を独りにしません」

口から出た言葉は考えたものではない。
本能だった。
彼女の身体がわずかに傾く。
もう一度、彼女を抱きしめる。今度はもっと強く、離れないように。
その言葉を言った後に俺は気づく、彼女の指が少しだけ動いた事に。
だがそれは本人の意思ではない。
残っている反応の一部。

(まだ……戻っていない)

「ずっと……離れません」

その言葉を言った瞬間、気づく。
これは誓いじゃない。

こちら側に繋ぎ止めるための材料だ。

抱きしめながら、初めて怖くなる。
このれは救いじゃない。
回復でもない。

ただの“時間の停止”。

何も進んでいない。
ただ、ここにあるだけ。

(俺は……間に合ったのか?)

答えは出ない。
出せないまま、夜だけが続く。
彼女はまだ意識が戻らないまま、俺の腕の中にいる。
でもそこに“本人”がいるかどうかは、もう分からない。

─‬─‬─‬ 十三話:心は触れない。