陥落令嬢は執着執事に堕ちていく。Re:Choice

屋敷の夜は、いつもより静かで私は自室ではなく、応接室に通されていた。
珍しいことだった。
扉の前に律が立つ。
いつもの執事服。
いつもの姿勢。
それなのに、空気だけが違う。

(……変)

理由は分からないのに、そう感じる。

「お嬢様」

声は丁寧。
なのに、どこか重い。

「こちらへ」

拒否できない言い方だった。
私は小さく息を吐いて、部屋に入る。
応接室の灯りは柔らかいのに、どこか冷たい。
律が扉を閉める。
鍵はかけない。
けれど、“逃げられるかどうか”は別問題だった。

その事実だけが、妙に意識に残る。
私はソファに座る。
律は正面に立ったまま、動かない。

「……お嬢様」

私は顔を上げる。
その瞬間。
律の目が、いつもよりまっすぐこちらを見ていることに気づく。
逃げていない視線。
それが、なぜか息苦しい。

「今日のこと、どう説明なさいますか」

静かな声。
これは問いじゃない。
確認だ。
それが一番わかりやすくて、一番逃げにくい。
私は一瞬黙る。

「別に、いつも通り」

その瞬間。
律の指が、ほんのわずかに動いた。

「いつも通り、とは」

声が少しだけ低くなる。

「………」

沈黙が、さっきより長い。

その間に、空気が少しずつ重くなる。

「机を荒らされることですか?
物を壊されることですか?
それとも」

律は言葉を切る。
喉の奥で何かを飲み込むようにして、続ける。

「それとも、制服にお嬢様を傷つけるような言葉が書いてあったことですか?」

その瞬間。
息が止まる。

「律………あれ、見たの?」

律はすぐに答えない。
ほんの少しだけ拳が固くなる。
それが見えたのが、少し怖い。

「見ていました……全て読めたわけではありませんが」

視線が一瞬だけ揺れる。

「ですが、足りない分は……容易く想像できます」

その“想像”という言葉だけが、妙に冷たい。

(この人、怒ってるの?)

でも違う。
怒りじゃない。
もっと深いところで、別のものが動いている。

「想像?」

律は否定しない。
代わりに、一歩近づく。
その一歩が、やけに重く感じた。

「お嬢様」

声が少しだけ低い。

「これは“確認”です」

心臓の音が、やけにうるさい。
律は淡々と続ける。

「我慢していた期間」

「頻度」

「相手」

「全部」

でも、その声は少しずつ変わっていく。
抑えているのに、滲んでいる。
理性の下に、感情が見える。

「……答えなくても構いません」

一拍。

「ですが、次はありません」

私は顔を上げる。

「……どういう意味」

律は一瞬だけ止まる。
そして静かに言う。

「次お嬢様に同じことが起きたら、私が対応します」

「執事として?」

律は沈黙する。
その沈黙が、今までで一番重かった。
そして。

「………違います」

その瞬間、空気が変わる。
息を飲む音が、自分でも分かる。
喉がきゅっと締まる。

(今の、なに)

律はすぐに目を伏せる。

「……失礼しました」

距離を戻そうとする動き。
でも、その前に止まる。
私の肩の震えに気づいたからだ。

「お嬢様」

声が変わる。
さっきまでの“確認”が消える。
残ったのは、“判断”でも“命令”でもない。

ただの選択。

律はソファの横に膝をつく。
視線の高さが、揃う。

「寒いですか」

私はすぐに答えない。
彼はジャケットを脱ぐ。
一瞬だけ迷う。
でも、迷いを捨てる。
そのまま私の肩にかける。
その時、少しだけ温度が変わる。

「大丈夫です。ここでは、無理しなくていい」

その声は辛そうで、悲しそうで、寂しそうで、優しかった。
でも、どこか違う。
“命令”じゃない。
“許可”でもない。

「守る」じゃなくて。

「ここにいていい」と言っている声。

私は小さく息を吐く。

「……変なの」

律は少しだけ目を細める。

「何がですか」

私はジャケットを握る。
その布の温度が、少しだけ現実的だった。

「さっきは怖かったのに、今は安心する」

律はすぐに答えない。
一度だけ視線を落として。
そして、静かに逸らす。

「それでいいです」

小さく。
それは執事の返事じゃなかった。
命令でもなかった。
ただ。

“そうなってしまった”という、本音だった。

律が私を部屋に送り届けてから、彼は言う。

「おやすみなさいませ、お嬢様」

「どうか、良い夢を」

私を心配してくれる彼を見て、何故か。
酷く嬉しかった。
もっと、心配して欲しいとさえ思ってしまった。

「うん…おやすみ、律」

「ありがとう」

その時の私はまだ知らない。
彼が左胸の赤い染みを見て、心の内で何を思ったのか。

─‬─‬─‬─ 十二話:CANDY or WHIP