朝、窓の外では風が鳴っていた。
まだ春だというのに、空は重い。
木々が揺れる音。
曇った空。
どこか落ち着かない空気。
私は制服に袖を通しながら、小さく目を閉じる。
最近、少しだけ怖い。
学校に行くことが。
教室が。
他人の視線が。
そして。
(……帰りたい)
そう思ってしまう自分が。
昔はそんなことなかった。
あの屋敷に帰りたくなんてなかった。
廃れた屋敷は広くて、静かで。
誰もいなくて。
ただの箱だった。
それなのに。
(帰ったら、律がいる)
そう思うだけで、少し安心してしまう。
その安心が。
嬉しくて。
少しだけ、怖かった。
「お嬢様」
優しい声。
「朝食の準備ができております」
「うん」
食卓に降りると、いつもの光景。
いつもの紅茶。
いつもの朝。
そして、いつもの律。
「おはようございます、お嬢様」
「……おはよう」
その瞬間。
彼はほんの少しだけ安心したように目を細めた。
最近、気づいてしまう。
私が返事をすると彼は安心すること。
私が笑うと安心すること。
私がここにいるだけで、彼が少しだけ嬉しそうになること。
(……変なの)
執事なのに。
そんな顔をするなんて。
でも、嫌じゃない。
むしろ。
少しだけ嬉しい。
学校は今日もいつも通り。
いつもの教室。
いつもの声。
いつもの乾いた笑い声。
そのはずだった。
「ねえ」
「元お嬢様」
呼ばれて私は振り向く。
「なに?」
その瞬間、身体が冷える。
何かが落ちる音。
制服。
スカート。
袖。
赤い液体。
「あ……」
教室が静かになる。
誰かが息を呑む。
「ご、ごめん!」
「手が滑っちゃって!」
笑っている。
謝っている。
でも、その目だけは笑っていた。
周囲も困った顔をしている。
誰も怒らない。
誰も止めない。
誰も悪くない。
だから。
一番、苦しい。
「……大丈夫」
私は笑う。
「本当に?」
「うん…平気だから」
また、笑ってしまった。
御手洗の水で制服を洗う。
赤い染み。
なかなか落ちない。
ぽたぽたと水が流れる。
その赤色を見ているうちに。
なぜか涙が落ちた。
「……あれ」
一滴。
また一滴。
止まらない。
「なんで……」
分からない。
これくらい。
大したことない。
今までだって。
もっと酷いことはあった。
だから。
平気なはずなのに。
「……なんで」
胸が苦しい。
息が苦しい。
頭が痛い。
その時、ふと浮かんだ言葉。
「……律」
自分で驚く。
どうして真っ先に彼の名前が出てくるのか
分からなかった。けど、
「……会いたい」
ぽつりと零れた声。
その瞬間、私は自分で息を止めた。
(違う)
(違う)
(そんなの駄目)
(迷惑かけちゃいけない)
(甘えちゃ駄目)
(私は大丈夫だから)
そう。
大丈夫。
だから。
笑わないと。
笑わないと。
笑わないと。
笑わないと。
笑わなくちゃ ──
─ Side:律 ─
今日は風が強い。
嫌な風だ。
理由はない。
ただ落ち着かない。
書類を見る。
時計を見る。
窓を見る。
また時計を見る。
何も問題はない。
それなのに、胸の奥だけが騒がしい。
(……何だ)
何かを忘れているような。
何かが起きているような。
そんな感覚。
「……お嬢様」
小さく名前を呼ぶ。
もちろん返事はない。
それでも。
胸の奥がざわつく。
まるで、春の嵐が来る前みたいに。
空気だけが。
静かに。
確実に。
変わり始めていた。
日が沈みかけた時間、屋敷の門が開く。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
いつもの言葉。
けれど。
その瞬間。
律の表情が止まった。
「……お嬢様?」
私は笑う。
いつものように。
「ただいま」
でも、彼は動かない。
その目は私の制服の汚れを見ていた。
赤く残った。
消えきらなかった左胸付近の小さな染みを。
そして初めて。
彼の瞳から。
温度が消えた。
── 十一話:解は愛、もう手遅れ
まだ春だというのに、空は重い。
木々が揺れる音。
曇った空。
どこか落ち着かない空気。
私は制服に袖を通しながら、小さく目を閉じる。
最近、少しだけ怖い。
学校に行くことが。
教室が。
他人の視線が。
そして。
(……帰りたい)
そう思ってしまう自分が。
昔はそんなことなかった。
あの屋敷に帰りたくなんてなかった。
廃れた屋敷は広くて、静かで。
誰もいなくて。
ただの箱だった。
それなのに。
(帰ったら、律がいる)
そう思うだけで、少し安心してしまう。
その安心が。
嬉しくて。
少しだけ、怖かった。
「お嬢様」
優しい声。
「朝食の準備ができております」
「うん」
食卓に降りると、いつもの光景。
いつもの紅茶。
いつもの朝。
そして、いつもの律。
「おはようございます、お嬢様」
「……おはよう」
その瞬間。
彼はほんの少しだけ安心したように目を細めた。
最近、気づいてしまう。
私が返事をすると彼は安心すること。
私が笑うと安心すること。
私がここにいるだけで、彼が少しだけ嬉しそうになること。
(……変なの)
執事なのに。
そんな顔をするなんて。
でも、嫌じゃない。
むしろ。
少しだけ嬉しい。
学校は今日もいつも通り。
いつもの教室。
いつもの声。
いつもの乾いた笑い声。
そのはずだった。
「ねえ」
「元お嬢様」
呼ばれて私は振り向く。
「なに?」
その瞬間、身体が冷える。
何かが落ちる音。
制服。
スカート。
袖。
赤い液体。
「あ……」
教室が静かになる。
誰かが息を呑む。
「ご、ごめん!」
「手が滑っちゃって!」
笑っている。
謝っている。
でも、その目だけは笑っていた。
周囲も困った顔をしている。
誰も怒らない。
誰も止めない。
誰も悪くない。
だから。
一番、苦しい。
「……大丈夫」
私は笑う。
「本当に?」
「うん…平気だから」
また、笑ってしまった。
御手洗の水で制服を洗う。
赤い染み。
なかなか落ちない。
ぽたぽたと水が流れる。
その赤色を見ているうちに。
なぜか涙が落ちた。
「……あれ」
一滴。
また一滴。
止まらない。
「なんで……」
分からない。
これくらい。
大したことない。
今までだって。
もっと酷いことはあった。
だから。
平気なはずなのに。
「……なんで」
胸が苦しい。
息が苦しい。
頭が痛い。
その時、ふと浮かんだ言葉。
「……律」
自分で驚く。
どうして真っ先に彼の名前が出てくるのか
分からなかった。けど、
「……会いたい」
ぽつりと零れた声。
その瞬間、私は自分で息を止めた。
(違う)
(違う)
(そんなの駄目)
(迷惑かけちゃいけない)
(甘えちゃ駄目)
(私は大丈夫だから)
そう。
大丈夫。
だから。
笑わないと。
笑わないと。
笑わないと。
笑わないと。
笑わなくちゃ ──
─ Side:律 ─
今日は風が強い。
嫌な風だ。
理由はない。
ただ落ち着かない。
書類を見る。
時計を見る。
窓を見る。
また時計を見る。
何も問題はない。
それなのに、胸の奥だけが騒がしい。
(……何だ)
何かを忘れているような。
何かが起きているような。
そんな感覚。
「……お嬢様」
小さく名前を呼ぶ。
もちろん返事はない。
それでも。
胸の奥がざわつく。
まるで、春の嵐が来る前みたいに。
空気だけが。
静かに。
確実に。
変わり始めていた。
日が沈みかけた時間、屋敷の門が開く。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
いつもの言葉。
けれど。
その瞬間。
律の表情が止まった。
「……お嬢様?」
私は笑う。
いつものように。
「ただいま」
でも、彼は動かない。
その目は私の制服の汚れを見ていた。
赤く残った。
消えきらなかった左胸付近の小さな染みを。
そして初めて。
彼の瞳から。
温度が消えた。
── 十一話:解は愛、もう手遅れ
