朝の光が、薄いカーテンを透かして部屋に落ちていた。
目が覚める。
けれど。
(……眠った気がしない)
最近はそんな朝ばかりだった。
嫌な夢を見たわけじゃない。
何かがあったわけでもない。
ただ。
胸の奥だけが、ずっと落ち着かない。
布団の中で小さく丸くなる。
その時、ふわりと甘い匂いがした。
「……?」
昨日、律が持ってきてくれた紅茶だった。
飲みきれなかったカップが机の上に置かれている。
それだけ、それだけなのに。
「……変なの」
思わず笑ってしまう。
紅茶の甘い香り。
それだけで彼を思い出す。
そして、少しだけ安心している自分がいた。
学校に着く。
今日も同じ、いつも通り。
笑い声。
ざわめき。
何も変わらない。
……はずだった。
「ねえ、元お嬢様」
「その制服、汚れてるよ?」
心臓が止まる。
視線を落とす。
昨日まではなかった小さな染み。
いつ付いたのかも分からない。
「……あ」
笑い声。
誰のものか分からない。
悪意なのか。
偶然なのか。
もう分からない。
「あの……大丈夫?」
「ふふっ」
その優しさが。
なぜか一番怖かった。
「……うん」
私は笑う。
また、笑ってしまう。
(大丈夫)
(大丈夫だから)
(こんなの、大したことない)
そう思わないと壊れてしまいそうだった。
放課後になると私は誰より早く教室を出た。
走るように。
逃げるように。
そして、屋敷の門が見えた瞬間。
ほっと息が漏れる。
「……帰ってきた」
その言葉に、自分で驚いた。
帰ってきた。
そう思える場所なんて。
今までなかったのに。
呼吸を整えて、玄関を開ける。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
聞き慣れた声。
もう、見慣れた姿。
「……ただいま」
ほんの少し。
律の目元が柔らかくなる。
「本日も、お疲れ様でございました」
その声に。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
(ああ)
(私……この人の声で安心してる)
その事実に。
少しだけ、怖くなった。
─ Side:律 ─
最近、お嬢様の表情がよく変わる。
よく笑う。
よく困る。
よく寂しそうにする。
よく安心した顔をする。
そして、時々。
何かを隠す顔をする。
その度に、胸の奥がざわつく。
理由は分からない。
分かりたくない。
執事に求められるのは何時だって“冷静さ”だ。
感情ではない。
それなのに。
「律」
名前を呼ばれる。
それだけで、心臓が小さく跳ねる。
「はい」
「……なんでもない」
彼女は小さく笑う。
「呼んでみただけ」
それだけ。
本当に、それだけ。
なのに、どうしてだろう。
胸の奥が、満たされてしまう。
(……駄目だ)
(こんなことで嬉しいなんて)
(本当に……俺は最低だ)
自嘲するように目を伏せる。
その時、ふわりと甘い香りがした。
さっき淹れた紅茶の匂い。
お嬢様の一番好きな紅茶の香り。
そしていつの間にか。
それは俺にとって、安心する香りになっていた。
(……いけない)
(そんなものに、慣れてはいけない)
(執着してはいけない)
そう思うのに。
心の奥では、もう少しだけ。
この時間が続けばいいと願っている。
─ Side:鈴 ─
夜、自室のベッドの上で私は目を閉じる。
嫌なことがある。
怖いこともある。
苦しいこともある。
でも。
「お嬢様」
「……なに?」
「おやすみなさいませ」
扉越しの声。
「……うん」
「おやすみ、律」
静かな沈黙、そして。
「はい」
優しい声、それだけで。
また安心してしまう。
(……駄目なのに)
(こんなの)
(きっと)
(甘すぎる)
胸の奥に残る。
小さな幸福。
小さな罪悪感。
まだ名前のない感情。
ただ、その香りだけが。
静かに二人の間に残り続けていた。
窓の外で、荒々しい風が吹く。
やがて、春の嵐が、やってくる。
─── 十話:春嵐
目が覚める。
けれど。
(……眠った気がしない)
最近はそんな朝ばかりだった。
嫌な夢を見たわけじゃない。
何かがあったわけでもない。
ただ。
胸の奥だけが、ずっと落ち着かない。
布団の中で小さく丸くなる。
その時、ふわりと甘い匂いがした。
「……?」
昨日、律が持ってきてくれた紅茶だった。
飲みきれなかったカップが机の上に置かれている。
それだけ、それだけなのに。
「……変なの」
思わず笑ってしまう。
紅茶の甘い香り。
それだけで彼を思い出す。
そして、少しだけ安心している自分がいた。
学校に着く。
今日も同じ、いつも通り。
笑い声。
ざわめき。
何も変わらない。
……はずだった。
「ねえ、元お嬢様」
「その制服、汚れてるよ?」
心臓が止まる。
視線を落とす。
昨日まではなかった小さな染み。
いつ付いたのかも分からない。
「……あ」
笑い声。
誰のものか分からない。
悪意なのか。
偶然なのか。
もう分からない。
「あの……大丈夫?」
「ふふっ」
その優しさが。
なぜか一番怖かった。
「……うん」
私は笑う。
また、笑ってしまう。
(大丈夫)
(大丈夫だから)
(こんなの、大したことない)
そう思わないと壊れてしまいそうだった。
放課後になると私は誰より早く教室を出た。
走るように。
逃げるように。
そして、屋敷の門が見えた瞬間。
ほっと息が漏れる。
「……帰ってきた」
その言葉に、自分で驚いた。
帰ってきた。
そう思える場所なんて。
今までなかったのに。
呼吸を整えて、玄関を開ける。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
聞き慣れた声。
もう、見慣れた姿。
「……ただいま」
ほんの少し。
律の目元が柔らかくなる。
「本日も、お疲れ様でございました」
その声に。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
(ああ)
(私……この人の声で安心してる)
その事実に。
少しだけ、怖くなった。
─ Side:律 ─
最近、お嬢様の表情がよく変わる。
よく笑う。
よく困る。
よく寂しそうにする。
よく安心した顔をする。
そして、時々。
何かを隠す顔をする。
その度に、胸の奥がざわつく。
理由は分からない。
分かりたくない。
執事に求められるのは何時だって“冷静さ”だ。
感情ではない。
それなのに。
「律」
名前を呼ばれる。
それだけで、心臓が小さく跳ねる。
「はい」
「……なんでもない」
彼女は小さく笑う。
「呼んでみただけ」
それだけ。
本当に、それだけ。
なのに、どうしてだろう。
胸の奥が、満たされてしまう。
(……駄目だ)
(こんなことで嬉しいなんて)
(本当に……俺は最低だ)
自嘲するように目を伏せる。
その時、ふわりと甘い香りがした。
さっき淹れた紅茶の匂い。
お嬢様の一番好きな紅茶の香り。
そしていつの間にか。
それは俺にとって、安心する香りになっていた。
(……いけない)
(そんなものに、慣れてはいけない)
(執着してはいけない)
そう思うのに。
心の奥では、もう少しだけ。
この時間が続けばいいと願っている。
─ Side:鈴 ─
夜、自室のベッドの上で私は目を閉じる。
嫌なことがある。
怖いこともある。
苦しいこともある。
でも。
「お嬢様」
「……なに?」
「おやすみなさいませ」
扉越しの声。
「……うん」
「おやすみ、律」
静かな沈黙、そして。
「はい」
優しい声、それだけで。
また安心してしまう。
(……駄目なのに)
(こんなの)
(きっと)
(甘すぎる)
胸の奥に残る。
小さな幸福。
小さな罪悪感。
まだ名前のない感情。
ただ、その香りだけが。
静かに二人の間に残り続けていた。
窓の外で、荒々しい風が吹く。
やがて、春の嵐が、やってくる。
─── 十話:春嵐
