夜の匂いが嫌いだった。
雨に濡れたアスファルト。
遠くを走る車の音。
静かな住宅街に滲む街灯の光。
夜になると、世界から色が消えていく。
そして俺はいつも思い出す。
――あの夜を。
「██、もう行くの?」
母の声は優しかった。
それだけでよかった。
それだけで、この先も生きていけると思っていた。
「……うん」
「気をつけてね」
柔らかく笑う声。
その夜も、何も変わらないはずだった。
あんなことが起こるまでは。
「どきなさい!! ██!!」
耳を裂くような金属の鈍い音。
何かが倒れる音。
空に舞う赤い花。
崩れていく視界。
「……母さん?」
冷たくなっていく手。
苦しそうな呼吸。
それでも母は、その時まで俺を見ていた。
「██……ちゃんと、生きて」
それが最期だった。
最期まで、優しい人だった。
気づけば、夜だけが残っていた。
誰もいない食卓。
止まった時計。
冷えた部屋。
俺の名前を呼ぶ人は、もういない。
どれくらい時間が経ったのかも分からない。
ただ、暗い部屋の中で座っていた。
(このまま朝が来なければいい…)
そう思っていたその時。
静かなノックの音が響いた。
もう誰も来ないはずの家。
ゆっくりと開いた扉の向こうに、一人の男が立っていた。
この街に場違いな黒いコート。
夜の中によく馴染む人だった。
男は部屋を見渡し、わずかに目を細める。
「……遅かったか」
その視線が、俺に向く。
「名前は」
「……██」
喉から出たのは掠れた声だった。
男は少しだけ沈黙して、
「そうか」
慰めも、同情もない。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
「生きているなら来い」
静かな声。
「ここで朽ちるか、新しく生きるか」
「選ぶのはお前だ」
選択肢なんてないと思った。
それでも。
「……行く」
そう答えていた。
振り返るとそこにはもう誰もいない家。
もう戻れない場所。
そしてその瞬間。
██としての人生は終わった。
男は新しい名前を与えた。
「今からお前は、律だ」
己を律する者。
規律に従う者。
その名を与えられた日から、俺は俺ではなくなった。
そうして長い時間が過ぎた。
夜の匂いは今も嫌いだ。
けれどあの頃のように、一人ではない。
「……律」
ふと誰かの声が聞こえた気がした。
まだ知らない声。
顔も知らない。
会ったこともない。
それでも不思議なくらい、その響きは温かかった。
俺はまだ知らない。
その声の主が少しずつ、俺の正しさを壊していくことを。
そして。
執事として与えられたこの名前が。
やがて、一人の少女を守るためだけの名前になっていくことを。
─── 一話:雨の残る朝
雨に濡れたアスファルト。
遠くを走る車の音。
静かな住宅街に滲む街灯の光。
夜になると、世界から色が消えていく。
そして俺はいつも思い出す。
――あの夜を。
「██、もう行くの?」
母の声は優しかった。
それだけでよかった。
それだけで、この先も生きていけると思っていた。
「……うん」
「気をつけてね」
柔らかく笑う声。
その夜も、何も変わらないはずだった。
あんなことが起こるまでは。
「どきなさい!! ██!!」
耳を裂くような金属の鈍い音。
何かが倒れる音。
空に舞う赤い花。
崩れていく視界。
「……母さん?」
冷たくなっていく手。
苦しそうな呼吸。
それでも母は、その時まで俺を見ていた。
「██……ちゃんと、生きて」
それが最期だった。
最期まで、優しい人だった。
気づけば、夜だけが残っていた。
誰もいない食卓。
止まった時計。
冷えた部屋。
俺の名前を呼ぶ人は、もういない。
どれくらい時間が経ったのかも分からない。
ただ、暗い部屋の中で座っていた。
(このまま朝が来なければいい…)
そう思っていたその時。
静かなノックの音が響いた。
もう誰も来ないはずの家。
ゆっくりと開いた扉の向こうに、一人の男が立っていた。
この街に場違いな黒いコート。
夜の中によく馴染む人だった。
男は部屋を見渡し、わずかに目を細める。
「……遅かったか」
その視線が、俺に向く。
「名前は」
「……██」
喉から出たのは掠れた声だった。
男は少しだけ沈黙して、
「そうか」
慰めも、同情もない。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
「生きているなら来い」
静かな声。
「ここで朽ちるか、新しく生きるか」
「選ぶのはお前だ」
選択肢なんてないと思った。
それでも。
「……行く」
そう答えていた。
振り返るとそこにはもう誰もいない家。
もう戻れない場所。
そしてその瞬間。
██としての人生は終わった。
男は新しい名前を与えた。
「今からお前は、律だ」
己を律する者。
規律に従う者。
その名を与えられた日から、俺は俺ではなくなった。
そうして長い時間が過ぎた。
夜の匂いは今も嫌いだ。
けれどあの頃のように、一人ではない。
「……律」
ふと誰かの声が聞こえた気がした。
まだ知らない声。
顔も知らない。
会ったこともない。
それでも不思議なくらい、その響きは温かかった。
俺はまだ知らない。
その声の主が少しずつ、俺の正しさを壊していくことを。
そして。
執事として与えられたこの名前が。
やがて、一人の少女を守るためだけの名前になっていくことを。
─── 一話:雨の残る朝
