スマホを握り締めた瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走る。
目の前がぐらりと揺れ――瞬きをすると、宙は広々としたリビングのソファに座っていた。ローテーブルの上には湯気の立ったコーヒーと、チョコ菓子が置かれている。旅先で買った物だろうか、棚の上にはご当地キャラクターらしき小さなフィギュアが整然と並んでいる。
明るく整頓されたリビング。そこが、滝山の実家だと気づくのに、少し時間がかかってしまった。昨日訪れたときには閉められていたカーテンが開き、掃き出し窓から、色とりどりのチューリップの咲いた庭が見えた。
宙はコーヒーを飲みながら、スマホを操作し、発信ボタンを押す。
「もしもし、俊樹?」
口から溢れたのは、滝山の母の声だった。
『ん……おはよう、母さん』
「あら、もう昼過ぎよ? こんな時間まで寝てたの?」
『いいだろー、休みの日くらい。平日のぶん、寝溜めしとかないと』
あくび混じりに返ってきた声に、宙――滝山の母は眉を寄せる。
「大丈夫? 仕事忙しいの?」
『まあね。でも新しいプロジェクト任せてもらえることになったから、頑張るよ』
答える声は明るく、どこか誇らしげにも聞こえた。滝山の母はくすりと笑い、ソファから立ち上がった。
「東京はもう桜が満開なんだってね。こっちはまだ山の方に雪も残ってるのに」
『そっちは寒いからね。風邪ひかないように気をつけて』
「はいはい。そういえば、ゴールデンウィークは休めそうなの?」
『そうだね。年末忙しくて休めなかったから、ゴールデンウィークはちゃんと休み取るよ』
「よかった。ねぇ、せっかくだしどこか旅行に行かない? お母さん、あったかいところに行きたいなぁ」
弾んだ声で話しながら、キッチンカウンターに置かれた写真立てを手に取る。大学の卒業式だろうか。門の前に笑顔で立つスーツ姿の滝山と滝山の母の姿があった。
『沖縄とか、九州とか? って、ゴールデンウィークはどこも大体あったかそうだけど』
「いいじゃない。休み取れそうだったら教えてね」
『分かったよ。じゃあ、またね』
滝山が言って、通話が切れる。滝山の母はしばらく、思い出に浸るように微笑んで写真を見つめていた。
『――もしもし、母さん?』
次に目を瞬かせると、二階にいた。勉強机とベッド、ほとんど物の入っていないカラーボックスが一つだけある狭い部屋。
窓の外には、夕日に赤く染まった田んぼが広がっている。田植えを終えたばかりの水面が、空の色を映してきらきらと揺れていた。
『ゴールデンウィーク、帰れなくてごめん』
手にしたスマートフォンから、滝山の声が聞こえる。どこか疲れたような声だった。滝山の母はベッドに腰掛け、替えたばかりのシーツを手のひらで撫でる。
「いいのよ。それより、大丈夫なの?」
『うん……ちょっと仕事でミスしちゃってさ。でも、大丈夫! ちゃんと挽回するから』
「……そう。あんまり無理しちゃ駄目よ」
『分かってるって』
いつも通りの返事だ。けれど、笑っている声の奥に、ほんの少しだけ硬いものが混じっているような気がした。
「ちゃんと寝れてる? ご飯は食べてるの?」
『大丈夫、大丈夫。心配しないで』
「ならいいけど……」
小さく息をつき、滝山の母は窓の外に目を向けた。
山の向こうに沈んでいく夕日が、部屋の中まで赤く染めている。
『また落ち着いたら連絡するから。……じゃあ、またね』
「うん。体には気をつけるのよ」
『はいはい』
少し笑ったような声を最後に、通話が切れる。
滝山の母はスマートフォンを耳から離し、しばらく画面を見つめていた。
気にしすぎだろうか。
仕事をしていれば、疲れる日もある。うまくいかないことだってある。
……きっと、次に話すときには、元気が戻っているはず。
そう思い直して、スマートフォンを机の上に置いた。
◇◇◇
目を開けると、宙は背の高い棚の並んだ無機質な部屋の中にいた。床についた膝が冷たい。エアコンの駆動音だけが、静かに響いている。
視線を落とし、握り締めたスマートフォンを見つめる。
今見たのは、恐らく滝山の母の記憶だ。久瀬の言う通り、スマホに残っていたのは滝山本人ではなく、滝山の母の感情だった。だから宙は、滝山ではなく、滝山の母の記憶を見た――そういうことなのだろう。
『じゃあ、俊樹は……私に何の言葉も、想いも、残していなかったってことですか?』
滝山の母の言葉が耳に蘇り、胸が締め付けられるように痛んだ。
記憶を見ることができたところで、宙には、滝山が何を思っていたのか知ることができない。
――思い上がっていたのかもしれない。
自分なら、何か見つけられると思っていた。滝山の母を少しでも救える言葉を、一つくらい拾い上げられると思っていた。
けれど、宙が見たのは、救いではなく、彼女の愛情と後悔だけだった。
スマホを強く握り、唇を噛んだ――そのとき。
「おーい、誰かいるのか?」
部屋の外から声が聞こえた。とっさに立ち上がろうとして、目の前がぐらりと揺れる。
「――っ」
棚に手を掛けてしゃがみ込む。立ちくらみを起こしたように、目の前が揺れている。返事をしようとするが、喉が固まって声が出ない。
「ったく、誰だ? 開けっぱなしにしたのは……」
声がした。その瞬間、パチッとスイッチを切る音がして、目の前が暗くなる。
目の前がぐらりと揺れ――瞬きをすると、宙は広々としたリビングのソファに座っていた。ローテーブルの上には湯気の立ったコーヒーと、チョコ菓子が置かれている。旅先で買った物だろうか、棚の上にはご当地キャラクターらしき小さなフィギュアが整然と並んでいる。
明るく整頓されたリビング。そこが、滝山の実家だと気づくのに、少し時間がかかってしまった。昨日訪れたときには閉められていたカーテンが開き、掃き出し窓から、色とりどりのチューリップの咲いた庭が見えた。
宙はコーヒーを飲みながら、スマホを操作し、発信ボタンを押す。
「もしもし、俊樹?」
口から溢れたのは、滝山の母の声だった。
『ん……おはよう、母さん』
「あら、もう昼過ぎよ? こんな時間まで寝てたの?」
『いいだろー、休みの日くらい。平日のぶん、寝溜めしとかないと』
あくび混じりに返ってきた声に、宙――滝山の母は眉を寄せる。
「大丈夫? 仕事忙しいの?」
『まあね。でも新しいプロジェクト任せてもらえることになったから、頑張るよ』
答える声は明るく、どこか誇らしげにも聞こえた。滝山の母はくすりと笑い、ソファから立ち上がった。
「東京はもう桜が満開なんだってね。こっちはまだ山の方に雪も残ってるのに」
『そっちは寒いからね。風邪ひかないように気をつけて』
「はいはい。そういえば、ゴールデンウィークは休めそうなの?」
『そうだね。年末忙しくて休めなかったから、ゴールデンウィークはちゃんと休み取るよ』
「よかった。ねぇ、せっかくだしどこか旅行に行かない? お母さん、あったかいところに行きたいなぁ」
弾んだ声で話しながら、キッチンカウンターに置かれた写真立てを手に取る。大学の卒業式だろうか。門の前に笑顔で立つスーツ姿の滝山と滝山の母の姿があった。
『沖縄とか、九州とか? って、ゴールデンウィークはどこも大体あったかそうだけど』
「いいじゃない。休み取れそうだったら教えてね」
『分かったよ。じゃあ、またね』
滝山が言って、通話が切れる。滝山の母はしばらく、思い出に浸るように微笑んで写真を見つめていた。
『――もしもし、母さん?』
次に目を瞬かせると、二階にいた。勉強机とベッド、ほとんど物の入っていないカラーボックスが一つだけある狭い部屋。
窓の外には、夕日に赤く染まった田んぼが広がっている。田植えを終えたばかりの水面が、空の色を映してきらきらと揺れていた。
『ゴールデンウィーク、帰れなくてごめん』
手にしたスマートフォンから、滝山の声が聞こえる。どこか疲れたような声だった。滝山の母はベッドに腰掛け、替えたばかりのシーツを手のひらで撫でる。
「いいのよ。それより、大丈夫なの?」
『うん……ちょっと仕事でミスしちゃってさ。でも、大丈夫! ちゃんと挽回するから』
「……そう。あんまり無理しちゃ駄目よ」
『分かってるって』
いつも通りの返事だ。けれど、笑っている声の奥に、ほんの少しだけ硬いものが混じっているような気がした。
「ちゃんと寝れてる? ご飯は食べてるの?」
『大丈夫、大丈夫。心配しないで』
「ならいいけど……」
小さく息をつき、滝山の母は窓の外に目を向けた。
山の向こうに沈んでいく夕日が、部屋の中まで赤く染めている。
『また落ち着いたら連絡するから。……じゃあ、またね』
「うん。体には気をつけるのよ」
『はいはい』
少し笑ったような声を最後に、通話が切れる。
滝山の母はスマートフォンを耳から離し、しばらく画面を見つめていた。
気にしすぎだろうか。
仕事をしていれば、疲れる日もある。うまくいかないことだってある。
……きっと、次に話すときには、元気が戻っているはず。
そう思い直して、スマートフォンを机の上に置いた。
◇◇◇
目を開けると、宙は背の高い棚の並んだ無機質な部屋の中にいた。床についた膝が冷たい。エアコンの駆動音だけが、静かに響いている。
視線を落とし、握り締めたスマートフォンを見つめる。
今見たのは、恐らく滝山の母の記憶だ。久瀬の言う通り、スマホに残っていたのは滝山本人ではなく、滝山の母の感情だった。だから宙は、滝山ではなく、滝山の母の記憶を見た――そういうことなのだろう。
『じゃあ、俊樹は……私に何の言葉も、想いも、残していなかったってことですか?』
滝山の母の言葉が耳に蘇り、胸が締め付けられるように痛んだ。
記憶を見ることができたところで、宙には、滝山が何を思っていたのか知ることができない。
――思い上がっていたのかもしれない。
自分なら、何か見つけられると思っていた。滝山の母を少しでも救える言葉を、一つくらい拾い上げられると思っていた。
けれど、宙が見たのは、救いではなく、彼女の愛情と後悔だけだった。
スマホを強く握り、唇を噛んだ――そのとき。
「おーい、誰かいるのか?」
部屋の外から声が聞こえた。とっさに立ち上がろうとして、目の前がぐらりと揺れる。
「――っ」
棚に手を掛けてしゃがみ込む。立ちくらみを起こしたように、目の前が揺れている。返事をしようとするが、喉が固まって声が出ない。
「ったく、誰だ? 開けっぱなしにしたのは……」
声がした。その瞬間、パチッとスイッチを切る音がして、目の前が暗くなる。

