保健所までは久瀬の車が先導し、原の車はその後に続いた。閉庁時間ギリギリになんとか受付を済ませると、職員の案内でコタロウのもとへ向かう。
「……あの子、きっと私のこと恨んでますよね」
長い廊下を歩きながら、原が呟くように言った。
「私が臆病だったせいで、たくさん怖い思いや辛い思いをさせて……。もう、私のこと家族だなんて、思ってくれないかも」
原の横顔には、深い後悔が滲んで見えた。宙は視線を落とし、タオルの上からそっと首輪を握る。
「……俺には、コタロウの気持ちは分かりません」
何度もコタロウの記憶を見たけれど、今コタロウが原のことをどう思っているのかはわからない。
「でも……ずっと、あなたを探してたと思います」
原が弾かれたようにこちらを向く。その目にじわりと涙が浮かんだ。
「着きましたよ」
原が何か言おうとしたところで、職員が足を止めた。ドアを開けて職員が中へ入ると、原はほとんど走るようにその後を追う。
並んだ檻の一番奥に、毛布の上に蹲って眠る一匹の柴犬がいた。
「コタロウ!」
原が声を上げて駆け寄る。コタロウは一拍遅れて、ゆっくりと目を開けた。
その目が原を映した瞬間、尻尾がぱたぱたと左右に揺れる。コタロウはおぼつかない足取りで立ち上がると、檻の隙間から鼻先を出した。
「コタロウ……ごめん。ごめんね……」
原は泣きながら床に膝をつき、コタロウの頬を撫でる。
「この子がお探しのコタロウくんで間違いないですね?」
「はい。間違いないです」
原が頷くと、職員が檻の鍵を開ける。扉が開くと、原は檻の中に入ってコタロウを抱きしめた。
コタロウの毛に顔を埋め、痩せた身体をそっと撫でる。
「絶対、もう逃げないから……何があっても、最後までそばにいるから」
泣きながらも、原の声は強く、覚悟に満ちていた。
コタロウは鼻を鳴らしながら、ゆっくりとその場で足踏みを繰り返している。川原でボール遊びをしていた頃と変わらない仕草に、宙は思わず笑みを溢した。
「いやぁ、無事に飼い主さんが見つかってよかったですね」
原とコタロウの様子を見守りながら、安堵したように職員が小声で言う。
「いろいろと、ご協力ありがとうございました」
「いえ、我々も一匹でも多くの命を助けたいと思っていますので」
軽く頭を下げた久瀬に、職員はにこにこと笑いながら両手を振る。
「コタロウくんは本当に運がよかったですよ。久瀬さんから連絡がなければ、今日、殺処分される予定だったんですから」
原に聞こえないよう、さらに声をひそめて職員が言う。その言葉に、宙は思わず目を見張った。
「え?」
「あれ、久瀬さん、お話しになってなかったんですか?」
職員に尋ねられ、久瀬は若干気まずそうに目を逸らした。
「いや、それは……」
「コタロウくんはシニア犬で、譲渡先を見つけるのは難しいですからね。でも、久瀬さんが飼い主が見つかったかもしれないから、もう少し猶予がほしいとおっしゃって」
悪気のない様子で、職員が教えてくれる。
人にはさんざん「捨てたんじゃないか」とか、「能天気」だとか、酷いことを言っておいて、裏ではちゃんとコタロウのことを助けようとしてくれていたのか。
宙は思わず胸の前で両手を組み、上目遣いで久瀬を見つめた。
「……うるさい」
「まだ何も言ってないです」
「顔がうるさいんだ」
久瀬は腕を組み、心底嫌そうな顔をする。宙は思わず笑ってしまった。
「でも、コタロウが見つかってたなら、教えてくれたらよかったのに」
「あのときは、まだコタロウだという確証がなかった。……それに、柴犬を探しているという問い合わせも、この一ヶ月なかったそうだからな。たとえ飼い主が見つかっても殺処分される可能性が高かった」
宙は一瞬きょとんとして、また両手を組んだ。
「もしかして、俺がショックを受けるのを心配して……?」
わざと高い声を出すと、「おめでたい頭だな」と一蹴された。けれど、はっきり否定しないあたり、図星なのだろう。
「……ん?」
ふと、首に違和感を覚えて手を遣る。何となく、さっきより首輪の締め付けが緩んだような気がした。
「どうかしたか?」
「すみません、ちょっと……」
宙は一言断ってから、部屋を出た。首に巻いていたタオルを外し、首輪に直接触れる。あんなにびくともしなかった金具が、少し浮いている。
おそるおそるベルトの先を押すと、驚くほどあっけなく金具からベルトが抜けた。そのまま金具を引くと、するりと首輪が外れる。
「は、はず――!」
「外れたか」
「うわあ!?」
振り向くと、真後ろに久瀬が立っていた。バクバクと鳴る心臓を押さえていると、無言で片手を差し出される。
「原さんに返すんですか?」
首輪を渡しながら、首を傾げる。
「返さない」
「えっ?」
久瀬は背負っていたリュックから厚手の透明な袋を取り出すと、受け取った首輪を入れる。宙は戸惑いながら久瀬を見た。
「返さないって……じゃあ、どうするんですか?」
「情報を整理して記録した後、保管室に収容する」
「ちゃんと外れたのに、返してあげられないんですか?」
宙の言葉に、久瀬はため息を吐く。
「いいか、一度異失物に変異したものは、二度と普通の物に戻ることはない。いったん無害化したとしても、何かきっかけがあればまた怪異を起こす。さらに感情が蓄積していけば、より強い等級の異失物になる可能性もある」
淡々と声を落として説明しながら、久瀬は首輪を入れた袋をリュックに仕舞う。宙は俯いて、久瀬のリュックを見つめた。
「でも、その首輪の感情は悪いものじゃなかったのに……」
「今はな」
そう切り捨てる久瀬を少し冷たく感じたが、反論できるだけの言葉を宙は持たない。自分は今回たまたま巻き込まれただけで、異失物のことなど何も知らないのだ。
「首輪の保管のために分駐所へ戻る。悪いが、もう少し付き合ってくれ」
「……はい」
宙は頷いて、久瀬とともに部屋へ戻る。原と職員に別れを告げると、久瀬の車に乗り込み、保健所を後にした。
「……あの子、きっと私のこと恨んでますよね」
長い廊下を歩きながら、原が呟くように言った。
「私が臆病だったせいで、たくさん怖い思いや辛い思いをさせて……。もう、私のこと家族だなんて、思ってくれないかも」
原の横顔には、深い後悔が滲んで見えた。宙は視線を落とし、タオルの上からそっと首輪を握る。
「……俺には、コタロウの気持ちは分かりません」
何度もコタロウの記憶を見たけれど、今コタロウが原のことをどう思っているのかはわからない。
「でも……ずっと、あなたを探してたと思います」
原が弾かれたようにこちらを向く。その目にじわりと涙が浮かんだ。
「着きましたよ」
原が何か言おうとしたところで、職員が足を止めた。ドアを開けて職員が中へ入ると、原はほとんど走るようにその後を追う。
並んだ檻の一番奥に、毛布の上に蹲って眠る一匹の柴犬がいた。
「コタロウ!」
原が声を上げて駆け寄る。コタロウは一拍遅れて、ゆっくりと目を開けた。
その目が原を映した瞬間、尻尾がぱたぱたと左右に揺れる。コタロウはおぼつかない足取りで立ち上がると、檻の隙間から鼻先を出した。
「コタロウ……ごめん。ごめんね……」
原は泣きながら床に膝をつき、コタロウの頬を撫でる。
「この子がお探しのコタロウくんで間違いないですね?」
「はい。間違いないです」
原が頷くと、職員が檻の鍵を開ける。扉が開くと、原は檻の中に入ってコタロウを抱きしめた。
コタロウの毛に顔を埋め、痩せた身体をそっと撫でる。
「絶対、もう逃げないから……何があっても、最後までそばにいるから」
泣きながらも、原の声は強く、覚悟に満ちていた。
コタロウは鼻を鳴らしながら、ゆっくりとその場で足踏みを繰り返している。川原でボール遊びをしていた頃と変わらない仕草に、宙は思わず笑みを溢した。
「いやぁ、無事に飼い主さんが見つかってよかったですね」
原とコタロウの様子を見守りながら、安堵したように職員が小声で言う。
「いろいろと、ご協力ありがとうございました」
「いえ、我々も一匹でも多くの命を助けたいと思っていますので」
軽く頭を下げた久瀬に、職員はにこにこと笑いながら両手を振る。
「コタロウくんは本当に運がよかったですよ。久瀬さんから連絡がなければ、今日、殺処分される予定だったんですから」
原に聞こえないよう、さらに声をひそめて職員が言う。その言葉に、宙は思わず目を見張った。
「え?」
「あれ、久瀬さん、お話しになってなかったんですか?」
職員に尋ねられ、久瀬は若干気まずそうに目を逸らした。
「いや、それは……」
「コタロウくんはシニア犬で、譲渡先を見つけるのは難しいですからね。でも、久瀬さんが飼い主が見つかったかもしれないから、もう少し猶予がほしいとおっしゃって」
悪気のない様子で、職員が教えてくれる。
人にはさんざん「捨てたんじゃないか」とか、「能天気」だとか、酷いことを言っておいて、裏ではちゃんとコタロウのことを助けようとしてくれていたのか。
宙は思わず胸の前で両手を組み、上目遣いで久瀬を見つめた。
「……うるさい」
「まだ何も言ってないです」
「顔がうるさいんだ」
久瀬は腕を組み、心底嫌そうな顔をする。宙は思わず笑ってしまった。
「でも、コタロウが見つかってたなら、教えてくれたらよかったのに」
「あのときは、まだコタロウだという確証がなかった。……それに、柴犬を探しているという問い合わせも、この一ヶ月なかったそうだからな。たとえ飼い主が見つかっても殺処分される可能性が高かった」
宙は一瞬きょとんとして、また両手を組んだ。
「もしかして、俺がショックを受けるのを心配して……?」
わざと高い声を出すと、「おめでたい頭だな」と一蹴された。けれど、はっきり否定しないあたり、図星なのだろう。
「……ん?」
ふと、首に違和感を覚えて手を遣る。何となく、さっきより首輪の締め付けが緩んだような気がした。
「どうかしたか?」
「すみません、ちょっと……」
宙は一言断ってから、部屋を出た。首に巻いていたタオルを外し、首輪に直接触れる。あんなにびくともしなかった金具が、少し浮いている。
おそるおそるベルトの先を押すと、驚くほどあっけなく金具からベルトが抜けた。そのまま金具を引くと、するりと首輪が外れる。
「は、はず――!」
「外れたか」
「うわあ!?」
振り向くと、真後ろに久瀬が立っていた。バクバクと鳴る心臓を押さえていると、無言で片手を差し出される。
「原さんに返すんですか?」
首輪を渡しながら、首を傾げる。
「返さない」
「えっ?」
久瀬は背負っていたリュックから厚手の透明な袋を取り出すと、受け取った首輪を入れる。宙は戸惑いながら久瀬を見た。
「返さないって……じゃあ、どうするんですか?」
「情報を整理して記録した後、保管室に収容する」
「ちゃんと外れたのに、返してあげられないんですか?」
宙の言葉に、久瀬はため息を吐く。
「いいか、一度異失物に変異したものは、二度と普通の物に戻ることはない。いったん無害化したとしても、何かきっかけがあればまた怪異を起こす。さらに感情が蓄積していけば、より強い等級の異失物になる可能性もある」
淡々と声を落として説明しながら、久瀬は首輪を入れた袋をリュックに仕舞う。宙は俯いて、久瀬のリュックを見つめた。
「でも、その首輪の感情は悪いものじゃなかったのに……」
「今はな」
そう切り捨てる久瀬を少し冷たく感じたが、反論できるだけの言葉を宙は持たない。自分は今回たまたま巻き込まれただけで、異失物のことなど何も知らないのだ。
「首輪の保管のために分駐所へ戻る。悪いが、もう少し付き合ってくれ」
「……はい」
宙は頷いて、久瀬とともに部屋へ戻る。原と職員に別れを告げると、久瀬の車に乗り込み、保健所を後にした。

