狐に嫁入り 溺愛浪漫譚〜冷たい結婚のちに甘々溺愛

「……いいかげん入ってこい!」
「は、はい」

わたしの足音か何かの気配で怜弥様に気づかれてしまっている。
返事はしたものの……ギンコさんの話を思い出してしまうとふすまに掛けた手が膝の上に戻ってしまう。

わたし自身は覚えていないけれど、殿方に抱き上げられるなんていう事実があったわけで。その殿方の前に姿を現さなければならないことに対して、抵抗するかのようにわたしの心臓が早鐘を打ち、思えば思うほどに早くなっていく。

バタンと勢いよく開け放たれるふすまの音で我に返った。怜弥様の白い素足が瞳に映る。見上げれば朱色が施された雅な狐の白面がわたしを見下ろしていた。

「女。いや……日向」
「ひゃい!」

な、名前で呼ばれた!?
なんでどうして突然!?
その事実に声がうわずって鼓動がとびきり跳ねる。正座をしているわたしの全身にまで伝わって飛び上がってしまうかと思うほど、心臓が止まってしまうかと思うほどだった。

「何をすっとんきょうな声をあげている。いつまでそこにいるつもりだ。飯が冷めてしまうから早く持ってこい」
「は、はい!」

確かにその通り。ニシンの塩焼きを見ると心なしか白くくすんでいる。早くしないと脂が固まって身が固くなり味が落ちてしまう。焦る心のままに礼儀作法を遵守して敷居をまたぐ。

「作法なぞ気にするな。まだるっこしい。俺が運ぶ」
「あ……」

持ち上げようとしたお膳を奪われてしまった。とはいえ配膳するのは妻であるわたしがやらなければならないお勤め。お膳から座卓へとお食事をきちんと並べなければ。

「塩焼きに煮付けとはな。これは生のニシン。……豪勢だな。韋駄天の、奴の仕業か」

怜弥様が何か納得げに独り言を発している。
豪勢という言葉は分かる。文明開化によって格段に技術が発展してはきているけれど、物流技術において遠方から劣らぬ鮮度を保って運ぶことは難しいから。
足が早い生のニシンはなおさらのこと。身欠きニシンや塩ニシンのような加工品ならいざ知らず、生のニシンとなると産地ならともかく帝都ではかなり珍しい食材となる。
それはともかく、韋駄天とは足の速い神様のことだったはず。なんのことでしょう?

「これは油揚げじゃないか」

視線をお膳に傾ける怜弥様のお声が心なしか弾んでいるようだった。やっぱり油揚げがお好みなのは間違いないみたい。

そして思うことがある。以前にも感じたことがあるけれど、怜弥様は決して怒ってばかりではいないようだ。
そんな小さな変化を間近にして思わず口元が緩んでいた。

さっきまで早鐘を打っていた心臓の音も落ち着いている。お膳から油揚げの小皿を持ち上げる怜弥様の姿を眺めつつ、畳に置かれたお膳から座卓へとお食事を静かに丁寧に運んだ。
なんだろう? 少し心が和らぐような気がする。

「大変お待たせいたしました。どうぞお召し上がりに……」

わたしの言葉が終わる前に、朱色の箸につままれた油揚げが口の中に運ばれている。
朱色が施された狐の白面を左手で少し持ち上げて。わたしのいるところからだと白面に隠れて爛れたお顔は見えない。

かろうじて口元だけが見えた。お顔の爛れは鼻先から髪の生え際まであるもので、鼻下からは白く綺麗な肌だ。スッとした顎の感じからすると端正なお顔立ちと思われる。
白面の隙間から食事をするのはとても器用なことだけど、そこまでしてでも爛れたお顔を見せたくないということなのだろう。

続いてニシンの塩焼きに箸を入れ、ふっくらとした身を挟んで口元へと運んでいる。ニシンの甘露煮にも箸を伸ばしている。
心なしかその姿が楽しそうに見えた。
そう。見てしまっていた。
いつもならすぐに戻れと言われて居室から去っていた。
だけれども。何も言われずに居てしまい畳に座してそのお姿を眺めてしまっていた。

怜弥様はいつもお一人で食事をなさる。わたし自身、高輪でもいつも一人で食事をしていたことを思い出す。
両親と妹の葵のために食事を運ぶ度、楽しそうに談笑する家族の様子を見せつけられていた。そして失敗をすると辛い仕打ちが待っている。
寂しいと思っていたのは幼い頃までで、日々の雑事をこなしながら成長すると共に心に何も感じなくなっていった。

怜弥様はいつからお一人でお食事をされているんだろう。そういえば、他界されているというご両親の話や噂は聞いたことがない。ご兄弟もいらっしゃらない。親戚もほとんどいないという。ずっと一人で寂しくはないのでしょうか?

そして今、形だけの妻であるわたしが怜弥様の隣にいる。わたし自身が食事をしているわけではない。それでも、わたしの作った手料理を脇目も振らず楽しそうに口にされている。
そんな様子を眺めるのはわたしにとって初めてのことで。
とてもとても不思議な気持ちだった。

そうすると。聞いてみたくなってしまうことがある。
聞きたいという欲が生まれていた。

「あの……少し冷めてしまったかもしれませんがお味はいかがでしょう?」

わたしの質問に箸を動かす手が止まった。口の中のものを飲み下してごくりと喉仏が上下に動いている。

「……うまいな」

一言。
狐の白面を持ち上げたままで、隙間から覗く綺麗な口元がたった一言を発した。再び箸を動かす手が大根と油揚げの含め煮へと目標を定めている。

嬉しい。嬉しかった。
わたしの作ったお料理を喜んでもらえている。追い出されることなくこの場にいることが許されている。
それは主と女中の関わり方程度かもしれないけれど。初めて褒められたことに、思わず手のひらを胸に添えていた。

そんなことをしている間に箸が置かれた。
今日はいつもよりも全体量が多かったのにすべてを完食されている。
お食事をご用意するようになって分かったことがある。毎食ではないけれど食事を残されることがよくあるのだ。時にはほとんど手をつけないこともあるほどで、それは体調がすぐれないことを示している。

やっぱりお好みの内容が多いと食欲が増すのかもしれない。いつもいつもお好みの献立にできるわけではないけれど、なるべくお好みのものを取り入れようと心に思った。

「お薬はこちらに。それではお片付けをして失礼いたします」

薬袋と水差し、タンブラアが乗ったお盆を怜弥様の手元に寄せた。
こんなに時を同じくするのは初めてのこと。今さらながら緊張して手が震えてしまう。あまりに居た堪れない気持ちになってしまったので手早く片付けて立ち去ることにしよう。
食器をすべて片付けてお膳を持ち上げるために手を掛けた。

「うまかった。……日向」

あう。また名前で呼ばれてしまった。
今度は前置きに女がない。ちゃんと名前で呼ばれることに驚きを隠せない。

「そ、その……お、お気に召していただけましたなら、さ、幸いです」
「しかし……あまり贅沢なことはするな。生のニシンは値が張るだろうからな。油揚げもいらん」

怜弥様のお声が厳しいものになった。上月家の懐事情からすると少しでも節約したいところだから当然と言えるけれど。
お好きな油揚げでさえいらないとおっしゃる。油揚げはお豆腐よりもいくらか高いものの、油が高い時代に比べれば今の世ではそこまで贅沢品というわけでもない。そう考えると、ご自身にも厳しいお方なのだというお人柄が伺えた。

「いえ。今回もお安くしていただいておりますのでそれほどお財布を傷めておりません」
「なんだと?」

「いつもの行商さんですが、昔からお世話になっているのだから安くしないと大旦那様に怒られてしまうと、おまけということでお豆腐と油揚げまで多めにくださいました。それに、早く元気になってもらいたいともおっしゃっていました」
「なに? そうか……分かった。世話などと言うが大したことはしていないがな」

わたしには分からないことだけど、帝都で大商いをするほどの商社の大旦那様が言うほどのことなのだからそれは大きな出来事でもあったのかもしれない。
凋落しているとはいえ、さすが古い歴史を持つ旧家である上月家と言えることなのだろう。

「ですからお好きな油揚げもご用意いたします」
「む。誰がいつ好きだと言った。そうか。ギンコから聞いたな?」

嫁入りした直後に上月家のことをある程度はギンコさんから聞いている。だけれども怜弥様について教わっていないこともたくさんあった。

『日向様ご自身で怜弥様のことを発見なさってくださいませ』

口元に両手を添えて悪戯っぽく微笑むギンコさんの可愛らしい姿を目にするのはいいのだけれど、正直教えてもらいたいと思っていた。
女性に対して冷酷でそれは手酷い扱いをするという噂を耳にしていたからだ。

「いえ。聞いてはおりませんでしたが、怜弥様のお身体から油揚げがお好きというお気持ちが醸し出されておりましたから。それに塩焼きも甘露煮も。お好みでなければなかなか箸は進まないものですもの。よっぽどお好きなんでしょう?」
「む。今日はよくしゃべるな」

よくしゃべる?
そうかもしれない。高輪にいた頃はあまり人と話すことのなかったわたしがこんなにも時を同じくして話している。ギンコさんと話す機会は多いけれど、相槌を打つばかりで聞いているだけのことが多かった。

「いえ……その……自分のことながら驚きました」

自分自身、過去に思い当たることのない出来事を不思議に思って口元に手を添えていた。

「日向。俺の好みなど気にしなくていい。食い物なぞ食えればいい。これまで通り精進していればいいのだ」

また名前で呼ばれてしまった。何度も続くと心臓に悪いと思う。
もう女という呼び方はしないのでしょうか?

「かしこまりました。おっしゃる通りにいたします」

そうは言っても行商さんがおまけをしてくれたり安くしてくれるのは今日が初めてではない。今後もお好みのものをご用意できるならそうしようと思う。
それはともかく。やはり気になることがあって。
どうしてもその理由が聞きたくなっていた。

「あの。なぜわたしのことを名前でお呼びなるのですか?」
「……ギンコに怒鳴られた。ギンコのことも女と呼ぶのか、とな。それだけだ」

ギンコさんが怒鳴る? あの穏やかで優しいギンコさんが?
まったく想像ができない。
だけど嫁いできた嫁に女と呼ぶのは確かに怒られてもおかしくないこと。目元を巻木綿(包帯)で隠し、ろくに楽しい話もしない暗いわたしに対してきっと色々な気遣いをいただき大変な気苦労をさせているのだろうと思うと心が苦しい。

怜弥様も病に臥せって心も体もお辛いことが多いというのに今日はお元気そうだ。

「今日はお身体のお加減がよろしいようですね?」
「ん? そうだな? このところ調子の良い日が多いかもしれん。(不思議なものだが……日向と顔を合わす後は特に良い)」

「それは何よりでございます」
「日向こそ、体の具合はいいのか?」

怜弥様がわたしを見ている。朱色が施された狐の白面の向こうに感じる視線から心配という二文字が心に浮かんだ。

「体の具合ですか? 特に変わりはありませんがなぜでしょう?」
「倒れただろう」

忘れたのかと言わんばかりの呆れ声だった。
実際、覚えていないのだから仕方がない。知っていることと言えばギンコさんに教えてもらったことだけで……。

そうだった。
怜弥様の両腕でお姫様のように抱っこされていたとかいう話を思い出してしまった。
それは楽しそうにお話しするギンコさんから聞いた内容を思い出して。
息が止まる。
急に顔が熱くなっていく。

「どうした日向? 顔が赤いぞ? 熱でもあるのか? もしや……厄から呪いでも受けていたのか!?」

片膝をついて立ち上がる怜弥様の手がわたしの肩を掴んでいる。絶対に触れるなとおっしゃっていた怜弥様ご自身から触れてきたことに驚いてしまう。

「いえ! いえ! そうではありません! その……失礼いたします!」

絶対に疎かにしたことのない礼儀作法のことなど頭になくて。
怜弥様のお手を両手で掴んで肩から離し、お膳を乱暴に持ち上げると半ば駆けるようにして居室から飛び出していた。

わたしの空っぽのはずの心がおかしい。
何かがある。
心の中に。