狐に嫁入り 溺愛浪漫譚〜冷たい結婚のちに甘々溺愛

「う、ううん」

頭が重い。幼いあの日の夢を見た。紛れもなくあった過去の出来事。もう十三年も前になる。
この頃にはすでに忌み嫌われていたわたしに対する両親の態度が極端に変わっていったことを思い出す。そして妹の葵も変わっていってしまった……。

「日向様。お目覚めになりましたか。ご気分はいかがですか?」

布団に横になっているわたしの横で、穏やかに佇むギンコさんが座布団も引かずに座している。

「ギンコさん? わたしは……? も、申し訳ございません」

今の状況を理解できないまま謝罪の言葉を発していた。感謝の言葉よりも謝罪の言葉を使うことが普通だったから。
体を起こそうとするわたしを年老いたギンコさんが支えてくれる。

「裏庭でお倒れになられてしまったのです。怜弥様が日向様の居室まで運んでくださいましたのですよ」
「怜弥様が? そうですか……あ、あの、わたしはなぜ倒れたのでしょう?」

布団の上に正座をしてギンコさんに向き直る。自分の居住まいを確認すると、たすきこそ外されてはいたけれど、わたしの身につけている着物は特に変わりはなく乱れてもいない。体にも痛みや怪我はなさそうだった。
倒れたことも、なんでそんなことになったのかもはっきりしない。

「覚えていらっしゃいませんか? 関守石《せきもりいし》の外に現れた厄に日向様が襲われてしまったのです。わたしがしっかりとお伝えしないばかりに怖い思いをさせてしまいました。大変申し訳ございません」

そう言って畳に手をつき頭を下げるギンコさんのお顔も振る舞いもそれはそれは申し訳なさそうなものだった。

「いえ。それはわたしの不注意のせいです。ギンコさんに謝っていただくようなことは何一つありません」

そうだ。あの恐怖を思い出した。ぞくりとする冷たい汗が背中を伝う。思わず両手で自分の肩を抱きすくめていた。

「怖い思いをさせてしまいましたね。お気持ちが落ち着かれるまで数日はお休みになられた方が良いでしょう」

ギンコさんの穏やかな物言いがわたしの耳に優しく聞こえる。だけどそういうわけにはいかないのだ。思わず声を大きくあげていた。

「いえ! 大丈夫です! 休んでいるわけにはまいりません! しっかりお勤めを果たさせてください!」

上月家とギンコさんにお世話になっている以上、休むわけにはいかない。もし役に立たないと判じられてしまい高輪の家に戻されると思うと心が苦しい。夢に見たあの日の前後から続く日々が心に刻まれている。それこそ厄に襲われるほど心が辛い。

「そうは申されましても……まずはお心と体を健やかにされるのが一番ですからね。何もご心配をなさらずにゆっくりと……」

「それではダメなんです! わたしには戻る場所がないのですから!」

ギンコさんの肩に縋っていた。
目頭が熱くなる。
雫が頬を伝う。
ぽたりと膝に落ちた冷たい水滴が着物に滲む。

そう。わたしにはどこにも居場所というものがないのかもしれない。
涙に揺れる穢れた瞳がある限り。

「日向様。何も心配することはございませんよ。日向様の戻る場所は上月家でございます。何かお辛い事情があるのですね? もしこの老体で良ろしければお話ください。いくらでもお聴きいたしますから」

優しく優しく言葉を口にする老婦人の微笑みが心に沁みるようだった。
だけれども……わたしの穢れのことを話すわけにはいかない。見られるわけにもいかない。それこそ高輪にいた頃のように口さがなくなじられ嫌われるようになってしまう。そうなればわたしの居場所は今度こそどこにもなくなってしまうのだから。

「あ」

ふと気付いた。涙に濡れるわたしの瞳が隠されていないことに。血の気が引くようだった。慌てふためいて右に左にと視線を巡らしたけれど見つけることができない。

「どうかされましたか?」

わたしの唐突な行動にきょとんと不思議そうにしているギンコさんの瞳がわたしの瞳に映る。

「わたしの瞳を……見ないでください! 巻木綿(包帯)はどこにありますか!?」

慌てて両腕で瞳を隠して目線を伏せる。心は焦るばかりだった。

「ご安心くださいな。それでしたら枕元にございますよ」

すぐさま手に取って瞳にあてがった。頭の後ろでぎゅっと結び目を作る。

「あ、あの……わたしの瞳に変わりはなかったでしょうか?」
「いえ何も? とても可愛らしい綺麗な瞳でございましたよ」

わたしの慌てた様子がおかしかったのか、口元に手甲を添えてふふふと笑みを浮かべている。
ギンコさんの穏やかにしている様子からすると、わたしの瞳の色や形に変化はなかったらしい。

良かった……瞳を見られなければ嫌われずにいられる。高輪に戻らないで済む。この場所にいられる。
そのためには……

「今は何刻でしょう?」
「はい。そろそろ夕餉の支度をする頃ですね」

ギンコさんの視線を追うと、障子が開けられていて縁側の向こうが見える。それほど陽射しが傾いてはいなかった。
倒れたという頃からあまり時間は経っていないみたい。短い悪夢を見る程度。

「こうしてはいられません。すぐに支度を始めます」
「日向様! お休みになられませんと!」

同じく枕元に置いてあったたすきを手にして、ギンコさんの止める間もなく台所へと向かう。足早に土間に降りて流しに立ったところでたすきを口に咥えた。腕から肩へ、背中へと回して袖をまとめる。
先刻に届けられた食材と残っている食材を確認して七輪の支度を始めた。

ニシンは塩焼きにしようか。それとも……
献立を考えている間にギンコさんが追いついてきた。

「日向様は強情ですね。わたしもお手伝いしますので怜弥様に美味しく召し上がっていただくためにがんばりましょう」
「はい」

せっかくの旬のニシン。怜弥様のお好きな塩焼きと煮付けと両方用意しよう。
少し強めにお塩を効かせて炭火で程よく火を通してふっくらと焼き上げよう。春の生ニシンは瑞々しいから塩をして一晩寝かせておいた方が身が締まって美味しくなるものだけど、早くに召し上がっていただくのも悪くないと思う。
もう一品はニシンの甘露煮がいいかもしれない。ニシンはともすると生臭い。幸い新鮮だ。しっかりとした下処理が命。それにお酢とお塩の力を借りて臭みを消して旨味を引き出そう。
それに怜弥様が特にお好みになる油揚げ。しっかり油抜きをして大根と含め煮にしよう。お鍋に水を張って火にかける。まずはお湯を沸かさないと。
調理場に立っていると余計なことを考えないでいられる。お料理をするのは好きだ。

「日向様はお料理の手際がよろしいですね。よほど修行をされたのでしょう」
「……はい。家族のためにあれやこれやと用意してましたので」

思い出すと心が空っぽになってしまう。少しでも口に合わなかったり、献立など気にそぐわなければひどい折檻を受けることがあったから。それだけに調理の技法や食材に関する知識も必要以上に学んだ。

「それにしても。うふふ」

隣でお味噌汁を用意するために大根の葉と包丁を手にするギンコさんが嬉しそうに微笑んでいる。

「どうかされましたか?」

あまりに楽しそうに微笑んでいるので聞いてしまった。

「今日の怜弥様と日向様のお姿にときめいてしまったものですから」
「え?」

ときめき? それはどういう……。
不思議に思うわたしを愉快そうに眺めながらギンコさんが話を続ける。

「こう……可愛らしい華奢な日向様のお体を怜弥様のたくましい腕の中にすっぽりと抱っこされていらして」
「え?」

腕の中にすっぽり?
わたしの頭の中にあったのは疑問符だけで、ギンコさんの話が止まらない。

「なんと言いましょうか? まるでお姫様を軽々と抱きかかえるに抱っこする様子と憂うように日向様を見つめる怜弥様の仕草に年甲斐もなくどきどきと胸が高鳴ってしまいましたわ」
「え?」

わたしがお姫様?
……怜弥様の……男性の腕の中に……。
憂うように見つめて……。
それは……女子ならばときめくのも当然の出来事では……。

くう。

思わず声が漏れて顔が赤くなっていた。
そんなことが本当にあったとはにわかには信じられないけれど。もしも本当なら……。

「日向様。手が止まってますよ?」
「それは! ギンコさんがおかしなことをおっしゃるから!」

その後もギンコさんの青春を思い出すような話が止まることなく。その止めどない気持ちにわたしの心がいくらかあてられながらもなんとか怜弥様のお食事の支度を終えることができた。

雅な茶碗に白いご飯をよそい、漆塗りのお椀には葉物がたっぷりの味噌汁を注ぐ。ふっくらと焼けたニシンの塩焼きを長角皿に乗せ、ニシンの甘露煮を六寸五分皿に盛り付ける。小皿には油揚げと大根の含め煮。小鉢にはぬか漬けを用意した。それぞれお膳に乗せる。

どの食器も用に重きを置かれた造りでありながら美しさを兼ね備えたものに見えた。成り上がりの高輪にあった華美な食器とは大違いで静かな味わいを感じさせるほど侘びている。

わたしとギンコさんの食事の用意はその後にすることになる。怜弥様がお一人で食事をされるためだ。夫婦ではあるけれど一緒に食事を摂ることはない。だけどその方が気が楽でいい。

「それでは日向様。配膳を。後のことはお願いいたします。わたしは先に調理をしておりますので」
「はい」

怜弥様の居室にお食事を運ぶのは妻であるわたしの役目だった。
一度板間にお膳を乗せて、履き物を脱いで上がる。心と心臓を落ち着かせながら。
ギンコさんから聞いたお姫様抱っこの話を思い出してしまっていたから。

お膳を手に足を進めた。冷めないうちにお持ちしなくては。という思いとは裏腹に足が遅くなってしまう。
普段は感じることのない胸の鼓動が心を落ち着かせてはくれなかった。
お願いだから止まって欲しい。
わたしの心は空っぽのはずなのだから。

そして怜弥様の居室の前で正座をしたまま、ふすまを開けられないわたしがいた。