狐に嫁入り 溺愛浪漫譚〜冷たい結婚のちに甘々溺愛

何かがいる。
そう自覚した瞬間に重くなる陰鬱とした空気が肌にまとわりつくようだった。
草刈り鎌を握る手から力が抜ける。トサリと音を立てて地面に落としていた。ともすれば膝が崩れ落ちそうにもなる。

幼い頃にほんの少しだけ、妹と共に目にしたことがある存在。高輪家で何度も何度も話を聞いていた厄。魔とか鬼とか呼ばれる人に災いを為す異形のことを思い出していた。

幼い時に感じた恐怖と同じ。背筋が凍るほど怖い。細かいことは分からないけれど厄に違いないと悟ってしまう。
厄は人を襲ったり取り憑いたりして心と肉体を侵すという。時には逃れられない死が訪れたり、その血筋を何代にも渡って呪うこともあるのだとか。祟りと言わずしてなんと言おうか。

なぜお屋敷に? そう疑問に思いながら早くここから離れないと、とも思うのだけれど力の入らない足が凍りついたように動かない。

嫌だ嫌だ嫌だ。早くどこかへ逃げたい。

心の中で小さな悲鳴が漏れた。
後ろにいる気配はさっきまで数歩以上も距離があると思った。でも今は違う。すぐ真後ろにいる。首筋にかかる澱んだ息のようなものを感じる。
死が間近に迫る恐怖だ。

あ。

ふと気づく。
そうか。いっそのこと……この場で命を失うのもいいかもしれないと。

耐え難い恐怖を感じつつ、そんなことに思い至った。
そう。このまま生きていても良いことなど何もないのだから。
わたしの心にはなにもない。なにも感じることのできない空っぽの心だけ。
そう思うと恐怖が遠のく。
物音一つ感じないしじまの中で、わたしの心臓の音だけが静かに響いていた。

「死を受け入れるな! 抗え!」

抵抗せんと訴える凛とした声がわたしの冷えた心と陰鬱とした空気を斬り裂くようだった。死に恭順しようとしたわたしの心臓の音が打ち消されている。
同時に、煌くような一陣の白い炎がわたしの首元に近いあたりを薙いでいった。首筋にかかる澱んだ息と共に。

はっと気づくと。今のいままで感じていた恐ろしさが嘘のように霧散している。お屋敷にある陰鬱とした空気は変わってはいないけれど、振り返っても何もいない。
代わりに、刀を振り抜いた姿勢から直立に直り、半ば乱暴に白い鞘に刀を納め終える姿が巻木綿(包帯)越しの瞳に映る。

わたしの真横に刀を肩へとかける怜弥様がいた。

「女。関守石《せきもりいし》の向こうには行くな。ギンコから聞いてはいないのか」

いつもと同じく女とおっしゃる。いまだに名前で呼ばれることはないけれど、女と呼ばれることにも特に思うことはない。そもそも会話自体が少ないものだし。

「関守石《せきもりいし》……。置かれた先に行ってはいけないと聞いておりましたが失念しておりました」

手元の作業に集中をしていたことで足元に配された関守石《せきもりいし》の存在に気づけていなかった。

関守石《せきもりいし》とは丸い石に麻紐を十字に縛り付けてあるもののことで、そこに置かれた先には入ってはいけない、という境界を示す石のことだ。
要するに立ち入りを禁ずる目印となるもの。
けれども、関守石《せきもりいし》はまた違う役割をするものでもあるということは高輪で聞いたこともあり知っていた。

「要らぬ感情を持たせないために実情は省いたか……。俺から言っておく。上月の屋敷に配した関守石《せきもりいし》は厄を寄せ付けぬ結界の役割をしている。屋敷の外ならばいざ知らず、屋敷に入らんとする厄は後を絶たない。死よりも辛い目に遭う厄に呪われたくなくば一歩も外に踏み出すな」

怜弥様のおっしゃる通り。石に麻紐を縛ることで邪気や悪霊から守る魔除けとする、という意味があるそうだ。また、結びつけることは神霊との縁を結ぶという意味もあるらしい。
だけど一般的にはそれはあくまでもそういう意味があるというだけで、人の思いが込められた置き物にしか過ぎないもの。
そうだ。ギンコさんに不要な迷惑をかけてはいけない。ちゃんとはっきりとそのことを伝えて置かないと。

「聞いているのか?」
「は、はい。いえ、ギンコさんは説明を省いたりなどしておりません。わたしの不注意が招いたことでございます。高輪でも教わっておりましたから承知しておりました。怜弥様のお手を煩わせてしまい申し訳ありません。それと、あの……厄がお屋敷にとは? 普通はそのようなことはないと思いますがなぜでしょう?」

厄は時に人を襲う。だけどそれはそうそう起こることではないとも聞いている。普通に暮らしていれば魔や鬼に出会うことはないのだから。
それなのに特定の場所に厄が集まるだなんて何かよほどのことがないとあり得ないことではないだろうか。

「珍しく口数が多いな。ふん。俺という呪われた存在がいるからだ」
「呪われた? 怜弥様が? それはどうして……」
「知る必要はない! これ以上恐ろしい目に遭いたくなくばさっさと高輪に戻るといい!」

質問しようとしたところ怒声で遮られてしまった。
わたし自身、穢れた瞳を生まれ持っている。両親、妹、使用人、周囲の人間から蔑まされ忌み嫌われ、疎まれて生きてきた。口さがない言葉に心が傷められる日々をただただ泣いて過ごしていた。それらはやがて酷いいじめや仕打ちが加わっていく。そうしていくうちにわたしの心は死んでいった。

最初はなぜ自分だけにこんな不幸が降りかかるのかと思い悩み自問自答していた。助けを願っても救いを求めても撥ねつけられてしまうことに疲れていく。
心がないと体に活力も生まれないもの。
やがてはどのような虐待にもさして感じることもなく、日々の仕事をこなす人形のようになっていってしまった。

怜弥様を前にして思う。
もしやこの人もわたしと同じような思いを抱いていたのではと。わたしだったらこの方の思いを理解できるのではと。
狐の白面の向こうに感じる怜弥様の瞳が悲しみの色を帯びているように感じる。ギンコさんから聞かされていない何か深い事情でもあるのかもしれない。

「む。どうした? おい!」

あれ? 景色が暗い。体がふらつく。
額に手をやり、まぶたが閉じそうになる瞬間、わたしへと手を伸ばす怜弥様の姿が巻木綿(包帯)の向こうに見えた。

「女!」

倒れるわたしを怜弥様が力強く支えている。
意識を失う寸前。女と呼ばれることに少しだけ悲しみを覚えた。

そして、夢を見ていた。

『日向お姉様!』
『葵! わたしの後ろに隠れて!』

節くれだってひどく歪んだ鬼の手が迫り来る。
幼い妹があまりの恐怖に慄いて絶叫をあげている。だけど恐怖を感じる心があるのはわたしも同じこと。
高輪家の血筋によって受け継がれた妹の異能の力。清浄の炎を使役できようとも力の弱い幼い子供に何ができるわけでもない。実際、妹の放った発展途上の異能の力は異形の鬼を相手に通用することはなかった。
異能を受け継ぐことができなかった無能であるわたしはなおさらで、祓う力と成り得なかった妹の異能を見て無力な自分に失望する思いだった。

それでも姉であるわたしがしっかりしないといけない。ほとんど刻を同じくして生まれた双子とはいえわたしは高輪家の長女なのだから。家族を守る責務がある。
それだけじゃない。わたしにとって妹はかけがえのない双子の片割れなのだから。

例え、わたしが異形の手にかかって殺されようとも妹が無事ならそれでいい。きっと妹の異能の力は世の助けになる。無能のわたしが囮になって引きつければ、その隙に妹だけでも逃すことができるかもしれない。
だけどできることは少ない。

妹に降りかかる不幸を招きたくない!
招くなら厄とは無縁な幸せな未来がいい!

そう思い至った時、自然と体が動いていた。

『こっちにきなさい! 喰べるならわたしにしなさい!』
『お姉様!』

妹を後ろへと突き放してから自ら足を進めて異形の鬼の前に仁王立ちになった。恐ろしい思いを押し込めながらも止まらない足の震えを感じながら異形の鬼の双眸を睨みつけていた。
なんて愚かな行為だったのだろうと後にして思う。二人とも喰べられるか呪われるかするだろうし。
それでも必死に守りたい思いがあったのだ。

どれだけ気を強く持とうとも恐れに体が崩れそうなわたしを前にして、なぜか後ずさる異形の鬼がいた。見据えるわたしの瞳に映る異形の鬼は怯えているようだった。
その事実がどうこうよりもただ必死に願っていた。
消えてほしいと。わたしたち二人に害を為そうとする悪意にただただ消えていなくなって欲しかった。そう願いながら異形の鬼から瞳を離さなかった。

『や、厄を祓う滅炎《ほろほの》よ! わたしの言の葉に従え! 燃えて滅ぼせ!』

振り返ると妹の手が陽炎《かげろう》のように揺らめいていた。小さな赤い炎の塊が異形の鬼の体に燃え上がる。だけれども発展途上の異能の力は弱々しく幼い妹の手ではそれほどの効果があるように思えなかった。

妹と異形の鬼を交互に見遣った。わたしにできることは願うことだけ。

『葵! がんばって! あなたならきっとできる!』

叫ぶわたしは妹の葵を信じて願っていた。
続いて響く異形の鬼の断末魔。
赤く赤く烈火の如く燃え上がる炎が異形の鬼を瞬く間に消滅させていた。妹の葵が初めて厄を祓った瞬間であり、高輪家の異能を色濃く受け継いでいることを示す瞬間でもあった。
そして、何もできずに妹を危険に晒しただけのわたしに、さらなる辛い日々が始まることになる。
呪われた存在として生きるわたしの人生がどこまでも続いていくのだ。