「巻木綿(包帯)の下に隠れたその瞳は俺を見ているのか? 俺の呪われた顔がおぞましくないのか?」
まるで自虐を込めた物言い。怜弥様のお心の中に悲しさが燻っているようだった。
怜弥様を間近にしていると思うことがある。
高輪でも聞いてはいた。怜弥様との結婚の話はこれまでにも数多くあったことを。凋落しているとは言え上月家ほどの家柄であれば政略結婚を目的とした縁組みを考える家は高輪だけではない。ギンコさんに聞いた話では実際に婚姻の話が進んだことが何度かあるのだとか。
しかしことごとく女性たちは出戻るのだという。
ギンコさんとの会話を思い出していた。
『どこのご令嬢も怜弥様のお顔を直視することができず耐えられなくなってしまうのです。それはもう何年も前からのことでして。怜弥様は長く続く上月家の地を絶やしたくないともお考えになっていらっしゃいます。そのためできることなら結婚したいという思いを抱えていらしゃるのです』
どのような思いがあるにせよ、年を重ねるごとにそのようなことが続き、女性の中にはそれこそおぞましいような暴言を怜弥様に浴びせて逃げて行ったのだとか。そんなことが続けば女性に対して不信にもなるというもの。怜弥様の女性への対応もどんどんと冷たくなっていったそうだ。そのため二十七にもなるというのに怜弥様は独りのままだった。
『ですが……そんなやりとりをすることがお辛くなってしまったようでして、この数年は怜弥様ご自身も消極的なご様子で縁談の話も途絶えておりました。そんな折、高輪様から縁談の話を頂戴しまして。怜弥様としても複雑な心境でいらっしゃるのです』
憂いを込めてわたしに視線を傾けるギンコさんの話からすると、怜弥様のお辛い状況がありありと伝わってきた。
すべての原因は怜弥様から感じる恐ろしい気配にあるのではないかと思う。
これまでに上月家に嫁入りをしようとしていた女性たちも同じように感じていたのだろうか? だとするなら日を置かずに逃げてしまうという話もこのことに関わることがあるように思う。
女中がギンコさん一人しかいないというのもおかしいもの。
女中も使用人も同じことで、怜弥様と直接対面してはいなくとも屋敷にいることを嫌がるようになり、長くいたとしても病に臥して去るのだという。
陰鬱とした重い空気が漂うこのお屋敷がそうさせるのかもしれない。
そういう意味でも怜弥様にとってギンコさんは貴重な存在と言えるのだろう。
「おぞましいなど。おいたわしいと思っております」
一度逸らした顔と視線を向き直して答える。しっかりと怜弥様の瞳を見つめた。
綺麗な瞳だけれども、懐疑的な眼差しがわたしの瞳を窺っている。
怜弥様に触れた時、訳も分からぬ気配に対して恐ろしいと思いはした。けれど、怖い、おぞましいということはこれっぽっちも感じていない。
わたしもまたおぞましいと言われ、穢れていると忌み嫌われ、蔑まされて生きてきたから。怜弥様の傷ついたお心はわたしにもよく分かる。その想いはわたしの言葉に音として怜弥様の耳に響いてるはず。
「……行っていい」
半ば消え入りそうな声に心が痛む。けれども主人の言う通りに行動しなければならない。少し暗い廊下に座して襖を閉める。
縁側から差し込む春の陽射しを背に憂いた表情の怜弥様が襖の隙間からチラリと見えて、なんと美しい人なのだろうかと思ってしまった。そのお顔が爛れていても。
そして幾日。
ギンコさんの体調も良くなってわたしと二人で上月の家を切り盛りしている。主に分担して作業をすることがほとんどで普段の行動はわたし一人だった。
今日もまた広い広いお庭の庭仕事に精を出していた。
「毎度ー! 活きのいい魚と採れたて野菜を持ってきましたよー!」
裏手の方から気風のいい声が聞こえた。三日に一度ほど上月家に出入りをする馴染みの行商さんだ。
「あ。すぐに参ります」
あまり大きな声を出すのは得意ではないので聞こえているかは分からないけれど。草刈りをするための鎌を置いて足早に掛ける。お金が入った巾着はたすき掛けをしている袂に入ってることをしっかり確認した。このお金は上月家の生活費としてギンコさんから渡されているものだ。
慌てて台所に向かうと水を張った桶を手に急いだ。
「お待たせしました」
少しだけ呼吸が早くなった息を落ち着かせながらお辞儀をした。
「こんちは! 今日も天気がいいですねー! 蝦夷でわんさか獲れたニシンが最高だよ! ほら! 生のニシンなんて珍しいでしょう! 大商いが自慢のうちだからこその仕入れでさ! 昔っから世話になってる旦那様の春の訪れに舞い上がっちまって、うちの大旦那が新鮮なうちに持ってけってそりゃあ五月蝿《うるさ》くてねえ!」
春の訪れ? それはどういうことでしょう?
ああ。なるほど。ニシンの謂れについてのことだと思い至った。
元気のいい人だ。捲し立てるくらいの威勢の良さに面食らってしまう。
まだ冷えを感じる青空の下、氷に閉じ込められたお魚がいた。
鮮度の良さそうな生のニシンなんて初めて見る。普通は塩ニシンか身欠きニシンなのに。蝦夷といえば北海道。運んでくる間に傷んでしまうから現地で加工されてくることがほとんどだと聞いたことがある。
「ニシンといえば春告魚《はるつげうお》とも呼ばれる旬の魚ですね」
「おや奥様。よくご存知で! 産卵のために春にやってくる旬の魚ですからね! 春の味わいを楽しんでくださいよ!」
そろそろ冬の終わり。庭木も食卓も春を感じさせる彩りにあふれてくる。金額を聞くとそこまで高くはない。怜弥様は塩焼きも煮付けも好むし買っておこう。毎日お食事をお作りするようになってなんとなく分かることもあるし、ギンコさんから教えていただくこともあってある程度、怜弥様のお好きなお料理も分かってきている。
「ではそれもお願いいたします。あとはいつものようにお豆腐とお野菜と……油揚げを多めにお願いします。それと、お米とお味噌が少なくなってるのですがありますか?」
正直、上月家の厳しい状況からすると油揚げは少しお高いので懐事情が心配になってしまうけれど病に臥す怜弥様が少しでも元気になっていただければとも思う。
「もちろんでさ! 今日も勉強しておまけしときますから! でないと大旦那に怒られちまうんでさ! 旦那様に早くお元気になってもらいたいもんですね! お優しい奥様をお嫁にいただいて旦那様も幸せってなもんですよ!」
「いえ、そんな……」
何度になるか分からない言葉に顔が赤くなってしまった。
わたしの手にしている桶を受け取ってお豆腐を三丁も入れてくれた。いつもは二丁なのに。油揚げも一枚多くしてくれている。
毎回何かしら多めに置いていってくれるので上月家の台所事情も助かるというもの。
他にも荷車から食材を取り揃えてくれている。
この行商さんは少し離れた場所にある大通りで店を構え、帝都で大商いをしている商社の使いの人だ。上月家と商社の大旦那様とは代々からの古い付き合いがあるということらしい。
そのため、ある程度は上月家の現状を承知をしているとのことだった。
それは怜弥様を気遣う行商さんの言葉と立ち居振る舞いにも現れている。
だけれども。気を許して接してくれているだけというわけでもない。
裏門の内側、お屋敷の中には決して踏み込んではこないのだ。商いに精を出す馴染みの業者なら庭内や台所にまで入ってくることは珍しくはない。そうして仲良くなって家のあれこれを観察しては商売に繋げようとするものだから。高輪の家にもそうした業者は複数いた。
それなのに、裏門のすぐそばにすら近づこうとはしない。確かに敬遠されている。買い物が多ければ運んでくれたりもするものなのに。
だから裏門の外に出て代金を支払った後、自分の手で買ったものを少しずつ家の中に持ち運ぶのだ。
「またのご贔屓に! 奥様、失礼致しますよ!」
商売を終えた行商さんが無駄話や世間話をすることなく、そそくさと荷を整えると足早に荷車を引いて行ってしまった。
表情と声の気風はいいけれど、怯えた眼差しと胸の内すべてを隠しきれていないのだと思う。それほどに上月家という存在が恐れられているということが分かってしまう。
「奥様なんて……。いつになっても慣れないわ」
上月の家に嫁いでから幾らかの日が経っている。出入りの業者さんともある程度親しくやりとりをさせてもらうようになっていた。
けれども奥様と呼ばれることにはまったく馴染まない。
「夫婦らしいことは何一つないものね」
夫婦としての営みを望んでいる訳ではない。形だけの結婚にそんな必要はないのだから。ただただ、このお屋敷で黙々と仕事をこなし、怜弥様とギンコさんの不興を買わなければいいのだ。自分の居場所を守るために。そうすれば高輪に出戻るようなことにはならないだろう。あの頃のようないじめや仕打ちを受けなくて済む。
「さあ、早く仕事をしないと日が暮れてしまうわ」
一度では運びきれない食材を順々に台所に運んで整理をした。次いで掃き掃除の続きをするために元の場所へと戻る。
「ギンコさんたらこんなにたくさんの仕事を一人でしていたなんて」
上月家のお屋敷は広い。お屋敷の中はもちろん庭園も広い。朝昼晩と三食の支度にお掃除に来客とのやりとり。言葉にすると簡単だけれど家事を隅々までそつなくこなすのは本当に大変だ。
草刈り鎌を手にせかせかと、だけど丁寧に雑草を掘り起こしていく。根っこを残すとまた生えてきてしまうこともあるから。春先ともなれば辺り一面に雑草が芽吹いて放っておくと草でぼうぼうになってしまう。せっかくの景観が台無しになってしまうので必ず行う仕事の一つだ。
庭と一口に言ってもその広さはかなりのもの。前庭、主庭、中庭、裏庭とあって、かなり広いだけに根気と時間のかかる仕事でもある。日頃の庭の管理は本来であれば庭師さんにお願いするところ、懐事情を鑑みてギンコさんが一人でこなしていたという。
わたしはまだ十八になる歳だけれどもずっと屈んでいると腰に響いてきた。
まだ肌寒い季節ではあるけれど体を動かしていると熱くなってくる。額に浮いた汗を手拭いで拭いつつ、手を動かす。雑草を抜いては集めて、年季の入った竹籠に放り込んでいく。
「ふう。だいぶ綺麗になったかしら」
立ち上がって後ろを振り返るとさっきまでたくさん生えていた雑草が綺麗になくなっている。
「まだ時間があるかしら? もうちょっと進めておかないと……」
空を見上げると日暮れにはまだ時間がありそうだ。割と近くにある大寺院で打たれる夕刻を知らせる鐘の音もまだ響いていない。
「ふ。うーん」
ずっと屈んだままで悲鳴をあげそうになっていた腰に手を当てて足腰を伸ばした。まだまだがんばれそう。
ふと。背中に怖気を感じる。
ひゅっと小さく息を吸い込んでいた。
まるで自虐を込めた物言い。怜弥様のお心の中に悲しさが燻っているようだった。
怜弥様を間近にしていると思うことがある。
高輪でも聞いてはいた。怜弥様との結婚の話はこれまでにも数多くあったことを。凋落しているとは言え上月家ほどの家柄であれば政略結婚を目的とした縁組みを考える家は高輪だけではない。ギンコさんに聞いた話では実際に婚姻の話が進んだことが何度かあるのだとか。
しかしことごとく女性たちは出戻るのだという。
ギンコさんとの会話を思い出していた。
『どこのご令嬢も怜弥様のお顔を直視することができず耐えられなくなってしまうのです。それはもう何年も前からのことでして。怜弥様は長く続く上月家の地を絶やしたくないともお考えになっていらっしゃいます。そのためできることなら結婚したいという思いを抱えていらしゃるのです』
どのような思いがあるにせよ、年を重ねるごとにそのようなことが続き、女性の中にはそれこそおぞましいような暴言を怜弥様に浴びせて逃げて行ったのだとか。そんなことが続けば女性に対して不信にもなるというもの。怜弥様の女性への対応もどんどんと冷たくなっていったそうだ。そのため二十七にもなるというのに怜弥様は独りのままだった。
『ですが……そんなやりとりをすることがお辛くなってしまったようでして、この数年は怜弥様ご自身も消極的なご様子で縁談の話も途絶えておりました。そんな折、高輪様から縁談の話を頂戴しまして。怜弥様としても複雑な心境でいらっしゃるのです』
憂いを込めてわたしに視線を傾けるギンコさんの話からすると、怜弥様のお辛い状況がありありと伝わってきた。
すべての原因は怜弥様から感じる恐ろしい気配にあるのではないかと思う。
これまでに上月家に嫁入りをしようとしていた女性たちも同じように感じていたのだろうか? だとするなら日を置かずに逃げてしまうという話もこのことに関わることがあるように思う。
女中がギンコさん一人しかいないというのもおかしいもの。
女中も使用人も同じことで、怜弥様と直接対面してはいなくとも屋敷にいることを嫌がるようになり、長くいたとしても病に臥して去るのだという。
陰鬱とした重い空気が漂うこのお屋敷がそうさせるのかもしれない。
そういう意味でも怜弥様にとってギンコさんは貴重な存在と言えるのだろう。
「おぞましいなど。おいたわしいと思っております」
一度逸らした顔と視線を向き直して答える。しっかりと怜弥様の瞳を見つめた。
綺麗な瞳だけれども、懐疑的な眼差しがわたしの瞳を窺っている。
怜弥様に触れた時、訳も分からぬ気配に対して恐ろしいと思いはした。けれど、怖い、おぞましいということはこれっぽっちも感じていない。
わたしもまたおぞましいと言われ、穢れていると忌み嫌われ、蔑まされて生きてきたから。怜弥様の傷ついたお心はわたしにもよく分かる。その想いはわたしの言葉に音として怜弥様の耳に響いてるはず。
「……行っていい」
半ば消え入りそうな声に心が痛む。けれども主人の言う通りに行動しなければならない。少し暗い廊下に座して襖を閉める。
縁側から差し込む春の陽射しを背に憂いた表情の怜弥様が襖の隙間からチラリと見えて、なんと美しい人なのだろうかと思ってしまった。そのお顔が爛れていても。
そして幾日。
ギンコさんの体調も良くなってわたしと二人で上月の家を切り盛りしている。主に分担して作業をすることがほとんどで普段の行動はわたし一人だった。
今日もまた広い広いお庭の庭仕事に精を出していた。
「毎度ー! 活きのいい魚と採れたて野菜を持ってきましたよー!」
裏手の方から気風のいい声が聞こえた。三日に一度ほど上月家に出入りをする馴染みの行商さんだ。
「あ。すぐに参ります」
あまり大きな声を出すのは得意ではないので聞こえているかは分からないけれど。草刈りをするための鎌を置いて足早に掛ける。お金が入った巾着はたすき掛けをしている袂に入ってることをしっかり確認した。このお金は上月家の生活費としてギンコさんから渡されているものだ。
慌てて台所に向かうと水を張った桶を手に急いだ。
「お待たせしました」
少しだけ呼吸が早くなった息を落ち着かせながらお辞儀をした。
「こんちは! 今日も天気がいいですねー! 蝦夷でわんさか獲れたニシンが最高だよ! ほら! 生のニシンなんて珍しいでしょう! 大商いが自慢のうちだからこその仕入れでさ! 昔っから世話になってる旦那様の春の訪れに舞い上がっちまって、うちの大旦那が新鮮なうちに持ってけってそりゃあ五月蝿《うるさ》くてねえ!」
春の訪れ? それはどういうことでしょう?
ああ。なるほど。ニシンの謂れについてのことだと思い至った。
元気のいい人だ。捲し立てるくらいの威勢の良さに面食らってしまう。
まだ冷えを感じる青空の下、氷に閉じ込められたお魚がいた。
鮮度の良さそうな生のニシンなんて初めて見る。普通は塩ニシンか身欠きニシンなのに。蝦夷といえば北海道。運んでくる間に傷んでしまうから現地で加工されてくることがほとんどだと聞いたことがある。
「ニシンといえば春告魚《はるつげうお》とも呼ばれる旬の魚ですね」
「おや奥様。よくご存知で! 産卵のために春にやってくる旬の魚ですからね! 春の味わいを楽しんでくださいよ!」
そろそろ冬の終わり。庭木も食卓も春を感じさせる彩りにあふれてくる。金額を聞くとそこまで高くはない。怜弥様は塩焼きも煮付けも好むし買っておこう。毎日お食事をお作りするようになってなんとなく分かることもあるし、ギンコさんから教えていただくこともあってある程度、怜弥様のお好きなお料理も分かってきている。
「ではそれもお願いいたします。あとはいつものようにお豆腐とお野菜と……油揚げを多めにお願いします。それと、お米とお味噌が少なくなってるのですがありますか?」
正直、上月家の厳しい状況からすると油揚げは少しお高いので懐事情が心配になってしまうけれど病に臥す怜弥様が少しでも元気になっていただければとも思う。
「もちろんでさ! 今日も勉強しておまけしときますから! でないと大旦那に怒られちまうんでさ! 旦那様に早くお元気になってもらいたいもんですね! お優しい奥様をお嫁にいただいて旦那様も幸せってなもんですよ!」
「いえ、そんな……」
何度になるか分からない言葉に顔が赤くなってしまった。
わたしの手にしている桶を受け取ってお豆腐を三丁も入れてくれた。いつもは二丁なのに。油揚げも一枚多くしてくれている。
毎回何かしら多めに置いていってくれるので上月家の台所事情も助かるというもの。
他にも荷車から食材を取り揃えてくれている。
この行商さんは少し離れた場所にある大通りで店を構え、帝都で大商いをしている商社の使いの人だ。上月家と商社の大旦那様とは代々からの古い付き合いがあるということらしい。
そのため、ある程度は上月家の現状を承知をしているとのことだった。
それは怜弥様を気遣う行商さんの言葉と立ち居振る舞いにも現れている。
だけれども。気を許して接してくれているだけというわけでもない。
裏門の内側、お屋敷の中には決して踏み込んではこないのだ。商いに精を出す馴染みの業者なら庭内や台所にまで入ってくることは珍しくはない。そうして仲良くなって家のあれこれを観察しては商売に繋げようとするものだから。高輪の家にもそうした業者は複数いた。
それなのに、裏門のすぐそばにすら近づこうとはしない。確かに敬遠されている。買い物が多ければ運んでくれたりもするものなのに。
だから裏門の外に出て代金を支払った後、自分の手で買ったものを少しずつ家の中に持ち運ぶのだ。
「またのご贔屓に! 奥様、失礼致しますよ!」
商売を終えた行商さんが無駄話や世間話をすることなく、そそくさと荷を整えると足早に荷車を引いて行ってしまった。
表情と声の気風はいいけれど、怯えた眼差しと胸の内すべてを隠しきれていないのだと思う。それほどに上月家という存在が恐れられているということが分かってしまう。
「奥様なんて……。いつになっても慣れないわ」
上月の家に嫁いでから幾らかの日が経っている。出入りの業者さんともある程度親しくやりとりをさせてもらうようになっていた。
けれども奥様と呼ばれることにはまったく馴染まない。
「夫婦らしいことは何一つないものね」
夫婦としての営みを望んでいる訳ではない。形だけの結婚にそんな必要はないのだから。ただただ、このお屋敷で黙々と仕事をこなし、怜弥様とギンコさんの不興を買わなければいいのだ。自分の居場所を守るために。そうすれば高輪に出戻るようなことにはならないだろう。あの頃のようないじめや仕打ちを受けなくて済む。
「さあ、早く仕事をしないと日が暮れてしまうわ」
一度では運びきれない食材を順々に台所に運んで整理をした。次いで掃き掃除の続きをするために元の場所へと戻る。
「ギンコさんたらこんなにたくさんの仕事を一人でしていたなんて」
上月家のお屋敷は広い。お屋敷の中はもちろん庭園も広い。朝昼晩と三食の支度にお掃除に来客とのやりとり。言葉にすると簡単だけれど家事を隅々までそつなくこなすのは本当に大変だ。
草刈り鎌を手にせかせかと、だけど丁寧に雑草を掘り起こしていく。根っこを残すとまた生えてきてしまうこともあるから。春先ともなれば辺り一面に雑草が芽吹いて放っておくと草でぼうぼうになってしまう。せっかくの景観が台無しになってしまうので必ず行う仕事の一つだ。
庭と一口に言ってもその広さはかなりのもの。前庭、主庭、中庭、裏庭とあって、かなり広いだけに根気と時間のかかる仕事でもある。日頃の庭の管理は本来であれば庭師さんにお願いするところ、懐事情を鑑みてギンコさんが一人でこなしていたという。
わたしはまだ十八になる歳だけれどもずっと屈んでいると腰に響いてきた。
まだ肌寒い季節ではあるけれど体を動かしていると熱くなってくる。額に浮いた汗を手拭いで拭いつつ、手を動かす。雑草を抜いては集めて、年季の入った竹籠に放り込んでいく。
「ふう。だいぶ綺麗になったかしら」
立ち上がって後ろを振り返るとさっきまでたくさん生えていた雑草が綺麗になくなっている。
「まだ時間があるかしら? もうちょっと進めておかないと……」
空を見上げると日暮れにはまだ時間がありそうだ。割と近くにある大寺院で打たれる夕刻を知らせる鐘の音もまだ響いていない。
「ふ。うーん」
ずっと屈んだままで悲鳴をあげそうになっていた腰に手を当てて足腰を伸ばした。まだまだがんばれそう。
ふと。背中に怖気を感じる。
ひゅっと小さく息を吸い込んでいた。
