狐に嫁入り 溺愛浪漫譚〜冷たい結婚のちに甘々溺愛

「失礼いたします。朝食をお持ちしました」

返事がないのはいつものこと。襖を開けていつものように所作を正して畳に座して礼をする。朝食のお膳を手に足を進めた。

怜弥様が朝から文机に向かい、筆先をインキに浸し万年筆を走らせている。詳しいことは伏せられているが帝都における重要なお仕事を担っているのだという。
毎日のように激しく咳き込み、起きているよりも床に伏せている時間が多いほどお身体が悪いのに。その上、毎日ではなくとも夜のお勤めにもご尽力されているのだ。昨晩もまた出かけていたらしく、履き物が土間に脱ぎ捨てられていた。

その献身的な日々になぜそれほどまでと不思議に思いつつ、何か使命に燃えるお姿を目にすると、わたしもできる限りお手伝いができればと思ってしまうことがある。

「……ギンコはどうした」

こちらを振り返ることもない怜弥様からの冷たい声を耳にすると高輪にいた頃を思い出してしまう。
冬の終わり頃に嫁いできてから、もう桜が咲く頃だというのに今だにわたしへの対応は変わらない。それでも叱責や折檻などがないだけ良いというもの。心身ともに痛い思いをしないだけでも心は随分と軽い。

「ご家族が体調を崩されていらっしゃるということで本日はお休みさせていただいております」

ひいひい孫様のお具合が悪いのだとか。
ギンコさんは齢にして今年七十七を迎えるそうで喜寿のお祝いをしなければと思っている。嫁入りした日からお世話になっている感謝も込めて。とはいえ何か贈り物をするにもお屋敷からまだ一度も外出したことがない。上月家の周辺にある商店も知らないし土地勘などは少しもないのでどうしたものかと思案のしどころだ。

いつにも増して空気が悪く感じられたので障子戸を開け、縁側の硝子戸を開け放つ。春らしい季節。冷たさが少なくなった穏やかな朝の風が吹き込んでくる。

「そうだったな」

用意した食事を黒檀の座卓に並べていると、文机から座卓へと場所を移す怜弥様。

雅な狐の白面から覗く視線を感じた。配膳するわたしのひび割れた手指を見ているらしい。
上月に嫁いでからはいじめのような水仕事をする機会も減っている。だいぶよくなってはいるけれど、仕事に没頭してしまう性分もあってとても美しいと言えるほどにはなってない。
高輪では異形と恐れられていたわたしとて、やはりこんな手を見られるのは恥ずかしくもあり惨めでもあった。
ふと気づく。惨め? そんな風に思ったのはいつぶりだろう。

味噌汁が入ったお腕に手を伸ばす怜弥様の骨ばった手の方がよほど麗しい。お腕に入ったきぬさやと油揚げのお味噌汁を見てるようだった。

「お前がいると食えん。もういいから早く行け」
「はい」

いつもと同じく。わたしがいる前で狐の白面を取ることはなさらない。食事の邪魔にならないように早く退出しなければ。

「ぬ」
「大変! 火傷などはされてはいませんか!」

怜弥様の震えた左手がお椀を落としていた。あぐらをかいていた膝にお椀の中身が全部こぼれて寝巻きを濡らしている。

「体の痛みに比べればどうということはない」
「すぐにお拭きいたします! 濡れた着物を肌から離してください!」

着物の八つ口を前に袂から手拭いを取り出した。
熱い湯で濡れた着物がいつまでも皮膚に貼り付いていると火傷が酷くなってしまう。

「構わん! 俺に触るな!」

怜弥様の脚に貼り付いた裾を引き剥がそうと膝をついたけれど、交代するように立ち上がられてしまった。
日々、顔を合わすことはあるけれど、咳き込む怜弥様の背中をさすった時以来お身体に触れたことはなく、また触れられることもなかった。
触る。ということに極度の拒否反応を示されることもあって必要以上に近づくことはないけれど緊急事態にいてもたってもいられなかった。

居室の角に立てられている二つ折りの衣桁《いこう》に掛けてある着物に着替えようと身につけている着物に手をかけて肩をはだけさせていた。
(衣桁とは着物などを掛けるための鳥居形の家具のこと。一枚の衝立式のものや蝶番で二枚に折りたたむ屏風式のものがある)

白い肌が巻木綿(包帯)の瞳に映る。
怜弥様は病に臥してはいるけれど、お身体自体は不健康、病弱というほど細くはないように見えた。鍛えられた上腕に引き締まった背中。肩もたくましい。どちらかというと筋肉質でお肌の状態も良さそうだ。

「……何を見ている」

雅な白面の内から訝しがる視線を感じた。厚みのある白い胸板が眩しい。

「し、失礼いたしました!」

慌てて下を向いた。うっかり何も疑問に思わず、殿方の着替えを見ようとしてしまっていた。ほとんど背中側だったとはいえ……初めて見てしまった。なんとも気恥ずかしい。
衣擦れの音がわたしの耳に入ってくる。
こんな状況はまったく予想もしていなくて、胸が……動悸がおかしい。顔が熱くなってぎゅっと目をつむっていた。

「あ。油揚げが……」

気を紛らわすように畳に落ちた味噌汁の具を集めてはお椀に戻す。
着替え終えた怜弥様が座卓に戻って座布団に腰を下ろそうとしている。

「あ、あの座布団や畳が濡れてはいないでしょうか?」

手拭いを片手に慌てて足を進めた。

「問題ない。気にするな」

わたしの言葉を気にすることなく座ってしまった。ちらっと見えた感じ、濡れていそうだったけれど。
わたしが手にしているお椀を眺めて少し残念そうに見えるのは気のせいだろうか?

「あの……よろしければお味噌汁をお持ちいたします。きぬさやはもうありませんが油揚げがまだ残っておりますので」
「なに……そうか持ってこい」

あら? 少し声が弾んでいるような。まるで男の子が好きな食べ物を前にした時のような。

「怜弥様。油揚げはお好きですか?」
「む。……答える必要はない」
「ですが……お好きな具材やお料理を知っていた方が……お好みの物もお作りできますので。よろしければお教えください」

わたしの質問に押し黙ってしまった。

「怜弥様?」
「やはり味噌汁はいらん。下がっていい」
「分かりました。お薬はこちらにご用意しておきます」


あまり食い下がっても不興を買うと思って話を終わりにした。
だけどやっぱり油揚げがお好きなんだろう。なんとなく不機嫌な感じが伝わってくる。そして思った。なんて可愛らしい一面があるのかと。
ふと。緩む自身の口元にも、そんなわたしを眺める怜弥様にも気づかなかった。

薬袋と水差し、あぶり出しの技法で作られたタンブラアを座卓に移動する。
儚さも感じられる美しい色合いの乳白硝子《オパールガラス》の模様は匠の職人の手によるものだ。こういった知識は高輪の家で教わった。日頃の扱いはどうあれ政略結婚の道具となるわたしが下手に無教養、無作法では高輪家の恥と躾けられた。
わたしを躾けたのは雇われの老婦人でそれは厳しくされたものだ。恐らくだけどわたしの瞳が異形で穢れていることもあって恐怖に負けじと体罰に変えていたのだろうと思う。
そういう経験もあってギンコさんと最初に接するのは思うところもあった。

「それでは失礼いたします」

怜弥様の言葉の通り退室するために立ち上がる。
夫婦となったのに今だに一度も食事を共にする事はないけれどそれも当然のこと。この結婚は形だけのもの。わたしは女としても伴侶としても見られてはいないのだから。退室するために座して襖に手をかける。
背後から激しく咳き込む音が聞こえた。振り返ると畳に倒れた怜弥様が胸に手をあてて苦しそうにもがいている。

「怜弥様!」

慌てて駆けつけて背中をさすった。思いもかけず触れるなという言いつけを破っていた。
初めて怜弥様に触れた時と同じく、触れた手のひらに伝わる衝撃が恐ろしく感じる。
お屋敷全体に漂う陰鬱な空気。怜弥様の居室はより一層に濃い。怜弥様のお身体、お屋敷の空気、どちらも同じもののように感じる。
これは一体なんなの?

「さ、触るな!」

激しい咳をしながらもそんなことを発する怜弥様に怯むことなく介抱を続ける。例え感じるものがなんであろうとも、明らかに酷い咳をしているのに放っておくような思いにはなれなかったから。

「や、やめろと言っているんだ! 俺に触れるとお前が!」
「あっ」

わたしの手が払われるその拍子に、怜弥様の素顔を隠している朱色が施された狐の白面が畳に転がった。
わたしの瞳に映る。
鼻のあたりから額の上、髪の生え際まで広がるその形相が。青黒く引き攣《つ》れ爛れた様が酷い酷い火傷の痕のようだった。ただ爛れているのではない。まるで呪いでも受けたかのように心の底から恐ろしさを感じさせる面様だった。
だけれどもそれが何だと言うの。

「怜弥様。お身体を。お薬をお飲みになりましょう」

怜弥様の手と肩を抱えて上体を起こす。これだけ接していると巻木綿(包帯)越しでも怜弥様のお顔がよく見える。わたしの荒れた手指などと比べ物にならない。それはそれは酷いものだった。
お顔を見つめつつ、少しでも癒えれば良いのにと、そう願わずにはいられなかった。

タンブラアに水を注いでから薬包紙を広げて怜弥様の口内に散剤をサラサラと落としていく。怜弥様がタンブラアを手にして一息に水を飲み込むと、不思議と激しい咳は落ち着いたようだった。

「なぜ微笑んでいる」

怜弥様が懐疑的な雰囲気を醸しつつ不思議そうな口調で聞いてくる。微笑んだつもりはないのだけれど、わたしの口元が自然と緩んでいたみたいだった。

「安心いたしました。お加減が少しでも良くなったと思いましたので」
「……そうか。すまない」

初めての謝罪の言葉だった。その響きには幾分の感情が込められていてるように感じた。

「だがしかし……俺には二度と触れるな! いいな!」

怜弥様を介抱したわたしに向けられた視線が厳しい。語気も荒い。それほどにわたしのことを嫌っているのでしょう。

「かしこまりました。どうぞ」

主の命には従うもの。わたしの意思はいらないのだ。
そう言葉にしながら狐の白面を拾い上げて、座ったまま怜弥様の隣に膝を寄せて座卓に置く。

「わたしは失礼させていただきます。何かありましたらお呼びください」

あまり長居をしても怜弥様のご気分を害してしまう。

「きゃ」

退室するために腰を上げようと畳に手をついた刹那に袂を掴まれ、思わずつんのめってしまった。

「ぬ」

倒れそうになったわたしの肩に怜弥様の手が添えられる。おかげで倒れずに済みはしたのだけれども。

「あ、ありがとうございます。あ、あの何か?」

肩を支える手がすぐに離れた。触れるなと言うだけあって素早い。わたしから触れた訳ではないし、叱責されるようなことはないと思うけれど。
袂を掴まれたのはなぜ?

そんな疑問を思うわたしの眼前に狐面のない怜弥様のお顔が露わとなっている。先ほどよりも心なしか辛さが和らいでいるように見える。だけれどもやはり哀しいほどに酷い。
怜弥様のお心が少しでも楽になるように癒やして差し上げる方法はないでしょうか。と耽りながらお顔を見つめていた。

巻木綿(包帯)に隠されたわたしの瞳を怜弥様の視線が覗いているように感じる。
怜弥様が気づいているかは分からないけれど、確かにわたしの瞳と視線が合っていた。あまりにも近い距離で見つめ合っている状況に戸惑ってしまう。そう。心臓が変な音を立てるくらいには。
ふと視線と顔を逸らしてしまった。そんなわたしの様子を間近にする怜弥様の表情が少し曇ったことには気づかなかった。