お屋敷には関守石《せきもりいし》が各所に配置されていて認めない者を拒む結界になっている。
だから安全ではあるはず。
それでも、怜弥様がわたしから離れることはなかった。
夜な夜な外出なさるお勤めも一切お止めになって毎晩お屋敷を守られている。
いえ、きっとわたしのためにそうしていただけている。
そう思うと心に安らぎを覚える。
守られているという、今まで生きてきて初めてのことに喜びを感じていた。
そんな日々を送るある日のこと。
「あ、あの。ギンコさん。わたしは変ではないでしょうか?」
全身を映すことができる姿見の前で、おかしくないかと不安に思いながらゆっくりと一回転してみる。わたしがこんな装いをしているなんてとても信じられない。
「まあまあ。流行りの洋装がとても素敵ですよ」
スカート丈はひざ下。襟がなく袖のないゆったりとした着心地。腰部分はひだになっていて裾が広がっているせいかスースーして落ち着かない。
植物の模様が可愛らしい。これも流行りの女性の美しさなのだとか。
「帽子はどうなさいますか?」
クロッシェ帽という帽子を手渡された。
鏡を前に被ってみる。頭にぴったりな釣り鐘型の帽子を被ると、目深になって両眼がつばに隠れるくらい。
わたしには分からないけれど優雅で上品な女性らしい印象なのだという。
「日向」
「ひゃい!」
突然に背後から声をかけられてまた飛び上がってしまった。
いつものことですが心臓に悪いです。
白い寝巻き姿のままの怜弥様が襖を開けて柱に背をもたれていた。朱色が施された狐の白面は変わらず頭の横につけている。
「ふふ。よく似合っているぞ」
唐突に褒められて顔が赤くなってしまう。
「あ、ありがとうございます。こんなに素敵なお召し物をご用意いただきまして、その……嬉しいです。ですが……あの、大丈夫なのでしょうか?」
ご用意いただいたのは十着ほどもあった。
いつもお世話になっている商社から買い入れたものとこと。
これだけたくさんあるとなると、どうしてもお財布の中身が気になってしまう。
「ふ。気にするな。それよりも今日一日を心から楽しむといい」
「は、はい」
今日一日のことを想像して……わたしの中にウキウキとする自分がいることに驚きを隠せません。
遠慮という気持ちがどうしてもあるけれども、期待という想いで胸が膨らんでしまう。
「あらあら。怜弥様。まだそのような格好で。女性の着替えの最中はご遠慮くださいませ」
「わ、分かってる。もう着替えは終わってるだろう。だが帽子は良くないな」
ギンコさんからの指摘に少しだけ焦る素振りを見せる怜弥様がかわいい。
ふふ。これもまた新発見です。
「なぜですか?」
「日向の可愛い顔が見えない。こちらのリボンにしておけ」
「ひう」
クロッシェ帽を奪われて雛菊の飾りがついた大きなリボンを頭の上に置かれた。
か、可愛いだなんて……恥ずかしくてうつむいてしまいます。
その拍子にリボンが胸の前で組んでいた手に落ちてきた。
「準備ができたら先に行っていろ。これも忘れるな」
「はい」
手渡されたお守りと丸眼鏡を受け取った。
巻木綿(包帯)はもう必要ないのだ。
怜弥様にご手配いただいたタクリー車に乗って上月のお屋敷から都心へと出発した。
乗り心地があまりいいとは言えない道路事情からくる揺れを感じながら手渡されたお守りをぎゅっと手にする。
中には上月家をお守りいただいている神様の加護をいただいた護符が入っているという。
ほんの少しの間、わたしという存在を悪しき心を持つ者から隠してくれるというものらしい。
文明開化の華が咲く街並みが目に映る。
高輪を出た時は色褪せて見えていた光景が今はとても色付いてキラキラと輝いていた。
この辺りに来ると新しい技術で道路が整備されていて揺れもそれほど感じない。
「奥様。ご指定の場所に到着いたしました」
「はい。ここまでありがとうございます」
丸眼鏡を身につけたわたしに怯えることなく、運転手の男性が車のドアを開けてくれる。
ゆっくりと煉瓦が敷かれた歩道に降りる。着物と違って洋装だと楽に降りることができた。
スカートの裾が気になるけれど。生足が大きく見えてしまうのはどうにも慣れません。
車を見送ってから街並みを見渡した。
たくさんの建物と賑わう人であふれている。
暗くなれば明かりが灯されるガス灯に、初夏の陽射しを受けて緑が眩しい桜の街路樹。人とすれ違いながら目的地を目指す。
「ええと。怜弥様と待ち合わせをしている時計塔は……」
見上げると見つけることができた。
約束の時間にぴったり。
時計から視線を下ろす。
下ろした先に、朱色が施された狐の白面を見つけた。
襟締《ネクタイ》をした背広《スーツ》姿の怜弥様がいる。
着物とは違った凛々しさに思わず息を呑んでしまった。
背広《スーツ》姿でも狐の白面は変わらず頭の横につけている。
「す、すいません。お待たせしてしまいましたか?」
「待ちくたびれた。例え一分一秒だとて日向と離れていることは耐えられん」
はう。
また心臓に悪いことをおっしゃる。
「あ、あの、あの、大変申し訳ありません」
とにもかくにも謝罪の意思を示すために頭を深々と下げた。
「ふ。今のは本心だが、俺も到着したのは今だ。だから謝るな。俺に頭を下げるなんてことは今後一切しなくていい。行くぞ」
「は、はい」
頭を下げなくてもいいと言う。
それはわたしにとってはとても難しいことで。だけれども、そんな気遣いをいただくこともわたしのことを思っていただけていると感じられることで。
嬉しい、という思いがまた生まれる。
怜弥様の導きのまま、半歩下がってお隣をついてゆく。
今日の予定は知らない。
全部、殿方におまかせするものだから。
貴族社会を舞台にした悲恋が主体の活動写真《キネマ》を見ながら涙があふれてしまった。
「俺は日向に悲しい思いなどさせない」と隣の席から耳元で囁かれ手を優しく握られる。
表通りに出ると人が大勢いるというのに手を引かれて顔が赤くなってしまっていた。
人前で手を繋ぐなんてはしたないことを……恥ずかしいけれど、今までのわたしからはあり得ない状況に心臓が早鐘を打つほど胸が高鳴っていた。
「あの。こんなことをしていてもよろしいのでしょうか?」
「今日は初代帝が崩御したという謂れのある祭日だ。今日という日ばかりは国中が神気にあふれているから厄もおとなしい。それに毎日気を張っていてもしょうがない。少しは癒やしの日があっても良いだろう? 俺にも、日向にもな」
「それはそうですが……それでしたらゆっくりと過ごされた方が良かったのではないでしょうか?」
「何を言う。俺の癒やしは日向。お前と共にいる時間しか考えられない」
「ひう」
息が止まる。
呼吸を忘れてしまう。
あまりにも跳ね上がる心臓の鼓動に……。
耐えらそうもありません。
だから安全ではあるはず。
それでも、怜弥様がわたしから離れることはなかった。
夜な夜な外出なさるお勤めも一切お止めになって毎晩お屋敷を守られている。
いえ、きっとわたしのためにそうしていただけている。
そう思うと心に安らぎを覚える。
守られているという、今まで生きてきて初めてのことに喜びを感じていた。
そんな日々を送るある日のこと。
「あ、あの。ギンコさん。わたしは変ではないでしょうか?」
全身を映すことができる姿見の前で、おかしくないかと不安に思いながらゆっくりと一回転してみる。わたしがこんな装いをしているなんてとても信じられない。
「まあまあ。流行りの洋装がとても素敵ですよ」
スカート丈はひざ下。襟がなく袖のないゆったりとした着心地。腰部分はひだになっていて裾が広がっているせいかスースーして落ち着かない。
植物の模様が可愛らしい。これも流行りの女性の美しさなのだとか。
「帽子はどうなさいますか?」
クロッシェ帽という帽子を手渡された。
鏡を前に被ってみる。頭にぴったりな釣り鐘型の帽子を被ると、目深になって両眼がつばに隠れるくらい。
わたしには分からないけれど優雅で上品な女性らしい印象なのだという。
「日向」
「ひゃい!」
突然に背後から声をかけられてまた飛び上がってしまった。
いつものことですが心臓に悪いです。
白い寝巻き姿のままの怜弥様が襖を開けて柱に背をもたれていた。朱色が施された狐の白面は変わらず頭の横につけている。
「ふふ。よく似合っているぞ」
唐突に褒められて顔が赤くなってしまう。
「あ、ありがとうございます。こんなに素敵なお召し物をご用意いただきまして、その……嬉しいです。ですが……あの、大丈夫なのでしょうか?」
ご用意いただいたのは十着ほどもあった。
いつもお世話になっている商社から買い入れたものとこと。
これだけたくさんあるとなると、どうしてもお財布の中身が気になってしまう。
「ふ。気にするな。それよりも今日一日を心から楽しむといい」
「は、はい」
今日一日のことを想像して……わたしの中にウキウキとする自分がいることに驚きを隠せません。
遠慮という気持ちがどうしてもあるけれども、期待という想いで胸が膨らんでしまう。
「あらあら。怜弥様。まだそのような格好で。女性の着替えの最中はご遠慮くださいませ」
「わ、分かってる。もう着替えは終わってるだろう。だが帽子は良くないな」
ギンコさんからの指摘に少しだけ焦る素振りを見せる怜弥様がかわいい。
ふふ。これもまた新発見です。
「なぜですか?」
「日向の可愛い顔が見えない。こちらのリボンにしておけ」
「ひう」
クロッシェ帽を奪われて雛菊の飾りがついた大きなリボンを頭の上に置かれた。
か、可愛いだなんて……恥ずかしくてうつむいてしまいます。
その拍子にリボンが胸の前で組んでいた手に落ちてきた。
「準備ができたら先に行っていろ。これも忘れるな」
「はい」
手渡されたお守りと丸眼鏡を受け取った。
巻木綿(包帯)はもう必要ないのだ。
怜弥様にご手配いただいたタクリー車に乗って上月のお屋敷から都心へと出発した。
乗り心地があまりいいとは言えない道路事情からくる揺れを感じながら手渡されたお守りをぎゅっと手にする。
中には上月家をお守りいただいている神様の加護をいただいた護符が入っているという。
ほんの少しの間、わたしという存在を悪しき心を持つ者から隠してくれるというものらしい。
文明開化の華が咲く街並みが目に映る。
高輪を出た時は色褪せて見えていた光景が今はとても色付いてキラキラと輝いていた。
この辺りに来ると新しい技術で道路が整備されていて揺れもそれほど感じない。
「奥様。ご指定の場所に到着いたしました」
「はい。ここまでありがとうございます」
丸眼鏡を身につけたわたしに怯えることなく、運転手の男性が車のドアを開けてくれる。
ゆっくりと煉瓦が敷かれた歩道に降りる。着物と違って洋装だと楽に降りることができた。
スカートの裾が気になるけれど。生足が大きく見えてしまうのはどうにも慣れません。
車を見送ってから街並みを見渡した。
たくさんの建物と賑わう人であふれている。
暗くなれば明かりが灯されるガス灯に、初夏の陽射しを受けて緑が眩しい桜の街路樹。人とすれ違いながら目的地を目指す。
「ええと。怜弥様と待ち合わせをしている時計塔は……」
見上げると見つけることができた。
約束の時間にぴったり。
時計から視線を下ろす。
下ろした先に、朱色が施された狐の白面を見つけた。
襟締《ネクタイ》をした背広《スーツ》姿の怜弥様がいる。
着物とは違った凛々しさに思わず息を呑んでしまった。
背広《スーツ》姿でも狐の白面は変わらず頭の横につけている。
「す、すいません。お待たせしてしまいましたか?」
「待ちくたびれた。例え一分一秒だとて日向と離れていることは耐えられん」
はう。
また心臓に悪いことをおっしゃる。
「あ、あの、あの、大変申し訳ありません」
とにもかくにも謝罪の意思を示すために頭を深々と下げた。
「ふ。今のは本心だが、俺も到着したのは今だ。だから謝るな。俺に頭を下げるなんてことは今後一切しなくていい。行くぞ」
「は、はい」
頭を下げなくてもいいと言う。
それはわたしにとってはとても難しいことで。だけれども、そんな気遣いをいただくこともわたしのことを思っていただけていると感じられることで。
嬉しい、という思いがまた生まれる。
怜弥様の導きのまま、半歩下がってお隣をついてゆく。
今日の予定は知らない。
全部、殿方におまかせするものだから。
貴族社会を舞台にした悲恋が主体の活動写真《キネマ》を見ながら涙があふれてしまった。
「俺は日向に悲しい思いなどさせない」と隣の席から耳元で囁かれ手を優しく握られる。
表通りに出ると人が大勢いるというのに手を引かれて顔が赤くなってしまっていた。
人前で手を繋ぐなんてはしたないことを……恥ずかしいけれど、今までのわたしからはあり得ない状況に心臓が早鐘を打つほど胸が高鳴っていた。
「あの。こんなことをしていてもよろしいのでしょうか?」
「今日は初代帝が崩御したという謂れのある祭日だ。今日という日ばかりは国中が神気にあふれているから厄もおとなしい。それに毎日気を張っていてもしょうがない。少しは癒やしの日があっても良いだろう? 俺にも、日向にもな」
「それはそうですが……それでしたらゆっくりと過ごされた方が良かったのではないでしょうか?」
「何を言う。俺の癒やしは日向。お前と共にいる時間しか考えられない」
「ひう」
息が止まる。
呼吸を忘れてしまう。
あまりにも跳ね上がる心臓の鼓動に……。
耐えらそうもありません。
