「はあ」
温かい。
両手で口元を覆い、凍るほどに冷たい空気を吸い込んで、冷えた肺から搾り出すようにして息を吐いた。
ひび割れた指と指の間から白い吐息が漏れては消えていく。
嫁入りが決まっても、嫁ぐその日まで変わらぬ毎日。息が白く凍りつくほど冷たい雪が降り積もる朝。誰よりも早く起き、凍えるほどに冷えた雑巾で廊下を拭き、飯を炊き、風呂や厠を磨く。ひび割れた手指は赤く腫れて、肌は乾燥でカサついていた。
「お嬢様。板間を綺麗にするために新しい清水をお持ちいたしました。ぜひお使いになってくださいませ!」
まだ床吹きを終えていない居室で雑巾を手にしていたわたしの目の前で水がぶちまけられていた。女中の手に構えられた桶から水が滴っている。
「帝都の地下水は清廉ですからさぞ美しく磨かれるでしょう」
「私たちは別室を掃除しに参りますので」
「あとはお願い申し上げます」
わたしと年端の変わらない女中二人が嘲笑っている。桶がガラリと音を立てて床に転がされた。
冷たい板間に直立したまま、表情をひとつも変えないわたしを目にした二人が忌々しげな目元を作って立ち去っていく。
あの二人は今年になってから雇われた使用人だ。長いこと雇われているものならば、わたしを目の前にするとあのような態度を取らずに逃げていく者も多いから。
同じ場所で仕事をすることがあれば、わたし一人だけ残されて仕事をこなすこともある。
新人だからこその振る舞いと言えるだろう。それは裏返せばわたしという存在が使用人よりも軽んじられているということに他ならず。
転がる桶を手に置き直した。この桶は井戸場にあったものだろう。わざわざ井戸水を汲んでまでこんな仕打ちをするなんてご苦労なこととも言えるかもしれない。
固く絞った雑巾を手に水溜りの端から拭っていった。冷えた床よりも冷たい。雑巾に冷水を含ませては桶の上で絞って水を落としてゆく。捻れる雑巾が荒れた手に食い込むようだ。冷たく凍えた手は痛みを通り越している。こんなことをしてはさらに手指が荒れることだろう。
板間に膝をついて、ひたすら黙々と冷水を吸い上げた雑巾を絞っていると視線の先に白い足袋が現れた。
「またこのようなことを……」
年老いた声を耳にして顔を上げた。眉間に皺を寄せて、まだまだ水溜りの広がる板間を視線だけで追いかけている。
いつの間に部屋に入ってきたのか、齢にして八十を超える女中頭がいた。足腰も健康そのもので、この十数年は風邪ひとつ病のひとつも罹らずに日々の勤めをこなしている。
「すぐに綺麗にいたします」
「わたしを穢れた目で見るでないよ!」
「失礼いたしました」
すぐに頭を下げて瞳を伏せた。
またわたしの瞳の色と形が変わっているのだろう。忌々しげな苦い顔で見下ろされている。
「お嬢様。綺麗にとおっしゃるなら忌まわしいその瞳を誰にもお見せにならないように。家が穢れます。即刻、板間を吹き上げてご自身のお部屋に引き篭もっていただきたい」
厳しい口調で吐き捨てられた。すべてを言い終える前に廊下へと歩いていく。わたしと女中頭のやりとりを目にしていた中年の女中と男の使用人を睨みつけて廊下へと消えていく。
わたしと目の合った二人が「ひい」と悲鳴をあげて足早に去っていった。
この一連の流れは毎日のように起こる出来事だ。
父と母から家の仕事をするようにと命じられているわたしが部屋に引き篭もっていられるわけもなく。その事情を知っているのに部屋に戻れと言う。
そんなことをしたら厳しい仕置きが待っているのを分かった上でのことだ。
使用人たちにしてもそう。わたしという異形の化け物を目にして恐れるものもいれば嘲笑うものもいる。
この家におけるわたしの立場はないに等しいどころか消え去って欲しいものなのだろう。
「お湯がぬるいのよ! わたしが病に倒れたらどうするつもり!」
家の外にある風呂釜に薪をくべていると、頭上の格子戸から降り注ぐ冷水がわたしの頭を濡らした。
髪の隙間から滴る冷水が着物に染みる。
入浴する妹のために薪風呂を炊いていた。風呂から漏れる明かりを頼りに、寒い外気に晒されながら火ばさみを手にしている。
風呂焚きで少しでも湯の加減が悪ければ心臓が凍えるほどの冷水を浴びせられる。
「お風呂のひとつもうまくできないなんてほんとにお姉様は無能ね。せめて夕食の用意や掃除くらいは無様な姿を晒さないでもらいたいわ。わたしの滅炎《ほろほの》で灼かれたくはないでしょう?」
給仕が遅れれば足蹴にされ、埃の一つでもあれば異能の炎で灼かれる。双子の妹にとって姉であるわたしという存在は清浄の炎で妬きたいくらいに目障りなのだろう。
「そういえば……先日に灼いた腕の火傷がどうなったか見せてごらんなさいよ」
格子戸から顔だけを覗かせてわたしを見下ろしていた。
腕の火傷というのは、ほんの数日前に灼かれてできた新しい傷のことだった。特になにか失敗をしたわけでもないのに、庭仕事をしていたわたしへと唐突に清浄の炎を向けられたのだ。
「早く見せなさい! お風呂に入っていないと寒いのよ!」
妹の言葉に微動だにしないでいたらまたも冷水を浴びせられた。
着物の袖を捲ると、他に比べて生まれたばかりのような白い肌が見えている。
「嘘。もう治ってる。肩の火傷も綺麗になっていたし……気味が悪いわ」
侮蔑を含んだ顔が格子戸から見えなくなった。漏れ聞こえた妹の恐れるような声には真実味があった。
なぜか火傷の治りの早いわたしを恐れつつ、半ば面白半分に異能の実験台にされることもある。幼い頃から変わらない日々だった。
そして。とうとうわたしの嫁入りの日がやってきた。家族の誰にも見送られることなくわたしと使用人だけがいる。この日だけはお嬢様のように扱われ、上等の華やかな着物に身を包んでいた。
「お、お嬢様。お車に」
西洋から輸入したばかりの四輪自動車のドアを開ける運転手の白い手袋が怯えている。わたしと目を合わせようとは決してしない。わたしの瞳が違う色に光って形が変わっているのだろうか。
「目隠しはしないといけないのだけれど……到着するまでこのままでよろしいでしょうか?」
「それは! い、いえ……はい」
怯える声を尻目に屋敷を振り返る。西洋の建築様式で建てられた煉瓦造りの館。四季折々の花々が咲き誇る西洋式の庭園。政財界の要人を招き立食を伴う酒席《パーティー》が開けるほどの屋敷。数台の高級車と合わせて高輪家の繁栄の象徴と言えるかもしれない。
もうここに足を踏み入れることは二度とないだろう。
そして、わたしを運ぶための四輪自動車の後には、螺鈿細工や箔押しが施された調度品に装飾品など高価な嫁入り道具の数々が載せられた荷車が並んでいる。
高輪家から多額の資金援助を受けるほど経済状況の悪い上月家から結納金があるわけもなく。わたしの嫁入りにあたって世間様に高輪家の威厳と格を知らしめるために用意されたもの。ただただお父様とお母様の見栄を張りたいだけのものだ。妹の嫁入りの日には何倍もの嫁入り道具が用意されるだろう。
小さく悲鳴を漏らして恐れる運転手の手を借りて、開かれたドアから後部座席に腰を掛けて乗り込む。着物ではなんとも乗りづらい。
都心の大通りに差し掛かって、ゆっくりと進む車内から目にする光景。西洋式の建築物が建ち並ぶ通りでぶらぶらと歩く人々。ダウンスタイルの長髪に可愛らしく大きなリボンをつけた洋装の女性たち。紋付袴や背広《スーツ》に山高帽《ボーラーハット》、御杖《ステッキ》を手にした紳士たち。
流行を追いかける帝都の街並みは華やかなはずの光景なのに色褪せて見えてしまう。
西洋の習慣や技術を模範として帝都の近代化がさらに進んでいる。その華やかさの裏で暗い影を落とす現実がある。
帝都で平和に暮らせるのは街を行き交う人々一人一人の努力だけではない。この国に蔓延る厄に立ち向かう帝国軍人のおかげでもある。人々の生命と健全な精神を蝕み災いもたらす存在がいるのだ。時に鬼と呼ばれ、魔とも呼ばれる厄と言われる異形の者たち。きっと妹の葵様も何がしかの形で人々のために役に立つことがあるのだろう。
目の色と形が変わることになんの力もなく穢れとしてただただ恐れられるだけ、という無能のわたしとは違って。
「そ、そろそろ到着いたします」
「はい」
見れば白漆喰の土塀が長く続いている。旧家と名高いだけあってその敷地は広そうに思われる。
穢れた目を隠さなければ。
巻木綿(包帯)を巻いていく。うっすらとではあるけれど見えているので慎重に歩けば転ぶことはない。
見上げるほどに立派な面門のすぐ目の前で車が停められた。屋敷の門というものは通常閉められているはずなのに開け放たれていた。
運転手の手で車のドアが開けられたので座席から腰をあげた。着物では降りるのもひと苦労だ。
「運転、ありがとうございました」
わたしを恐れる風にして縮こまる運転手の労を労うために深く礼をした。どうあれ、わたしのようなもののために働いてもらっているのだから感謝の気持ちはある。
「わ、わたしはこれで失礼します」
「? 持参品がまだのようですがどうしたら良いでしょう?」
嫁入り道具を運ぶ足は荷車だから後からくるはず。
到着したのはわたし一人で、このまま門をくぐっても良いものか判断しかねたし、どう振る舞えばいいかなど教わることもまったくなかったのだ。
「……こ、こちらには参りません。途中で引き返し葵様の嫁入り道具として保管されると聞いております。お荷物はこちらに。では」
助手席に乗せられた少ない荷物を手渡され、運転手がもう関わりたくないとばかりに運転席に慌てて乗り込んでいる。音を立ててドアを閉めると、車が煙を吐いて行ってしまった。呆然とするわたしを残して。
そう……わたしの持ち物はこれしかないのね。
身につけている一枚の高価な着物。荷物の中身は使用人として身につけていた着物に寝巻き。ささやかな化粧道具。だから手荷物に入れろと言われたんだ。
その事実を知ってもなお涙の一粒すら出ない。日々のどんな仕打ちでも泣いたことはしばらくなかった。
わたしは高輪家にとって本当にいらない存在なんだ。
「もし。日向様ではございませんか?」
振り返ると銀髪の老婦人が穏やかに佇んでいた。少し気を遣うように。
「はい。……高輪家の長女、日向でございます。突然のご無礼をお許しください」
「ようこそおいでくださいました。わたくしはこちらにお仕えしているギンコと申します。お話は伺っております。なにもご心配なされませんよう」
老婦人の物言いは穏やかで静かに心に沁みるようだった。
許嫁として嫁入りするはずだった妹がわたしという無能者に交代するあり得ない事実があるのにも関わらず微笑みさえ浮かべてくれている。
「あら。狐の嫁入りですわね。ずっと雨なんて降ってませんでしたのに」
老婦人が空を見遣っていた。つられて見上げると頬に冷たい雫が流れる。快晴にも関わらずしとしとと雨が降り始めた。
雨の少ない季節だというのに。まるでわたしというよそ者が訪れることに拒否を示されているのではと感じてしまう。
「あらあら。せっかくのお着物が濡れてしまいます。当主の元へご案内いたしますのでこちらへ」
導かれるままに足を進める。
門をくぐるとかなり大きな平屋の屋敷が目に映った。
ふと関守石《せきもりいし》があることに気づいたけれど問題はないだろう。それよりも敷地内に足を踏み入れたあたりから陰鬱な気配が体にまとわりついて寒気が走るようだった。
まだ蕾のままでいる梅の花に気づくことも通り過ぎてしまう。そんなことに気を配れるような心はなかったから。
「こちらに当家当主がおります」
大戸口からずっと老婦人の後をついて広いお屋敷の中を歩いた。最後の導きで襖を開ける。
巻木綿(包帯)の向こうにうっすらと人影が見えた。
上月家当主である上月怜弥《こうづきれいや》様がいる。
畳に座して指をつく。叱責されないように所作を正す。畳に手のひらを預け深く深く礼をする。
「高輪家から参りました。日向と申します」
わたしのようなものがなんと言われるか。
だけど何も考えなくていい。
わたしはただ……生きているだけ。
感情はいらない。
心もいらない。
心臓の音だけがわたしのもの。
温かい。
両手で口元を覆い、凍るほどに冷たい空気を吸い込んで、冷えた肺から搾り出すようにして息を吐いた。
ひび割れた指と指の間から白い吐息が漏れては消えていく。
嫁入りが決まっても、嫁ぐその日まで変わらぬ毎日。息が白く凍りつくほど冷たい雪が降り積もる朝。誰よりも早く起き、凍えるほどに冷えた雑巾で廊下を拭き、飯を炊き、風呂や厠を磨く。ひび割れた手指は赤く腫れて、肌は乾燥でカサついていた。
「お嬢様。板間を綺麗にするために新しい清水をお持ちいたしました。ぜひお使いになってくださいませ!」
まだ床吹きを終えていない居室で雑巾を手にしていたわたしの目の前で水がぶちまけられていた。女中の手に構えられた桶から水が滴っている。
「帝都の地下水は清廉ですからさぞ美しく磨かれるでしょう」
「私たちは別室を掃除しに参りますので」
「あとはお願い申し上げます」
わたしと年端の変わらない女中二人が嘲笑っている。桶がガラリと音を立てて床に転がされた。
冷たい板間に直立したまま、表情をひとつも変えないわたしを目にした二人が忌々しげな目元を作って立ち去っていく。
あの二人は今年になってから雇われた使用人だ。長いこと雇われているものならば、わたしを目の前にするとあのような態度を取らずに逃げていく者も多いから。
同じ場所で仕事をすることがあれば、わたし一人だけ残されて仕事をこなすこともある。
新人だからこその振る舞いと言えるだろう。それは裏返せばわたしという存在が使用人よりも軽んじられているということに他ならず。
転がる桶を手に置き直した。この桶は井戸場にあったものだろう。わざわざ井戸水を汲んでまでこんな仕打ちをするなんてご苦労なこととも言えるかもしれない。
固く絞った雑巾を手に水溜りの端から拭っていった。冷えた床よりも冷たい。雑巾に冷水を含ませては桶の上で絞って水を落としてゆく。捻れる雑巾が荒れた手に食い込むようだ。冷たく凍えた手は痛みを通り越している。こんなことをしてはさらに手指が荒れることだろう。
板間に膝をついて、ひたすら黙々と冷水を吸い上げた雑巾を絞っていると視線の先に白い足袋が現れた。
「またこのようなことを……」
年老いた声を耳にして顔を上げた。眉間に皺を寄せて、まだまだ水溜りの広がる板間を視線だけで追いかけている。
いつの間に部屋に入ってきたのか、齢にして八十を超える女中頭がいた。足腰も健康そのもので、この十数年は風邪ひとつ病のひとつも罹らずに日々の勤めをこなしている。
「すぐに綺麗にいたします」
「わたしを穢れた目で見るでないよ!」
「失礼いたしました」
すぐに頭を下げて瞳を伏せた。
またわたしの瞳の色と形が変わっているのだろう。忌々しげな苦い顔で見下ろされている。
「お嬢様。綺麗にとおっしゃるなら忌まわしいその瞳を誰にもお見せにならないように。家が穢れます。即刻、板間を吹き上げてご自身のお部屋に引き篭もっていただきたい」
厳しい口調で吐き捨てられた。すべてを言い終える前に廊下へと歩いていく。わたしと女中頭のやりとりを目にしていた中年の女中と男の使用人を睨みつけて廊下へと消えていく。
わたしと目の合った二人が「ひい」と悲鳴をあげて足早に去っていった。
この一連の流れは毎日のように起こる出来事だ。
父と母から家の仕事をするようにと命じられているわたしが部屋に引き篭もっていられるわけもなく。その事情を知っているのに部屋に戻れと言う。
そんなことをしたら厳しい仕置きが待っているのを分かった上でのことだ。
使用人たちにしてもそう。わたしという異形の化け物を目にして恐れるものもいれば嘲笑うものもいる。
この家におけるわたしの立場はないに等しいどころか消え去って欲しいものなのだろう。
「お湯がぬるいのよ! わたしが病に倒れたらどうするつもり!」
家の外にある風呂釜に薪をくべていると、頭上の格子戸から降り注ぐ冷水がわたしの頭を濡らした。
髪の隙間から滴る冷水が着物に染みる。
入浴する妹のために薪風呂を炊いていた。風呂から漏れる明かりを頼りに、寒い外気に晒されながら火ばさみを手にしている。
風呂焚きで少しでも湯の加減が悪ければ心臓が凍えるほどの冷水を浴びせられる。
「お風呂のひとつもうまくできないなんてほんとにお姉様は無能ね。せめて夕食の用意や掃除くらいは無様な姿を晒さないでもらいたいわ。わたしの滅炎《ほろほの》で灼かれたくはないでしょう?」
給仕が遅れれば足蹴にされ、埃の一つでもあれば異能の炎で灼かれる。双子の妹にとって姉であるわたしという存在は清浄の炎で妬きたいくらいに目障りなのだろう。
「そういえば……先日に灼いた腕の火傷がどうなったか見せてごらんなさいよ」
格子戸から顔だけを覗かせてわたしを見下ろしていた。
腕の火傷というのは、ほんの数日前に灼かれてできた新しい傷のことだった。特になにか失敗をしたわけでもないのに、庭仕事をしていたわたしへと唐突に清浄の炎を向けられたのだ。
「早く見せなさい! お風呂に入っていないと寒いのよ!」
妹の言葉に微動だにしないでいたらまたも冷水を浴びせられた。
着物の袖を捲ると、他に比べて生まれたばかりのような白い肌が見えている。
「嘘。もう治ってる。肩の火傷も綺麗になっていたし……気味が悪いわ」
侮蔑を含んだ顔が格子戸から見えなくなった。漏れ聞こえた妹の恐れるような声には真実味があった。
なぜか火傷の治りの早いわたしを恐れつつ、半ば面白半分に異能の実験台にされることもある。幼い頃から変わらない日々だった。
そして。とうとうわたしの嫁入りの日がやってきた。家族の誰にも見送られることなくわたしと使用人だけがいる。この日だけはお嬢様のように扱われ、上等の華やかな着物に身を包んでいた。
「お、お嬢様。お車に」
西洋から輸入したばかりの四輪自動車のドアを開ける運転手の白い手袋が怯えている。わたしと目を合わせようとは決してしない。わたしの瞳が違う色に光って形が変わっているのだろうか。
「目隠しはしないといけないのだけれど……到着するまでこのままでよろしいでしょうか?」
「それは! い、いえ……はい」
怯える声を尻目に屋敷を振り返る。西洋の建築様式で建てられた煉瓦造りの館。四季折々の花々が咲き誇る西洋式の庭園。政財界の要人を招き立食を伴う酒席《パーティー》が開けるほどの屋敷。数台の高級車と合わせて高輪家の繁栄の象徴と言えるかもしれない。
もうここに足を踏み入れることは二度とないだろう。
そして、わたしを運ぶための四輪自動車の後には、螺鈿細工や箔押しが施された調度品に装飾品など高価な嫁入り道具の数々が載せられた荷車が並んでいる。
高輪家から多額の資金援助を受けるほど経済状況の悪い上月家から結納金があるわけもなく。わたしの嫁入りにあたって世間様に高輪家の威厳と格を知らしめるために用意されたもの。ただただお父様とお母様の見栄を張りたいだけのものだ。妹の嫁入りの日には何倍もの嫁入り道具が用意されるだろう。
小さく悲鳴を漏らして恐れる運転手の手を借りて、開かれたドアから後部座席に腰を掛けて乗り込む。着物ではなんとも乗りづらい。
都心の大通りに差し掛かって、ゆっくりと進む車内から目にする光景。西洋式の建築物が建ち並ぶ通りでぶらぶらと歩く人々。ダウンスタイルの長髪に可愛らしく大きなリボンをつけた洋装の女性たち。紋付袴や背広《スーツ》に山高帽《ボーラーハット》、御杖《ステッキ》を手にした紳士たち。
流行を追いかける帝都の街並みは華やかなはずの光景なのに色褪せて見えてしまう。
西洋の習慣や技術を模範として帝都の近代化がさらに進んでいる。その華やかさの裏で暗い影を落とす現実がある。
帝都で平和に暮らせるのは街を行き交う人々一人一人の努力だけではない。この国に蔓延る厄に立ち向かう帝国軍人のおかげでもある。人々の生命と健全な精神を蝕み災いもたらす存在がいるのだ。時に鬼と呼ばれ、魔とも呼ばれる厄と言われる異形の者たち。きっと妹の葵様も何がしかの形で人々のために役に立つことがあるのだろう。
目の色と形が変わることになんの力もなく穢れとしてただただ恐れられるだけ、という無能のわたしとは違って。
「そ、そろそろ到着いたします」
「はい」
見れば白漆喰の土塀が長く続いている。旧家と名高いだけあってその敷地は広そうに思われる。
穢れた目を隠さなければ。
巻木綿(包帯)を巻いていく。うっすらとではあるけれど見えているので慎重に歩けば転ぶことはない。
見上げるほどに立派な面門のすぐ目の前で車が停められた。屋敷の門というものは通常閉められているはずなのに開け放たれていた。
運転手の手で車のドアが開けられたので座席から腰をあげた。着物では降りるのもひと苦労だ。
「運転、ありがとうございました」
わたしを恐れる風にして縮こまる運転手の労を労うために深く礼をした。どうあれ、わたしのようなもののために働いてもらっているのだから感謝の気持ちはある。
「わ、わたしはこれで失礼します」
「? 持参品がまだのようですがどうしたら良いでしょう?」
嫁入り道具を運ぶ足は荷車だから後からくるはず。
到着したのはわたし一人で、このまま門をくぐっても良いものか判断しかねたし、どう振る舞えばいいかなど教わることもまったくなかったのだ。
「……こ、こちらには参りません。途中で引き返し葵様の嫁入り道具として保管されると聞いております。お荷物はこちらに。では」
助手席に乗せられた少ない荷物を手渡され、運転手がもう関わりたくないとばかりに運転席に慌てて乗り込んでいる。音を立ててドアを閉めると、車が煙を吐いて行ってしまった。呆然とするわたしを残して。
そう……わたしの持ち物はこれしかないのね。
身につけている一枚の高価な着物。荷物の中身は使用人として身につけていた着物に寝巻き。ささやかな化粧道具。だから手荷物に入れろと言われたんだ。
その事実を知ってもなお涙の一粒すら出ない。日々のどんな仕打ちでも泣いたことはしばらくなかった。
わたしは高輪家にとって本当にいらない存在なんだ。
「もし。日向様ではございませんか?」
振り返ると銀髪の老婦人が穏やかに佇んでいた。少し気を遣うように。
「はい。……高輪家の長女、日向でございます。突然のご無礼をお許しください」
「ようこそおいでくださいました。わたくしはこちらにお仕えしているギンコと申します。お話は伺っております。なにもご心配なされませんよう」
老婦人の物言いは穏やかで静かに心に沁みるようだった。
許嫁として嫁入りするはずだった妹がわたしという無能者に交代するあり得ない事実があるのにも関わらず微笑みさえ浮かべてくれている。
「あら。狐の嫁入りですわね。ずっと雨なんて降ってませんでしたのに」
老婦人が空を見遣っていた。つられて見上げると頬に冷たい雫が流れる。快晴にも関わらずしとしとと雨が降り始めた。
雨の少ない季節だというのに。まるでわたしというよそ者が訪れることに拒否を示されているのではと感じてしまう。
「あらあら。せっかくのお着物が濡れてしまいます。当主の元へご案内いたしますのでこちらへ」
導かれるままに足を進める。
門をくぐるとかなり大きな平屋の屋敷が目に映った。
ふと関守石《せきもりいし》があることに気づいたけれど問題はないだろう。それよりも敷地内に足を踏み入れたあたりから陰鬱な気配が体にまとわりついて寒気が走るようだった。
まだ蕾のままでいる梅の花に気づくことも通り過ぎてしまう。そんなことに気を配れるような心はなかったから。
「こちらに当家当主がおります」
大戸口からずっと老婦人の後をついて広いお屋敷の中を歩いた。最後の導きで襖を開ける。
巻木綿(包帯)の向こうにうっすらと人影が見えた。
上月家当主である上月怜弥《こうづきれいや》様がいる。
畳に座して指をつく。叱責されないように所作を正す。畳に手のひらを預け深く深く礼をする。
「高輪家から参りました。日向と申します」
わたしのようなものがなんと言われるか。
だけど何も考えなくていい。
わたしはただ……生きているだけ。
感情はいらない。
心もいらない。
心臓の音だけがわたしのもの。
